第二十二話 名のない滞在者
町の朝は、思ったより早かった。
鐘の音はない。
号令もない。
ただ、
人が動き始める気配が、
ゆっくりと広がっていく。
「……起きてる人、
多いな」
小さく呟くと、
リュシアは窓の外を見た。
「生活は、
名前より先に始まる」
その言葉が、
妙に腑に落ちる。
⸻
宿の一階は、
すでに人で埋まっていた。
旅人。
町の人。
仕事前の短い休憩。
誰も、
僕を特別視しない。
名を聞かれない。
問い詰められない。
「……楽だな」
思わず、
本音が漏れる。
リュシアは、
小さく笑った。
「名がない間は、
役割も薄い」
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給仕の女性が、
水を置いていく。
目が合う。
でも、
それだけ。
「……名を聞かないんだ」
僕がそう言うと、
リュシアは頷いた。
「必要になったら、
聞く」
「必要じゃない間は、
聞かない」
胸の奥が、
少しだけ温かくなる。
⸻
通りに出ると、
町はもう完全に目を覚ましていた。
店が開く音。
布を広げる音。
子どもの笑い声。
夢で見たはずなのに、
どれも、
現実みたいに重い。
「……ここにいると」
言葉を探す。
「自分が、
ちゃんと“いる”感じがする」
リュシアは、
少しだけ歩調を緩めた。
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通りの角で、
小さな騒ぎが起きていた。
箱が倒れ、
中身が散らばっている。
「……あ」
声を上げたのは、
若い女性だった。
年は、
僕より少し下かもしれない。
慌てて拾おうとして、
また落とす。
「手、貸そうか」
言葉は、
自然に出た。
彼女は、
一瞬驚いた顔をしてから頷く。
「……ありがとう」
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二人で拾うと、
すぐに終わった。
彼女は、
ほっと息を吐く。
「助かりました」
それから、
一拍置く。
「……お名前、
聞いてもいいですか?」
胸が、
小さく鳴った。
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断れる。
答えなくてもいい。
でも。
ここでは、
その選択に
“意味”がある気がした。
「……まだ、
決まってなくて」
正直に言う。
彼女は、
目を丸くした。
でも、
すぐに笑う。
「そうなんですね」
驚きは、
そこまでだった。
⸻
「私は、
ミレイです」
名が、
穏やかに置かれる。
エリオのときとは、
違う温度。
「……ミレイ」
口にすると、
少しだけ距離が縮まる。
「名が決まったら」
彼女は、
箱を抱え直す。
「また、教えてください」
押し付けない。
急かさない。
それが、
この町のやり方だった。
⸻
彼女が去ったあと、
胸の奥が、
静かにざわついた。
「……今の」
僕は、
リュシアを見る。
「答えても、
よかったのかな」
リュシアは、
首を振らない。
「答えた」
「答えなかった」
どちらも、
ちゃんと選んだ。
「それが、
滞在者」
⸻
町は、
今日も動いている。
名のある人たちが、
名を使って生きている。
その中で、
名のない僕は、
静かに歩いている。
不安はある。
でも。
この場所で、
名を持たない時間は、
確かに意味を持っている。




