第二十一話 最初の名
声は、思っていたよりも低かった。
遠くから呼ばれたわけじゃない。
すぐそばで、
確かめるように発せられた声。
「……あんた」
一瞬、
胸が跳ねる。
でも、
まだ名は呼ばれていない。
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通りの中央に立っていたのは、
若い男だった。
年は、
僕と近いか、少し下。
旅装でもなく、
完全な町人でもない。
中途半端な立ち位置。
それが、
妙に現実的だった。
「こんな時間に、
その格好で」
男は、
こちらを値踏みするように見る。
敵意はない。
好意もない。
ただ、
判断している目。
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「……迷った?」
問いかけは、
柔らかかった。
答えようとして、
言葉に詰まる。
迷った、
というには違う。
でも、
辿り着いたとも言い切れない。
「……たぶん」
そう答えると、
男は少しだけ笑った。
「だろうな」
納得したように。
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「ここは、
外から来る人が
あまり立たない場所だ」
そう言って、
通りの奥を指す。
灯りが並び、
人の生活が続いている。
「入るなら、
声をかけるのが礼儀だ」
胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
名を交わす直前の音。
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「……名を」
男が、
一拍置いて続ける。
「聞いても?」
空気が、
静かに張り詰める。
断れる。
答えなくてもいい。
でも。
リュシアの言葉が、
胸をよぎる。
――聞かなかったふりは、しないで。
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「……いいよ」
自分でも、
少し驚くほど
落ち着いた声だった。
男は、
小さく頷く。
「俺は」
一拍。
「エリオだ」
名が、
空気に落ちる。
その瞬間。
世界が、
わずかに“固定”された。
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町の音が、
はっきりする。
遠くの話し声。
扉の開く音。
火の弾ける気配。
夢の中の現実が、
一段、現実側に寄った。
「……エリオ」
名を、
繰り返す。
胸の奥が、
温かくなる。
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「で」
エリオは、
こちらを見る。
「あんたは?」
今度は、
逃げ場がなかった。
でも、
怖くはない。
呼ばれる準備は、
もうできている。
「……まだ」
正直に言う。
「名は、
定まってない」
エリオは、
少しだけ目を丸くした。
そして、
笑う。
「そういう人も、
たまにいる」
否定しない。
驚きもしない。
ただ、
受け入れる。
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「なら」
彼は、
通りの奥を指した。
「名が決まるまで、
ここにいるといい」
「町は、
急かさない」
胸の奥で、
鈴が鳴る。
――ちりん。
今度は、
歓迎の音だった。
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リュシアを見ると、
彼女は少し離れた場所で
静かに立っていた。
介入しない。
導かない。
でも、
ちゃんと見ている。
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「……ありがとう」
そう言うと、
エリオは肩をすくめた。
「名を聞いたら、
礼を言われる筋合いはあるけどな」
冗談めかした声。
それが、
この世界の温度だった。
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最初の名は、
こうして交わされた。
世界は、
静かに動き出す。
そして僕は、
まだ名のないまま。
でも。
名を呼ぶ側でも、
呼ばれる側でもない場所に、
確かに立っていた。




