第二十話 名を呼ばれる前に
外縁を越えた先は、
思っていたよりも静かだった。
人の気配は、
もう隠れていない。
けれど、
まだ近づいてこない。
「……妙だな」
僕がそう言うと、
リュシアは周囲を見渡した。
「警戒してる」
「向こうが?」
「お互いに、かな」
⸻
道は、
はっきりと“町”に続いていた。
石畳は整えられ、
建物の輪郭が見える。
窓。
扉。
人が使うための形。
胸の奥が、
強く鳴った。
「……完全に、
現実だな」
リュシアは、
小さく息を吐く。
「夢と現実の区別は」
一拍、置いて。
「名前が交わった瞬間に、
意味を失う」
⸻
通りの向こうで、
誰かが立ち止まった。
こちらを見ている。
距離は、
まだある。
それなのに、
視線がはっきり分かる。
「……見られてる」
そう言った瞬間、
リュシアが、そっと腕を引いた。
「まだ」
短い言葉。
でも、
強い意志があった。
⸻
「……ここで名前を呼ばれると」
僕は、
小さく聞く。
「戻れない?」
リュシアは、
頷かなかった。
首も振らない。
「戻れる」
でも、と続ける。
「ただし」
こちらを見る。
「戻る理由が、
変わる」
胸が、
きゅっと締まる。
⸻
通りの向こうの誰かが、
一歩、こちらへ踏み出す。
その瞬間、
空気が変わった。
世界が、
こちらを“参加者”として
認識した。
鈴の音が、
鳴る。
――ちりん。
今までより、
少し高い。
⸻
「……聞こえた?」
リュシアが、
小さく聞く。
「うん」
嘘はつかなかった。
「これは、
合図だ」
彼女は、
そう言った。
「世界が、
あなたを“呼べる位置”に
置いた」
⸻
その人は、
もうすぐそこにいる。
顔は、
まだはっきり見えない。
でも、
声の形が想像できる。
「……ねえ」
僕は、
足を止める。
「もし」
一拍。
「ここで名前を呼ばれて」
胸に手を当てる。
「怖くなったら、
どうすればいい?」
リュシアは、
少しだけ笑った。
「逃げてもいい」
「答えなくてもいい」
「でも」
声を、
少し落とす。
「聞かなかったふりは、
しないで」
その言葉が、
胸に深く残る。
⸻
通りの向こうの人が、
口を開く。
声が、
こちらに届く直前。
時間が、
一瞬だけ伸びた。
夢の中みたいに。
でも、
確かに現実みたいに。
⸻
僕は、
息を吸う。
まだ、
名は呼ばれていない。
それでも、
もう分かる。
この先で出会う人たちは、
ただの登場人物じゃない。
それぞれが、
自分の名前で、
生きている。
そして、
その中で。
僕もまた――
呼ばれる側になる。




