第十八話 呼ばれなかった声
影が離れたあと、
外縁は少しだけ広くなった。
空気が戻った、
というより――
空白が残った。
「……消えた、わけじゃないな」
僕がそう言うと、
リュシアは静かに首を振った。
「うん」
「呼ばれなかっただけ」
その言い方が、
胸に残る。
⸻
しばらく歩いても、
音が戻らない。
風の気配はあるのに、
何かが欠けている。
「……静かすぎる」
言葉にした瞬間、
微かな揺れが伝わってきた。
音じゃない。
声でもない。
それでも、
“届いている”。
⸻
「……今の」
僕が足を止めると、
リュシアも立ち止まった。
「聞こえた?」
「……分からない」
正直な答えだった。
「声、
みたいだったけど」
リュシアは、
少しだけ困ったように笑う。
「それで合ってる」
⸻
外縁の向こう、
世界に近い場所で、
何かが震えている。
姿はない。
輪郭もない。
「……影とは、違う?」
「違う」
即答だった。
「影は、
選ばれなかった可能性」
「これは」
一拍。
「選ばれなかった関係」
胸が、
静かに締めつけられる。
⸻
「……名前を、
与えなかったのに?」
問いは、
自分に向いていた。
リュシアは、
少しだけ視線を落とす。
「与えなかったからこそ、
残った」
「え?」
「名前を与えると、
存在になる」
「与えなければ」
こちらを見る。
「関係のまま、
残る」
その言葉が、
胸の奥に沈む。
⸻
また、
揺れが伝わる。
今度は、
はっきりと。
「……近い」
そう言うと、
リュシアは頷いた。
「境界の外縁は、
関係を逃がさない」
「触れたものは、
形を変えて残る」
鈴の音が、
小さく鳴った。
――ちりん。
警告でも、
許可でもない。
確認の音だった。
⸻
「……じゃあ」
僕は、
震えのする方を見る。
「これも、
引き受けることになる?」
リュシアは、
すぐには答えなかった。
その沈黙が、
少しだけ長い。
「……関係は」
ようやく、
言葉が落ちる。
「切ることも、
続けることもできる」
「でも」
視線が、
真っ直ぐになる。
「無かったことには、
できない」
⸻
揺れが、
わずかに強くなる。
呼ばれない。
名付けられない。
それでも、
確かに“ここにいる”。
「……ずるいな」
思わず、
呟いていた。
「選ばなかったのに」
胸に手を当てる。
「残るなんて」
リュシアは、
否定しなかった。
「それが、
選択の余波」
⸻
「……どうする?」
彼女が、
静かに聞く。
答えは、
すぐには出ない。
でも。
足は、
止まらなかった。
「……今は」
震えの方を見ながら、
言葉を選ぶ。
「離れない」
「でも」
一拍。
「近づきもしない」
リュシアの目が、
わずかに揺れた。
⸻
揺れは、
それ以上近づかなかった。
遠ざかりもしない。
ただ、
そこに留まる。
鈴の音が、
静かに鳴る。
――ちりん。
それは、
保留を記録する音だった。
⸻
名前を与えなかった。
でも、
何も残らなかったわけじゃない。
外縁は、
その事実を
はっきりと示している。
「……次は」
僕は、
前を見る。
「もっと、
ちゃんと選ばなきゃな」
リュシアは、
小さく頷いた。
「うん」
「次は、
もう少し近いところで」
⸻
外縁の向こうで、
世界が、確かに動いていた。
呼ばれなかった声は、
まだ消えない。
それでも――
前に進むことだけは、
許されている。




