第十七話 影に名前を与えるな
影は、こちらを見ていなかった。
それでも、
確かに“そこにいる”。
人の形に似ている。
でも、人ではない。
「……あれに」
思わず、
声を落とす。
「近づいても、
大丈夫か?」
リュシアは、
即答しなかった。
その沈黙が、
答えだった。
⸻
外縁の空気が、
少しずつ張り詰める。
影は、
逃げない。
攻撃もしない。
ただ、
こちらの存在を
受け取っている。
「……反応してる」
僕がそう言うと、
リュシアは静かに頷く。
「観測されているから」
胸の奥が、
ひくりと鳴る。
⸻
影の輪郭が、
わずかに揺れた。
声にならない音が、
こちらへ滲む。
「……呼ばれてる?」
そう感じた瞬間、
リュシアが一歩前に出た。
「違う」
短く、
強い声。
「呼ぼうとしてる」
その言葉に、
背中が冷える。
⸻
「……名前を?」
問いは、
自然に口をついて出た。
影は、
答えない。
だが、
輪郭が、
こちらに寄る。
「……待て」
リュシアが、
はっきり言う。
「それに、
名前を与えないで」
胸が、
強く鳴った。
⸻
「……どうして」
理由は、
分かりかけている。
それでも、
聞かずにはいられなかった。
リュシアは、
一度だけ目を閉じてから言う。
「名前は、
関係を固定する」
「影は、
まだ可能性」
「そこに名前を置くと」
一拍。
「戻れなくなる」
鈴の音が、
低く鳴った。
――ちりん。
警告だった。
⸻
影が、
さらに近づく。
その姿が、
一瞬だけ重なった。
待合室の住人。
呼ばれなかった存在。
消えかけた輪郭。
「……似てる」
僕が言うと、
リュシアは静かに答える。
「同じじゃない」
「でも」
視線を逸らす。
「同じ場所へ、
行く可能性はある」
⸻
影が、
こちらへ手を伸ばす。
触れれば、
何かが決まる。
そんな感覚。
「……もし」
声が、
かすれる。
「呼んだら?」
リュシアは、
はっきり言った。
「影は、
存在になる」
「でも」
続く言葉が、
重い。
「それは、
あなたが引き受ける存在」
胸が、
締めつけられる。
⸻
「……名前って」
視線を、
影から外せない。
「救いじゃ、
なかったのか」
リュシアは、
小さく首を振る。
「救いにも、
なる」
「でも」
影を見る。
「今は、違う」
鈴の音が、
もう一度鳴る。
――ちりん。
今度は、
選択を迫る音だった。
⸻
影は、
すぐそこにいる。
名前を呼べば、
世界はそれを記録する。
呼ばなければ、
影は影のまま、
やがて薄れる。
「……まだだ」
僕は、
そう呟いた。
声は、
震えていなかった。
⸻
影が、
わずかに揺れる。
不満でも、
怒りでもない。
ただ、
可能性が保留された形。
リュシアが、
静かに息を吐いた。
「……今のは」
「うん」
僕は、
影から目を離さず答える。
「与えなかった」
⸻
外縁の空気が、
少しだけ緩む。
影は、
距離を取った。
消えない。
でも、
近づかない。
「……これでいい」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、
胸の奥で
鈴が鳴った。
――ちりん。
それは、
判断を記録する音だった。




