第九話 観測者の条件
観測点は、完全には消えていなかった。
距離を取っても、
視線のようなものが背中に残る。
「……まだ、見られてる」
僕がそう言うと、
リュシアは小さく息を吐いた。
「うん」
「観測は、
始まったら終わらない」
その言葉に、
胸がわずかに沈む。
⸻
境界を歩きながら、
空気の質が少しずつ変わっていくのが分かった。
重さではない。
圧でもない。
方向だ。
「……進む方向、
決められてないか?」
リュシアは、首を横に振る。
「強制はされない」
「でも」
一拍、置く。
「選ばなかった場所から、
歪みが生まれる」
さっき見た、
あの消え方が脳裏をかすめる。
「……条件って」
僕は、言葉を探しながら聞いた。
「具体的には、何なんだ?」
⸻
観測点から、
再び“意味”が流れ込む。
――介入は禁止。
――干渉は禁止。
「……何もできない、ってこと?」
リュシアは、首を振った。
「違う」
「何もしないことを、
選び続けなきゃいけない」
その矛盾が、
胸に刺さる。
――選択の記録。
――結果の保持。
――改変の拒否。
「……それが、
観測者の条件?」
観測点は、
肯定も否定もしない。
代わりに、
次の意味が重なる。
――感情は、制限しない。
――関係は、禁止しない。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
「それって……」
リュシアが、
ほんの少しだけ表情を曇らせた。
「だから、
危険なの」
⸻
「……見てるだけで」
僕は、足を止める。
「感じることは、
許されてる?」
リュシアは、
しばらく答えなかった。
その沈黙が、
答えに近い。
「……許されてる」
ようやく、そう言った。
「でも」
視線を逸らす。
「感情は、
判断を歪ませる」
胸が、
静かに熱を持つ。
「……それでも?」
リュシアは、
こちらを見る。
「それでも、
世界はあなたを選んだ」
その言葉は、
誇りでも、祝福でもない。
ただの、事実だった。
⸻
遠くで、
歪みがまた一つ生まれる。
小さく、
ほとんど見えない。
「……あれは?」
「選ばれなかった可能性」
淡々とした声。
「誰かが、
答えを先延ばしにした跡」
胸が、きゅっと縮む。
「……僕も、
そうなる?」
リュシアは、
即答しなかった。
「……なるかもしれない」
正直な答えだった。
「でも」
続ける。
「あなたは、
もう“見えて”しまってる」
鈴の音が、
小さく鳴った。
――ちりん。
それは、
警告ではない。
確認でもない。
猶予の音だった。
⸻
「……条件は分かった」
僕は、ゆっくり息を吐く。
「でも」
観測点の方を見る。
「一つ、
聞いていいか?」
意味が、
静かに待つ。
「……もし」
言葉を選ぶ。
「観測者が、
観測をやめたら?」
ほんの一瞬。
境界が、
張り詰めた。
――未定義。
――前例なし。
リュシアの目が、
僅かに揺れる。
「……それは」
「世界が、
いちばん嫌う選択」
胸の奥で、
鈴が鳴った。
――ちりん。
今度は、
低く、長く。
観測者の条件は、
提示された。
だが同時に、
破れば何が起きるか分からない道も
確かに、見えてしまった。




