第一話 胸の高鳴りは、まだ終わらない
目を覚ました瞬間、最初に思ったのは――
温もりが、まだ残っているということだった。
天井は、見慣れた白。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
夢から覚めたはずなのに、胸の奥が静まらない。
鼓動が、早い。
まるで、何かを失った直後のように。
それなのに、何を失ったのか思い出せない。
「……変な夢」
そう呟いて、息を整える。
だが、違和感は消えなかった。
隣。
ほんの少し前まで、誰かがいた。
確信に近い感覚だった。
目を閉じる。
思い出そうとすると、輪郭が曖昧になる。
顔は見えない。
声も思い出せない。
それでも、分かる。
女の子だった。
距離は近く、触れそうで触れない。
指先が、互いの熱を意識するほど。
それだけで、胸が高鳴っていた。
目を開ける。
当然、そこには誰もいない。
現実だ。
なのに、心臓だけが、夢を引きずっている。
「……名前」
なぜか、その言葉が浮かんだ。
呼ばれた気がした。
はっきりと、確かに。
けれど、音としては残っていない。
記憶の中に、意味だけが残っている。
――呼ばれた。
それだけ。
ベッドから起き上がると、足元が少しふらついた。
昨夜、酒を飲んだわけでもない。
洗面所で顔を洗う。
冷たい水が、意識を引き戻す。
鏡に映る自分は、いつも通りだ。
寝癖も、寝不足の顔も、特別な変化はない。
なのに。
「……何か、変わった気がする」
理由は分からない。
ただ、戻れない感覚だけがある。
⸻
外に出ると、朝の空気は澄んでいた。
通勤路。
信号。
すれ違う人々。
すべて、いつもと同じ。
なのに、世界が少しだけ遅れて見える。
音が、半拍ずれる。
足音。
車の走る音。
誰かの話し声。
ほんのわずかだが、確実に。
「……気のせいか」
そう思おうとした、その時。
胸の奥で、鈴のような音が鳴った。
――ちりん。
思わず立ち止まる。
周囲を見るが、誰も気づいていない。
音は、外からではない。
内側だ。
「……今の、何だ?」
再び歩き出そうとした瞬間、視界が揺れた。
風景が、にじむ。
色が、溶け合う。
目を閉じる間もなく、足元が消えた。
⸻
気づいたとき、立っていた。
見知らぬ場所だ。
空は、薄い灰色。
雲でも霧でもない、曖昧な広がり。
地面は、石畳のようで、どこか柔らかい。
「……どこだ、ここ」
声が、やけに遠くに響いた。
夢だと、思おうとする。
だが、息を吸うと、空気の冷たさが喉に触れる。
現実だ。
少なくとも、現実と同じ感触がある。
「……迷い込んだ、のか?」
そう考えた瞬間。
背後から、声がした。
「やっと、気づいたんだね」
振り向く。
そこにいたのは、少女だった。
年は、同じくらいだろうか。
長い髪が、微かに揺れている。
顔を見た瞬間、胸が強く鳴った。
――ああ。
この子だ。
夢の中で、隣にいた。
触れそうで触れなかった、あの存在。
「……君は」
言葉が、続かない。
少女は、少し困ったように笑った。
「やっぱり、覚えてないよね」
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられる。
名前を、知っている気がした。
だが、口に出せない。
「……ここは?」
代わりに、そう聞いた。
少女は、空を見上げる。
「境界」
短い答え。
「夢と現実の、間」
鈴の音が、また鳴った。
今度は、はっきりと。
――ちりん。
少女は、こちらを見る。
真剣な目。
「ねえ」
一拍、置いて。
「あなたは、自分の名前を覚えてる?」
胸の奥が、強くざわついた。
名前。
さっきから、何度も浮かぶ言葉。
「……ああ」
答えようとして、言葉が詰まる。
口を開いても、音にならない。
少女は、静かに言った。
「ここではね」
指先で、自分の胸を示す。
「名前を呼ばれるってことは、
選ぶってことなの」
「……選ぶ?」
「そう」
彼女は、微笑んだ。
優しくて、
どこか、怖い笑顔。
「戻るか、進むか」
「夢だと思って、目を覚ますか」
「それとも……」
一歩、近づく。
距離が縮まるだけで、心臓が跳ねる。
「呼ばれた名前で、生きるか」
鈴の音が、響いた。
逃げ道は、まだある。
だが。
なぜか、分かってしまった。
この選択をしたら、
胸の高鳴りは、もう終わらない。




