007.追跡と覚悟
知識は力であり、同時に代償でもある——。
転生薬師・橘ミサキは、魔獣と向き合い、民衆に知恵を還すことで支持を得るが、その代償として「自分の過去」を削られていく。
第七話では追跡と対峙、そして臨界に達した記憶消失が物語を決定的に動かす。
知ることの価値と失うことの痛みを、どう選ぶのかを見届けてください。
【毎週日曜日投稿予定】
## 第一章: 追跡の始まり
森の中。
焚き火の残り火が、煙を上げている。
私は目を覚ました。体が重い。昨夜の記憶消失の影響が、まだ残っている。
隣で、灰色が丸くなって眠っている。その寝息が、規則正しく聞こえる。
エリカたちも、まだ眠っている。
私は静かに立ち上がり、周囲を見回した。
森は静かだ。
――静かすぎる。
鳥のさえずりが、聞こえない。虫の音も、ない。
まるで、森全体が息を潜めているような。
私は木々の間を歩いた。そして――見つけた。
地面に、足跡。
複数。少なくとも五人以上。
ブーツの痕。深く地面に食い込んでいる。武装している。
斥候だ。
足跡は新しい。まだ土が湿っている。昨夜、私たちが眠っている間につけられたものだ。
そして、足跡は森の奥へと続いている。
位置を確認して、去っていった。
背筋が凍る。
「みんな、起きて!」
私は声を上げた。
エリカたちが飛び起きる。剣を掴む音。足音。
「どうしたの?」
「斥候の足跡。昨夜、ここに来てた」
レオノーラがすぐに足跡を確認する。膝をつき、土を手に取る。
「王国騎士団の靴だ。公爵の追っ手に間違いない」
ルーカスが舌打ちする。
「早いな。もう追いついてきたのか」
マティアスが立ち上がる。
「すぐに出発しよう。ここに留まるのは危険だ」
私たちは急いで荷物をまとめた。
灰色も目を覚まし、警戒するように周囲を見回している。耳を立て、鼻を動かす。
「グランベルまで、あとどれくらい?」
私が聞くと、エリカが地図を広げた。
「順調にいけば、一日半。でも、途中に町が二つある」
「町?」
「ええ。アイゼンベルクとシュタインフェルト。どちらも小さな町だけど、休息と補給には使える」
レオノーラが眉をひそめた。
「だが、公爵の手が回っている可能性が高い」
「それでも、行くしかない」
私は言った。
「このまま森を進んでも、追っ手に追いつかれる。町で情報を集めて、対策を立てる」
「危険よ」
エリカが心配そうに言う。
「わかってる。でも――」
私は灰色を見た。
「私たちには、仲間がいる。一人じゃない」
灰色が、小さく鳴いた。
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## 第二章: 孤立と演説
アイゼンベルクの町。
人口は五百人ほど。グランベルよりも小さい。
町の入口に、大きな掲示板がある。
そこに――貼られていた。
【指名手配】
ミサキ
罪状: 国家反逆罪、王国財産の窃盗
特徴: 黒髪の少女、魔獣を連れている
賞金: 金貨百枚
生け捕り推奨
私の似顔絵が、大きく描かれている。精度は高い。一目で私だとわかる。
「……これは」
エリカが呻いた。
「プロパガンダね。公爵は本気よ」
町の人々が、私たちを見ている。その視線は――冷たい。
一人の男が、私たちに近づいてきた。年齢は四十代。町の衛兵のようだ。
「お前たち、旅の者か?」
「はい。グランベルへ向かっています」
エリカが答える。
男は私をじっと見た。
「……その娘、見たことがあるな」
心臓が跳ね上がる。
「掲示板の、指名手配の――」
その瞬間。ルーカスが男の前に立ちはだかった。
「よく見ろよ。髪の色も違うし、魔獣なんて連れてないだろ?」
灰色は、ルーカスの影に隠れている。
男は疑わしそうに私を見たが、やがて首を横に振った。
「……そうだな。見間違いか」
男は去っていった。
「ありがとう、ルーカス」
「礼はいい。でも、もうこの町には長居できない」
私たちは町の中を急いで進んだ。
でも――。
宿屋の前で、断られた。
「満室だ」
明らかに嘘だ。窓から見える限り、客室はほとんど空いている。
次の宿屋でも、同じ。食料を買おうとした店でも――。
「今日は、売るものがない」
町の人々が、私たちを避けている。
孤立させようとしている。
公爵の手が、すでにこの町にも回っていた。
私は立ち止まった。
深呼吸。
戦うしかない。知識で。
「ミサキ?」
エリカが不安そうに見る。
「大丈夫」
私は町の広場へ向かった。
そこには、井戸がある。町の人々が水を汲んでいる。
私は井戸の前に立った。
「皆さん」
声が震える。でも、大きく。
「少し、お時間をください」
町の人々が、私を見た。何人かは顔をしかめている。
「私は、ミサキです」
ざわめきが広がる。
「指名手配されている者です」
「出て行け!」
一人の若い男が叫んだ。
「お前のせいで、町に迷惑がかかる!」
「お待ちください」
私は手を上げた。
「私は反逆者ではありません。ただ――知識を持っているだけです」
「知識?」
一人の老婆が、首を傾げた。
「はい」
私は井戸を指差した。
「この井戸――最近、ここで病人が出ていませんか?」
町の人々が、顔を見合わせた。
「……確かに、先月、数人が熱を出した」
「娘さんも、倒れたな」
「それは――」
私は井戸に近づいた。
「この井戸が、汚れているからです」
「汚れている? 水は透明だぞ」
「目に見えない汚れがあるんです」
私は説明した。
「井戸の中に、動物の死骸が落ちたり、雨水が土と一緒に流れ込んだりすると、目に見えない小さな生き物が水の中に入ります」
「小さな……生き物?」
「はい。それが体に入ると、病気になります」
町の人々は、疑わしそうに見ている。
「そんなもの、見たことないぞ」
「見えないんです。でも、確かに存在します」
老婆が井戸を覗き込んだ。
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「水を煮沸してください。沸騰させれば、その小さな生き物は死にます」
「煮沸……?」
「火にかけて、ぐつぐつと煮立たせるんです。それから冷まして飲む」
町の人々が、ざわめく。
「本当に、それで病気が防げるのか?」
「はい。私が治療した町では、誰も病気になりませんでした」
「でも――」
若い男が口を挟んだ。
「お前は指名手配されてる。王国が、お前を追ってるんだぞ」
「そうです。でも、なぜ追われているか知っていますか?」
私は掲示板を指差した。
「私が知識を持っているからです。王国の偉い人たちは、その知識を独占したい。でも、私はそれを皆さんと共有したい」
沈黙。
風が、広場を吹き抜けた。
そして――。
「試してみる価値はあるんじゃないか?」
別の男が言った。
「王国の偉い人たちは、俺たちのことなんて気にしちゃいない。税だけ取って、病気になっても助けてくれない」
「そうだ。でも、この娘は、俺たちに知識を教えてくれる」
老婆が私に近づいてきた。
「娘さん、もっと教えてくれるかい?」
「はい。喜んで」
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## 第三章: 知恵の追っ手
夕方。
私たちは町の外れの小屋を借りることができた。町の人々は、食料も分けてくれた。
「ミサキ、すごかったわ」
エリカが笑った。
「知識で、人々の心を動かした」
「でも、これで公爵はさらに――」
その時だった。
町の入口から、騎馬の一団が現れた。
十騎。
先頭に、一人の男が立っている。
年齢は三十代。金髪で、眼鏡をかけている。騎士の鎧ではなく、学者のローブを着ている。
「あれは――」
レオノーラが目を細めた。
「エドガー・フォン・リヒテンシュタイン。元王立学院の教授だ」
「教授?」
「ああ。論理学と戦術学を教えていた。三年前、公爵に仕えるようになった」
「なぜ?」
レオノーラは少し考えてから答えた。
「公爵が、彼の家族を人質に取ったという噂がある。真偽は不明だが――彼は公爵の命令に忠実だ」
エドガーは、町の広場で馬を止めた。
そして――掲示板を見る。それから、井戸のそばにいる町人たちを見る。
町人たちが、何かを作業している。大きな鍋で水を煮沸している。
エドガーの目が、鋭くなった。
「これは――」
彼は馬から降り、町人の一人に話しかけた。
「何をしている?」
「井戸の水を、清潔にする方法を教わったんだ」
「誰に?」
「旅の娘さんに」
エドガーは頷いた。眼鏡を外し、レンズを拭いた。
「そうか。ミサキだな」
町人が驚く。
「あの娘さんが、指名手配の――」
「そうだ」
エドガーは眼鏡をかけ直した。
「だが、彼女は賢い。知識を武器に、民衆の心を掴んでいる」
エドガーは町人に金貨を一枚渡そうとした。
「彼女がどこに行ったか、教えてくれ」
町人は――金貨を受け取らなかった。
「すまないが、俺たちは彼女に恩がある」
エドガーは驚いた表情を見せた。一瞬、眼鏡の奥の目が揺れた。
「……なるほど。知識で、忠誠を得たか」
エドガーは金貨をしまい、馬に戻った。
部下たちに何かを指示している。
そして――町を出ていった。
でも、反対方向に。
「どういうこと?」
ルーカスが首を傾げた。
レオノーラが険しい表情で言った。
「罠だ。エドガーは、私たちが次の町、シュタインフェルトに向かうと読んでいる」
「そして、そこで待ち伏せする気ね」
エリカが言った。
マティアスが腕を組んだ。
「迂回すべきか?」
「いいえ」
私は言った。
「正面から行きます」
「ミサキ!」
「エドガーは、私が民衆の支持を得る方法を理解している。なら、シュタインフェルトでも同じことをする」
私は拳を握りしめた。
「知識で、人々を味方にする」
レオノーラが頷いた。
「わかった。ならば、私たちも準備しよう」
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## 第四章: 記憶の臨界点
翌朝。
シュタインフェルトへ向かう道。
私たちは森を抜けて、街道を進んでいた。
灰色が、私の隣を歩いている。
その時――。
視界に、メッセージが表示された。
【警告: 精神力低下】
【精神力: 35/80 → 28/80】
【原因: 持続的ストレス】
頭が、ずきずきと痛む。
「ミサキ、大丈夫?」
エリカが心配そうに聞く。
「大丈夫……ちょっと、疲れてるだけ」
でも――違う。
精神力が、自然に減っている。追われるストレス、記憶消失の影響、そして――。
何かが、システムに干渉している。
視界の端に、ノイズが走る。一瞬、文字が乱れる。
【ノイズレベル: 22%】
また上がった。
「休憩しましょう」
マティアスが言った。
「無理をすると、倒れる」
私たちは街道脇の木陰で休息を取った。
エリカが水筒を渡してくれる。
「ありがとう」
水を飲む。少し、楽になった。
でも――。
その時、激しい頭痛が走った。
「ぐっ……!」
視界が歪む。
頭の奥で、何かが裂ける音がした。
ガラスが砕けるような、鋭い音。
記憶が、消える。
今度は――会社のオフィスの風景。
デスクの配置。窓から見える景色。コーヒーメーカーの場所。休憩室の椅子。
言葉の輪郭が、煙のように散っていった。
――いや、違う。
もっと大切なものが消えている。
「変数……ステップ……実行条件……」
プログラミングの基本概念。SE時代の思考法。
それが――理解できなくなっていく。
「どういう意味だったっけ……?」
視界にメッセージ。
【記憶消失: 累積20件】
【橘美咲としての記憶: 残存38%】
【アイデンティティ喪失リスク: 58%】
【警告: 臨界点まで残り2%】
【補足: 技術的思考パターンの劣化を検出】
もう、60%が近い。
「ミサキ!」
エリカが駆け寄る。
「また……記憶が……」
「何が消えたの?」
「……オフィス。会社の、風景。それと――」
私は頭を抱えた。
「考え方が……わからなくなってる。前は、問題を分析して、ステップに分けて、解決できたのに」
エリカは私を抱きしめた。
「大丈夫。私が、覚えてる」
「でも、エリカは――」
「あなたの話を、全部聞いてきた。だから、私が覚えてる。あなたが忘れても、私たちが思い出させてあげる」
レオノーラも、マティアスも、ルーカスも、そばに来た。
「私たちが、あなたの記憶を支える」
「だから、諦めないで」
灰色が、私の膝に頭を乗せてきた。
温かい。
そうだ。
私は、一人じゃない。
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## 第五章: 民衆の選択
シュタインフェルトの町。
予想通り、エドガーたちが待ち構えていた。
町の入口で、騎士たちが並んでいる。
でも――。
町の人々も、集まっていた。
アイゼンベルクの町人たちだ。
彼らは、私たちより先にここに来ていた。
「あの娘さんは、悪い人じゃない!」
老婆が叫んでいる。
「彼女は、私たちに知識を教えてくれた!」
若い男も叫ぶ。
「王国は、私たちを守ってくれない。でも、彼女は違う!」
シュタインフェルトの町人たちも、ざわめいている。
でも――全員が賛同しているわけではない。
「でも、国家反逆罪だぞ!」
一人の男が叫んだ。
「この町まで、王国の怒りが及ぶかもしれない!」
「そうだ! 追い出すべきだ!」
町が、二つに割れている。
エドガーは、その様子を静かに見ていた。
彼は馬から降りた。
そして、私の前に立った。
「ミサキ、だな」
「はい」
「君は、賢い。民衆の心を掴む方法を知っている」
エドガーは眼鏡を外し、拭いた。その手が、わずかに震えている。
「私も、かつては君のように考えていた。知識は、全ての人のためにあるべきだと」
「エドガー教授……」
「だが、公爵閣下の命令は絶対だ」
エドガーは眼鏡をかけ直した。その目には、複雑な感情が浮かんでいる。
「私には――守るべき家族がいる。だから、君を連れて行かねばならない」
「それはできません」
「なぜ?」
「私にも、守るべき人たちがいます。グランベルの町の人々、そして――」
私は周囲を見回した。
「この人たちです」
エドガーは、町人たちを見た。
アイゼンベルクの人々、シュタインフェルトの人々。
賛成派も、反対派も。
彼らは、真剣な目で私たちを見ている。
沈黙。
風が、広場を吹き抜けた。
そして――。
「……なるほど」
エドガーは、かすかに笑った。苦い笑みだ。
「君の知識は、武器だけではなく、絆も生み出すのだな」
彼は剣を鞘に収めた。
「今日は、見逃そう」
「エドガー様!?」
部下の騎士が驚く。
「いい」
エドガーは部下を制した。
「これ以上、民衆を敵に回すわけにはいかない。公爵閣下の支配は、民衆の信頼があってこそだ」
エドガーは私を見た。
「だが、次は容赦しない。公爵閣下の命令を果たすために、全力で君を捕らえる」
「わかっています」
エドガーは馬に乗り、部下たちと共に去っていった。
一拍の沈黙。
そして――。
町の人々が、爆発的な歓声を上げた。
「やった!」
「あの娘を守れた!」
反対派だった男たちも、何人かは拍手している。
私は――涙が出そうになった。
知識が、人々を動かした。
これが、私の力。
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## 第六章: 覚悟の境界線
シュタインフェルトで一晩休息を取った。
翌朝、私たちは出発した。
町の人々が、見送ってくれる。
「気をつけてね」
「グランベルに着いたら、また教えに来てね」
「ありがとうございます」
私たちは町を出た。
グランベルまで、あと半日。
街道を進む。
でも――。
午後になって、背後から馬蹄の音が聞こえた。
ドドドドド。
地面が揺れている。
振り返ると――。
大部隊だ。少なくとも五十騎。旗がはためいている。
公爵の本隊だ。
「まずい!」
ルーカスが叫ぶ。
「走れ!」
私たちは走った。
でも、馬には追いつかれる。
「このままじゃ――」
レオノーラが剣を抜いた。
「ここで、食い止める」
「レオノーラ!」
「行きなさい、ミサキ。グランベルへ」
「でも――」
「あなたが捕まれば、全てが終わる」
ルーカスも頷いた。
「俺も残る。二人で、少しでも時間を稼ぐ」
「ダメです! 一緒に――」
「ミサキ」
エリカが私の肩を掴んだ。
「あなたは、逃げるの。それが、彼らの願いよ」
「でも……」
涙が溢れそうになる。
レオノーラが微笑んだ。
「心配するな。私は、簡単には負けない。公爵閣下には、まだ言いたいことがある」
ルーカスも笑った。
「俺も、しぶといぞ。それに――」
彼は私を見た。
「お前が生きてれば、また会える」
二人は、私たちと反対方向に走っていった。
そして――追っ手と激突した。
剣と剣がぶつかり合う音。叫び声。馬のいななき。
私は――走るしかなかった。
エリカとマティアス、そして灰色と共に。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
涙が、頬を伝った。
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## 第七章: 記憶の代償
森の中。
私たちは、ようやく追っ手を振り切った。
息が切れている。心臓が、胸の中で暴れている。
「レオノーラたちは……」
「大丈夫よ。彼らは強い」
エリカが言う。
でも、その声は震えていた。
その時――また、激しい頭痛が走った。
「ぐっ……!」
膝をついた。
頭の中で、何かが砕け散る音。
記憶が、また消える。
今度は――SE時代の最後の記憶。
過労死する直前。
モニターに映るコード。
```
ERROR: Memory allocation failed
FATAL: System crash imminent
```
未完成のプログラム。
エラーメッセージ。
「このバグを、修正しないと……」
そう思いながら、意識が遠のいた記憶。
全て、消えた。
視界にメッセージ。
【記憶消失: 累積25件】
【橘美咲としての記憶: 残存32%】
【アイデンティティ喪失リスク: 65%】
【警告: 臨界点突破】
【精神力: 28/80 → 15/80】
臨界点を、超えた。
そして――新しいメッセージが表示された。
【システム真実開示: レベル1】
【記憶消失60%到達により、以下の情報を開示】
【真実1: 地球情報アクセスシステムは、転生者選別プログラムの一部】
【真実2: 記憶は、異世界の真実にアクセスするための”通貨”】
【真実3: 橘美咲の魂は、システムの”燃料”として使用されている】
【真実4: 観察者は、システムの管理者ではなく――システムの<ERROR: 削除済みの管理者ID>である】
そこで、メッセージが途切れた。
ノイズが走る。画面が砂嵐のようになる。
【ERROR: 情報開示中断】
【外部干渉検出】
【ノイズレベル: 35%】
【警告: 第三者による情報削除を検出】
「ミサキ! しっかりして!」
エリカの声が、遠くで聞こえる。
でも――。
私は、誰?
橘美咲? それとも、ミサキ?
もう、わからない。
前世の記憶は、ほとんど消えた。
でも――。
この世界の記憶は、ある。
エリカの笑顔。グレゴールの厳しい顔。トマスの回復した姿。灰色の温もり。レオノーラの強さ。ルーカスの笑顔。
これが、私の記憶。
これが、ミサキの記憶。
「……私は、ミサキ」
声を絞り出す。
「私は、ミサキとして、生きる」
意識が、少しずつ戻ってくる。
エリカが、泣きながら抱きしめてくれた。
「よかった……」
マティアスも、安堵の表情を見せた。
灰色が、私の顔を舐めてくる。
ありがとう。
みんな、ありがとう。
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## エピローグ: 故郷への帰還
夕方。
森を抜けた。
そして――見えた。
グランベルの町。
懐かしい景色。木造の建物、石畳の道、町を囲む柵。
町の門の前で、人々が待っていた。
グレゴール。
セバスチャン。
トマス。
そして、町の人々。
「ミサキ!」
トマスが駆け寄ってきた。
「おかえり!」
「ただいま、トマス」
グレゴールが、私の肩に手を置いた。その手は、温かく、そして力強い。
「よく、戻ってきた」
「はい」
セバスチャンが笑顔で言った。
「町のみんな、待ってたんですよ。それに――ミサキさんの治療法を、みんなで勉強してました」
町の人々が、拍手してくれる。
帰ってきた。
故郷に。
でも――。
背後から、地鳴りのような音が聞こえた。
ゴゴゴゴゴ。
振り返ると――。
地平線の向こうに、大軍が見える。
旗が、風になびいている。
アルブレヒト公爵の紋章。
双頭の鷲。
夕陽を背に、黒い影のように迫ってくる。
「来たか……」
グレゴールが呟いた。
「ミサキ、町に入りなさい。防衛の準備をする」
「でも――」
「大丈夫だ。私たちも、戦う準備はできている」
町の人々が、武器を手に取った。
農具、斧、弓。
「私たちは、ミサキを守る」
一人の男が叫んだ。
「彼女は、私たちの命を救ってくれた」
「そうだ! 今度は、私たちが守る番だ!」
町の人々が、叫ぶ。
私は――涙が止まらなかった。
こんなにも、支えてくれる人たちがいる。
視界に、メッセージが表示された。
【試練段階: 5/7 継続中】
【次の課題: 故郷の防衛】
【記憶消失: 65% 臨界点突破】
【真実への扉: 40% → 42%】
【警告: 観察者の最終段階が近い】
【補足: 防衛成功には、知識だけでは不十分】
【推奨: 仲間との完全な信頼関係の構築】
そして――。
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森の奥。
観察者が、水晶玉を見つめていた。
月が昇り始め、森に青白い光を落としている。
「ついに、臨界点を超えたか」
観察者の声は、冷たい。機械的だ。
「システムの真実が、少しずつ開示される」
水晶の中に、ミサキの姿が映っている。
町の人々に囲まれ、涙を流している姿。
「だが――まだ足りない」
観察者は、別の水晶を取り出した。
黒い水晶。その中で、何かが蠢いている。
「次は、故郷を守れるか」
「仲間を失う痛みに、耐えられるか」
「そして――自分自身の真実に、気づけるか」
観察者は、水晶を闇に放った。
水晶が空中で砕け、黒い霧となって広がる。
その霧は、グランベルの方角へと流れていった。
【試練段階: 5/7 → 6/7 移行準備】
【次の試練: 故郷防衛戦と究極の選択】
【推定: 記憶消失80%到達】
【最終段階: 記憶完全消失時、真実の全貌が明らかになる】
【補足: 防衛戦で重要人物の犠牲が発生する確率87%】
観察者は、消えていった。
背後の影が、また動いた。
複数の顔が重なり合っている。
老人の顔。若者の顔。子供の顔。
そして――橘美咲の顔。
その顔が、少しずつ変化している。
ミサキの顔に。
輪郭が融合していく。
「……もうすぐ……」
影が、呟いた。
「……私たちは……一つになる……」
「……お前が……私になる……」
その声は、どこか悲しげで――。
そして、影は再び闇に溶けていった。
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王都ヴェルデンブルク。
アルブレヒト公爵の執務室。
窓から、夕陽が差し込んでいる。
公爵は、地図を見つめていた。
グランベルを示す位置に、駒が置かれている。
「もうすぐだ」
公爵が呟いた。
「もうすぐ、お前を手に入れる。ミサキ」
クラウスが入ってきた。
「公爵閣下、レオノーラとルーカスを捕らえました」
「そうか。殺すな。牢に入れておけ」
「はっ」
公爵は地図から目を離さない。
「エドガーからの報告は?」
「民衆がミサキに味方していると」
「ふむ……厄介だな」
公爵は拳を握りしめた。
「だが、構わん。グランベルを包囲し、兵糧攻めにする。民衆の支持も、飢えには勝てん」
「では、総攻撃は?」
「三日後だ。それまでに、ミサキが降伏すれば、町の人々は助ける」
公爵は窓の外を見た。
夕陽が、王都を赤く染めている。
「私は――この国を守りたいだけなんだ」
その声は、どこか空しかった。
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第七話 完
次回: 第八話「故郷防衛戦」
公爵の大軍が、グランベルを包囲する。三日間の兵糧攻め。町の人々と共に戦うミサキ。しかし、記憶消失はさらに進行し、精神力は限界に。そして、究極の選択が迫る――仲間の命か、自分の記憶か。システムの真実が、さらに明らかになる。
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今回の章では「人は何を守るために戦うのか」を意識しつつ、記憶の喪失という個人的な危機を通じて集団の絆が試されます。エドガー教授の一拍の判断と民衆の分裂は、力と信頼の関係を象徴しています。次回は故郷防衛戦――ミサキの選択がより厳しい代償を伴って問われます。
読んでくださり、ありがとうございます。




