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006.真意と裏切り

王都の広場で示された、小さな奇跡と大きな決断の瞬間。

知識と信頼がぶつかり合う場面を一枚に切り取りました。

夕陽の暖色と冷たいUIの光が、ミサキの選択の重さを映しています。

【毎週日曜日投稿予定】

## 第一章: 鎮静薬の完成



研究施設での二週間が過ぎた。


私は毎日、魔獣たちのデータを集め、分析を繰り返していた。


檻の中の狼。名前は、つけていない。つけてしまえば、情が移る。でも――心の中では、「灰色」と呼んでいた。


灰色は最初、私を見るたび唸り声を上げていた。でも、今は違う。


私が近づくと、耳を立てて様子を見る。攻撃はしない。


「今日も、サンプルを取らせてね」


檻越しに、そっと手を伸ばす。





灰色は警戒しながらも、少しずつ近づいてきた。鼻先が、私の手に触れる。


温かい。


生きている。


この温もりを、兵器にするなんて――絶対に許さない。


私は毛のサンプルを採取し、分析装置にかけた。


【物質分析: 魔獣の毛(14日目)】

【攻撃性ホルモン: 前回比72%】

【ストレスホルモン: 前回比58%】

【精神力: 45/80 → 36/80】


また減った。


頭痛が走る。こめかみを押さえる。視界の端が、わずかに揺れる。


でも――数値は改善している。


試作した鎮静薬を、餌に混ぜて与えてから一週間。灰色の攻撃性は、明らかに下がっている。


「ミサキ」


背後から声がした。振り返ると、公爵が立っていた。その影が、床に長く伸びている。


「進捗はどうだ?」


「順調です。もうすぐ、完成します」


私は嘘をついた。いや、半分は本当だ。鎮静薬は完成に近い。でも、公爵が求める「制御薬」とは全く違う。


「そうか。期待しているぞ」


公爵は灰色の檻を見た。


「この狼、以前より大人しくなったな」


「ええ。薬の効果です」


「いい傾向だ。だが、まだ足りない」


公爵は私の肩に手を置いた。重い。指先に、力が込められている。


「私が求めているのは、大人しい魔獣ではない。命令に従う兵器だ。理解しているな?」


喉が渇く。


「はい」


「三日後、実戦テストを行う。この狼に命令を下し、従わせるところを見せてもらう」


実戦テスト……


「もし失敗すれば――」


公爵の目が、冷たくなった。


「お前の仲間たち――グランベルの村に、私の兵を向けることになるかもしれんな。薬師ギルドへの襲撃命令、出すのは簡単だ」


グレゴールの顔が脳裏に浮かぶ。セバスチャンの笑顔。トマスの回復した姿。


守らなければ。


公爵は去っていった。


私は灰色を見た。


三日後。


どうすればいい?


-----


## 第二章: 十年前の記録



その夜、私はマティアスの部屋を訪ねた。


薬師ギルド本部の一角。古い書物が並ぶ書斎。蝋燭の明かりが、壁に影を踊らせている。


「ミサキ殿、どうした? 顔色が悪いぞ」


マティアスが心配そうに椅子を勧めてくれた。


「公爵から、三日後に実戦テストを要求されました」


「ふむ……」


マティアスは顎に手を当てた。


「それで、相談に来たのか」


「いえ、それもありますが――観察者について、何か知りませんか?」


マティアスの表情が変わった。指先が、わずかに震えた。


「観察者……その名を、どこで?」


「視界に表示されるメッセージで。私の能力を監視している存在です」


私は、これまでのメッセージについて説明した。試練、評価、真実への扉――。


マティアスは静かに聞いていた。そして、ゆっくりと立ち上がり、書棚から一冊の古い本を取り出した。


表紙には埃が積もっている。布で拭うと、古代文字が現れた。判読できない。


「これを読みなさい」


「これは?」


「十年前の魔獣大戦の、秘密記録だ」


マティアスはページを開いた。


羊皮紙の黄ばんだページに、古い文字が並んでいる。そして――戦場を描いた挿絵。


無数の魔獣が、突然森から溢れ出した。数は数千。町を襲い、人々を殺した。


王国騎士団が出動し、三ヶ月に及ぶ戦いの末、ようやく鎮圧した。


死者は、五千人以上。


「レオノーラの家族も、この戦いで亡くなった」


マティアスが静かに言った。


「だが――この記録には、もう一つの真実が書かれている」


マティアスは別のページを指差した。


そこには、目撃証言が記されていた。


『その日、森の奥から黒き影が現れた。フードを深く被り、顔は見えず。その手には、赤き光を放つ水晶――』


文字が震えて書かれている。書いた者の恐怖が、伝わってくる。


『影が水晶を掲げた瞬間、獣たちが一斉に動き出した。まるで、糸で操られる人形のように――』


背筋が凍る。


「魔獣たちは、誰かに操られていた」


マティアスの声が、低くなった。


「目撃者の証言がある。そして――この挿絵を見なさい」


次のページには、一枚の絵が描かれていた。


黒いフードを被った人物。その手には、赤く光る水晶。


そして――その背後に、巨大な影。


人の形をしているが、どこか歪んでいる。まるで、複数の人間が重なり合っているような――。


その影の輪郭が、ぼやけて揺れている。


「これが、観察者だ」


「なぜ、そんなことを……」


「わからん。だが――」


マティアスは本を閉じた。


「十年前から、その存在は確認されていた。だが、正体は不明のままだ」


「王国は、この記録を封印したのですか?」


「ああ。パニックを避けるため。そして――」


マティアスは私を見た。


「操られていた、という事実を認めれば、王国の無力さが露呈する。それを避けたかったのだ」


政治的判断。





「そして、アルブレヒト公爵も、この記録を知っている」


「公爵が?」


「ああ。彼は当時、騎士団の一員だった。最前線で戦い、その惨状を目の当たりにした」


マティアスは窓の外を見た。月明かりが、彼の白い髪を照らしている。


「だから、公爵は魔獣を恐れている。そして――魔獣を支配したいと考えている。二度と、あの悲劇を繰り返さないために」


恐怖から生まれた野望。


「でも、それが正しい方法とは思えません」


「私もそう思う」


マティアスは頷いた。


「だが、公爵にとっては、これが唯一の道なのだ。彼の心には――深い傷がある」


-----


## 第三章: エリカの過去



翌日、私はエリカと街を歩いていた。


王都の市場。活気がある。商人たちの声、子供たちの笑い声。


でも、その裏路地では、物乞いが座り込んでいる。


「エリカ」


「ん?」


「あなた、本当は何者なの?」


エリカは少し驚いた顔をした。足を止める。


「え? 受付嬢だけど」


「嘘。戦場指揮ができる受付嬢なんていない」


エリカは笑った。でも、その笑顔には影がある。


しばらく沈黙が続いた。市場の喧騒だけが、遠くで響いている。


「バレてたか」


「最初から、なんとなくわかってた」


エリカは立ち止まった。


「私はね――元騎士団員なの」


やっぱり。


「十年前の魔獣大戦で、私も戦った。当時は十八歳」


エリカの目が、遠くを見ている。焦点が合っていない。


「私の部隊は、最前線だった。仲間が次々と倒れていく。魔獣の牙に、爪に、噛み殺されていく」


声が震えている。


「そして――あの日」


エリカは拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込んでいる。


「命令が下った。『陣地を守れ』と。でも、魔獣の数は多すぎた」


「エリカ……」


「私は――逃げた」


その言葉が、空気を震わせた。


「命令を無視して、戦場から逃げたの。怖くて、怖くて、足が勝手に動いた」


エリカは涙を堪えている。


「そのせいで、私の部隊は全滅した。もし私が残っていれば、誰か一人でも救えたかもしれないのに」


「エリカ……」


「それから、私は騎士団を除隊した。いや、事実上のクビね。そして、ギルドの受付嬢になった」


一拍の沈黙。


風が、二人の間を通り抜けた。


「でも、あの日から――戦場の悪夢を見続けてる。仲間の顔、叫び声、血の匂い」


涙が、一筋流れた。


「だから、あなたを見たとき――放っておけなかった」


「どういう意味?」


「あなたは、戦わずに戦ってる。知識で、知恵で。それが――私にはまぶしかった」


エリカは涙を拭った。


「もし私にも、あなたみたいな力があれば、仲間を救えたかもしれない」


私はエリカの手を握った。





「エリカは、十分戦ってる。今も、私を助けてくれてる」


「ありがとう」


二人で、しばらく歩いた。


市場の喧騒が、少しずつ遠のいていく。


-----


## 第四章: 公爵の告白



実戦テストの前日。


公爵が私を呼び出した。


場所は、屋敷の最上階。広いバルコニー。


そこから、王都全体が見渡せる。夕陽が、建物を赤く染めている。


「明日のテスト、準備は整ったか?」


「はい」


嘘だ。鎮静薬は完成したが、命令に従わせる薬ではない。


公爵は、王都を見下ろした。


「美しい街だ」


「……はい」


「だが、脆い」


公爵の声が、低くなった。


「十年前、私は地獄を見た」


十年前。


「魔獣の群れが、町を襲った。私は騎士団の一員として戦った」


公爵は拳を握りしめた。


「だが――無力だった。剣では、魔法では、魔獣の数に対抗できなかった」


「それで――」


公爵は、目を閉じた。


「私の妻と娘が、死んだ」


私は息を呑んだ。


沈黙。


風だけが、バルコニーを吹き抜けていく。


「――あの日、赤い空の下で」


公爵の声が、震えた。


「娘の小さな手が、冷たくなっていくのを感じた。妻は娘を庇って――最期まで、娘の名を呼び続けていた」


公爵の目から、一筋の涙が流れた。


「守れなかった。私は最前線で戦っていた。だが、後方の町が襲われたとき――間に合わなかった」


家族を失った。


レオノーラと同じ。エリカと同じ。


「だから、私は誓った。二度と、あんな悲劇を起こさせない」


公爵は私を見た。その目には、絶望と決意が混ざっている。


「魔獣を支配する。力で、薬で、何を使ってでも。そうすれば、誰も失わずに済む」


「でも――」


「わかっている。お前は、私のやり方が残酷だと思っている」


公爵は笑った。苦い笑みだ。


「だが、優しさだけでは、世界は守れない。力が必要なんだ」


私は、何も言えなかった。





公爵の痛みが、伝わってくる。


でも――。


「公爵、一つ聞いてもいいですか?」


「何だ?」


「観察者を、知っていますか?」


公爵の表情が、一瞬凍りついた。


呼吸が止まる。


「……どこでその名を」


「答えてください」


公爵は沈黙した。


夕陽が、さらに沈んでいく。


そして――。


「知っている」


やはり。


「十年前、森で見た。黒いフードの人物。水晶を掲げ、魔獣を操っていた」


「なぜ、それを隠したんですか?」


「言っても信じられないからだ。それに――」


公爵は空を見上げた。


「その存在を公にすれば、パニックになる。王国は崩壊する」


「だから、魔獣を支配しようと?」


「そうだ。観察者が再び現れたとき、対抗できる力を持つために」


公爵は私に近づいた。


「お前の能力――それも、観察者と関係があるのではないか?」


心臓が跳ね上がる。


「なぜ、そう思うんですか?」


「直感だ。お前の知識は、この世界のものではない。まるで――別の世界から来たかのような」


鋭い。


「だから、お前を手に入れたかった。お前の力があれば、観察者に対抗できる」


公爵の目が、真剣だった。


「協力してくれ、ミサキ。私は――この国を、守りたいだけなんだ」


公爵の真意。


それは、復讐でも野望でもなく――守りたいという思いだった。


でも、その方法が間違っている。


「公爵」


「何だ?」


「私にも、守りたいものがあります」


私は灰色のことを思った。


「だから――明日のテスト、やり方を変えさせてください」


-----


## 第五章: 裏切りの実戦



翌日。


研究施設の中央広場。


公爵、騎士団の幹部たち、そして貴族たちが集まっていた。


観客席には、五十人以上。ざわめきが、空気を揺らしている。


中央には、灰色の檻が置かれている。


「さあ、始めろ」


公爵の命令。


私は檻の前に立った。


灰色が、私を見ている。


ごめんね。


心の中で謝る。


檻が開けられる。


金属音が、広場に響いた。


灰色が、ゆっくりと出てきた。周囲を警戒している。耳を立て、鼻を動かしている。


騎士たちが、剣を構える。金属の擦れる音。


観客席のざわめきが広がる。


「大丈夫なのか?」「逃げ出したらどうする?」


「静粛に」


公爵の一声で、場が静まり返った。


「ミサキ、命令を下せ」


公爵の声。


私は――深呼吸をした。


その瞬間、視界に検索画面が開いた。


【物質分析: 魔獣のフェロモン】

【検索時間: 約25秒 消費: 11】

【精神力: 36/80 → 25/80】


情報が流れ込んでくる。


魔獣の体表から分泌されるフェロモン。恐怖を感じると分泌量が増加し、仲間に警戒信号を送る。


逆に――リラックスしたフェロモンも存在する。


私は近くにあった薬草を手に取った。


「何をしている?」


公爵が訝しむ。


「少々お待ちください」


私は薬草を素早くすり潰し、別の樹液と混ぜ合わせた。


【調合: 鎮静フェロモン模倣物質】

【検索時間: 約30秒 消費: 13】

【精神力: 25/80 → 12/80】


頭痛が走る。でも、手を止めない。


調合が完成した。淡い緑色の液体。


私はそれを、自分の手に塗った。


「灰色」


名前を呼んだ。


灰色が、耳を立てた。


観客席から「まさか…」という声が漏れる。


私は手を差し出した。


灰色は――警戒しながらも、ゆっくりと近づいてきた。


鼻先が、私の手に触れる。


そして――。


灰色の目が、柔らかくなった。


成功だ。


フェロモンの効果で、灰色はリラックスしている。


「お座り」


シンプルな命令。


灰色は――座った。


観客席が、どよめいた。


「本当に従った!」「信じられない!」


貴族たちが、席から身を乗り出している。





「立て」


灰色は立ち上がった。


「歩け」


灰色は、私の指示した方向に歩いた。


観客席が、さらにざわめく。


成功だ。


でも――これは「制御」ではない。ただの「信頼」と「科学」だ。


「素晴らしい!」


公爵が拍手をした。周囲も拍手する。


「これで、魔獣を兵器にできる!」


違う。


「公爵、一つ言わせてください」


私は大きな声で言った。


拍手が止まる。


観客席が、静まり返った。


「この薬は、制御薬ではありません」


「何?」


公爵の顔が、険しくなる。


「これは、鎮静薬です。魔獣の攻撃性を抑え、穏やかにする薬です」


「お前――!」


「灰色が命令に従ったのは、薬だけのおかげではありません」


私は灰色の頭を撫でた。


灰色は、目を細めた。尻尾が、わずかに揺れている。


「信頼関係があるからです。そして――科学があるからです」


私は手を掲げた。緑色の液体が、光に反射している。


「魔獣も、生き物です。恐怖と痛みで支配するのではなく、理解し、共存する道を探すべきです」


「貴様、私を騙したのか!」


公爵が叫んだ。


騎士たちが、一斉に剣を抜く。


金属音が、広場に響き渡る。


「ミサキを捕らえろ!」


予想通りだ。


その瞬間――。


施設の扉が爆発した。


-----


## 第六章: 反乱と混乱



煙が立ち込める。


扉から、ルーカスと地下組織のメンバーたちが飛び込んできた。


「ミサキ、こっちだ!」


ルーカスが手を伸ばす。


私は灰色を連れて、走った。


「逃がすな!」


騎士たちが追ってくる。足音が、背後で響く。


でも――レオノーラが立ちはだかった。


剣を抜き、構える。


「これ以上は、通さない」


「レオノーラ、貴様も裏切ったのか!」


公爵が叫ぶ。


レオノーラは、一瞬目を伏せた。


葛藤。


「――裏切りではありません」


レオノーラは顔を上げた。その目には、決意が宿っている。


「公爵閣下の痛みは理解しています。ご家族を失われた悲しみも」


「ならば、なぜ!」


「だからこそです」


レオノーラの声が、震えた。


「閣下は、その痛みゆえに間違った道を進んでおられる。このままでは、国が滅びます」


「黙れ!」


騎士たちが襲いかかる。


剣と剣がぶつかり合う音。火花が散る。


レオノーラは一人で、五人の騎士を相手にしている。


「早く行きなさい、ミサキ!」


私は、灰色と共に施設を抜け出した。


外では、エリカとマティアスが馬車を用意していた。


「早く!」


馬車に飛び乗る。灰色も一緒に。


馬車が走り出す。


背後から、騎士たちが追ってくる。馬蹄の音が近づいてくる。


「このまま、王都を出るわ!」


エリカが手綱を引く。


馬車は、王都の門に向かって疾走した。





でも――。


門が閉まっている。


「まずい!」


「大丈夫、任せて!」


ルーカスが馬車から飛び降りた。


彼は懐から何かを取り出し、門の仕掛けに投げつけた。


爆発。


門が開く。煙が立ち昇る。


「行け!」


ルーカスが叫ぶ。


馬車は門をくぐり抜けた。


王都から、脱出した。


でも――。


視界に、メッセージが表示された。


【警告: 計画外の行動】

【試練段階: 混乱検出】

【公爵との対立は予定より早い】

【評価: 自由意志による逸脱を確認】

【観察者の介入を検討中】

【真実への扉: 45% → 40%】


下がった……?


そして――新たなメッセージ。


【補足: 真実に近づくたび、代償が増加する】

【記憶消失は偶然ではない】

【橘美咲の記憶を消費して、この世界の真実を得ている】

【知識の交換――それがシステムの本質】


記憶と真実の交換……?


-----


## 第七章: 記憶の崩壊



夜。


森の中で、私たちは休息を取っていた。


焚き火の周りに、エリカ、マティアス、ルーカス、レオノーラ。


そして、灰色。


レオノーラは、肩に傷を負っていた。布で巻いているが、血が滲んでいる。


「レオノーラ、大丈夫?」


「問題ない。かすり傷だ」


でも、彼女の顔には疲労の色が濃い。


「公爵閣下を裏切ることは――簡単ではなかった」


レオノーラが呟いた。


「閣下には、恩がある。十年前、私が家族を失ったとき、騎士団に入れてくださったのは閣下だった」


「それでも、あなたは正しい道を選んだ」


マティアスが言った。


「それは、勇気だ」


ルーカスも頷いた。


「公爵には、俺も恩がある。だが、このままでは国が戦争に巻き込まれる」


「これからどうする?」


レオノーラが聞いた。


「グランベルに戻ります」


私は言った。


「そこで、鎮静薬の製法を公開します。誰でも作れるように」


「公爵は、必ず追ってくる」


マティアスが心配そうに言った。


「わかっています。でも――」


その時だった。


突然、激しい頭痛が走った。


「ぐっ……!」


頭を押さえる。


視界が歪む。焚き火の光が、ぐにゃりと曲がる。


また、記憶が消える。


「ミサキ!」


エリカが駆け寄る。


でも、声が遠い。水の中で聞いているような――。


脳の奥で、何かが砕ける音がする。


母の声が、消えた。


父の笑顔が、消えた。


家の間取りが、消えた。


会社の同僚の名前が、消えた。


前世の、大切な記憶が――次々と消えていく。


視界に、メッセージが表示される。


【記憶消失: 累積15件】

【アイデンティティ喪失リスク: 51%】

【警告: 危険域突入】

【橘美咲としての記憶: 残存43%】

【ミサキとしての記憶: 安定】

【補足: 前世との結びつきが急速に失われている】

【原因: 公爵の真意という『真実』に接近したため】


もう、半分以上が消えた。


「ミサキ、しっかりして!」


エリカが私を揺さぶる。


「私……私は――」


誰だ?


橘美咲? それとも、ミサキ?


どちらが本当の自分なのか、わからなくなってきた。


「エリカ……教えて」


声を絞り出す。


「私は、誰?」


エリカの目に、涙が浮かんだ。


彼女は私の両手を握りしめた。温かい。


「あなたは、ミサキよ。私たちの仲間。大切な、仲間」


仲間。


その言葉が、心に染み込んだ。


「グランベルで病を治した、あなた」


マティアスが言った。


「赤目の群れから町を救った、あなた」


レオノーラが言った。


「灰色に優しさを示した、あなた」


ルーカスが言った。


灰色が、私の膝に頭を乗せてきた。温かい。


そう。


私は、ミサキ。


前世の記憶は消えても、今ここにいる私は――。


「私は、ミサキ」


意識が、少しずつ戻ってくる。


でも――前世の記憶は、もう霧の中だ。


私は、もう橘美咲ではない。


ミサキとして、生きていくしかない。


「ありがとう、みんな」


エリカが抱きしめてくれた。


「これからも、一緒よ」


焚き火が、暖かく燃えている。


仲間たちの顔が、光に照らされている。


この人たちと、生きていく。


それが、今の私の道。


-----


## エピローグ: 観察者の暗躍



その夜。


森の奥深く。


観察者が、水晶玉を見つめていた。


月明かりが、黒いフードを青白く照らしている。


「計画が、狂った」


観察者の声は、冷たい。機械的だ。


「ミサキが、予定より早く公爵と決裂した。これでは、試練の段階が崩れる」


水晶の中に、ミサキの姿が映っている。


焚き火の周り。仲間たちに囲まれた、ミサキ。


「だが――興味深い」


観察者は、かすかに笑った。


「彼女は、自分の意志で動いている。システムの誘導を超えて」


水晶が、赤く光る。


「記憶を失っても、彼女は選び続ける。仲間を、正義を、優しさを」


観察者は立ち上がった。


「ならば、次の試練を早めよう」


観察者は、別の水晶を取り出した。


黒い水晶。その中に、何かが蠢いている。


「公爵を使う。彼に、新たな情報を与える」


観察者は、その水晶に触れた。


黒い霧が、水晶から溢れ出す。


「ミサキの正体。異世界からの転生者であること。そして――彼女の能力の秘密」


霧が、観察者の周りを渦巻く。


「さらに――」


観察者は、もう一つの水晶を取り出した。


透明な水晶。その中に、映像が浮かんでいる。


グランベルの町。薬師ギルド。人々の笑顔。


「彼女の大切な場所を、脅かす」


観察者は、その水晶を闇に放った。


水晶が、森の奥へと飛んでいく。


「さあ、次の舞台は整った」


【試練段階: 4/7 → 5/7 強制移行】

【新たな試練: 正体の露呈と追跡】

【公爵に情報提供完了】

【推定: 全面戦争へ発展】

【ミサキの選択: 戦うか、逃げるか、それとも――】

【補足: 記憶消失が60%に達した時、システムの真実が開示される】


観察者は、森の奥へと消えていった。


その背後で――巨大な影が動いた。


人の形をしているが、どこか歪んでいる。


複数の顔が、重なり合っている。


老人の顔。若者の顔。子供の顔。


そして――。


一つの顔が、はっきりと浮かび上がった。


橘美咲の、顔だった。


でも、その表情は――無機質で、冷たい。


まるで、感情を失った人形のような。


影の口が、動いた。


「……ミサキ……」


声が、森に響く。


「……お前は……私……」


その声は、どこか悲しげだった。


そして、影は再び闇に溶けていった。


月が雲に隠れ、森は完全な暗闇に包まれた。


遠くで、鳥が一声鳴いた。


-----


王都の屋敷。


公爵の執務室。


扉がノックされる。


「入れ」


クラウスが入ってきた。手に、黒い水晶を持っている。


「公爵閣下、これを」


「何だ?」


「先ほど、窓から飛び込んできました」





公爵は水晶を受け取った。


その瞬間――水晶が光り、映像が浮かび上がった。


ミサキの姿。


そして――彼女の能力を使う場面。


視界に浮かぶ、半透明のウィンドウ。


地球の情報が表示されている。


「これは……」


公爵の目が、見開かれた。


映像は続く。


ミサキが転生した瞬間。神様との会話。


「異世界から……転生者……」


公爵の手が、震えた。


「そして、この能力――地球の情報にアクセスできる……」


映像が消える。


代わりに、文字が浮かび上がった。


『彼女を手に入れれば、全ての知識を手に入れる』

『彼女を殺せば、観察者が動く』

『選べ、アルブレヒト』


公爵は、水晶を握りしめた。


「ミサキ……お前は、そんな存在だったのか」


公爵の目に、狂気が浮かんだ。


「ならば――絶対に、手に入れる」


公爵はクラウスに命じた。


「全軍に告げろ。ミサキを追え。生け捕りにしろ」


「はっ」


クラウスが去る。


公爵は窓の外を見た。


月が雲から現れ、王都を照らしている。


「観察者よ――お前の思惑通りにはいかん」


公爵は拳を握りしめた。


「ミサキを手に入れ、お前を倒す。そして――」


彼の目に、妻と娘の幻影が浮かんだ。


「二度と、誰も失わせない」


-----


森の中。


焚き火の周り。


ミサキは、仲間たちと話している。


でも――彼女は気づいていなかった。


遠くで、何かが動いていることを。


黒い影が、木々の間を移動している。


公爵の斥候だ。


彼らは、ミサキたちの位置を確認し、静かに去っていった。


-----


第六話 完

次回: 第七話「追跡と覚悟」


正体が露呈したミサキに、公爵の追っ手が迫る。グランベルへの帰路で待ち受ける罠。仲間を守るため、ミサキは大きな決断を迫られる。そして――消えゆく記憶の中で、彼女が最後に守ろうとするものとは。記憶消失60%――その時、システムの真実が明かされる。

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ご覧いただきありがとうございます。

第6話は知識の使い方と代償が試される物語の核心です。

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