003.薬師ギルドと知識の光
異世界で知識を武器に戦う元システムエンジニア、橘ミサキの物語。
第3話では、薬師ギルドでの治療と対立、そして観察者からの新たな試練が描かれます。
理論と現場の衝突、そして小さな光が生む希望をぜひお読みください
第一章:白い壁の向こう
翌朝。
エリカに連れられて、私は町の北部へと向かった。
石畳の道を歩く。普段は賑やかなはずの通りが、妙に静かだ。店の扉は閉ざされ、窓のカーテンが引かれている。道端には誰もいない。
まるで、町全体が息を潜めているようだ。
「人が少ないですね」
「病を恐れて、家に閉じこもってるのよ」
エリカは前を向いたまま答えた。
「感染を防ぐために正しい行動だけど、経済は止まる。食料が届かなくなれば、病以外でも人が死ぬ。時間がないのよ」
道の角を曲がると、白い石造りの建物が見えた。
三階建て、窓が多く、屋根には薬草を象徴する杖と蛇の紋章が掲げられている。
薬師ギルド。
入口の前には、数人の衛兵が立っている。槍を持ち、顔には布を巻いている。
「通行証を」
衛兵の一人が手を出した。
エリカが羊皮紙を見せる。衛兵はそれを確認し、頷いた。
「どうぞ。ただし、病棟には近づかないでください」
「わかってるわ」
扉が開く。
中に入ると、薬草の匂いが鼻をついた。苦く、少し酸っぱい。アルコールのような匂いも混ざっている。そして、その奥に――かすかな腐敗臭。
広いロビー。中央に大きな机があり、その向こうには棚が並んでいる。棚には無数の瓶や袋が並び、それぞれにラベルが貼られている。
「お待ちしておりました」
声がした。
振り返ると、そこには白いローブを着た老人が立っていた。
年齢は七十代くらいか。白髪と白い髭。背中は少し曲がっているが、目は鋭い。そして――疲弊している。目の下には深いクマがあり、顔色も悪い。
「私は薬師ギルドの長老、グレゴール・フォン・アルトハイムです」
「冒険者ギルドのエリカです。こちらが、依頼を受けたミサキ」
「……若いですね」
グレゴールは私を値踏みするように見た。その目には、期待と――懐疑が混ざっている。
「記憶を失っているそうですが、薬の知識があると?」
「はい。夢で、色々な知識を見るんです」
「夢、ですか」
グレゴールは眉をひそめた。そして、小さく溜息をついた。
「私は神を信じている。しかし、神は愚か者を救わぬとも知っている」
その言葉には、重みがあった。長年、信仰と現実の間で葛藤してきた男の言葉だ。
「結果を出せるなら、手段は問いません。ついてきなさい。患者を見せます」
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## 第二章:見えない敵
長い廊下を歩く。
両側には扉が並び、その向こうから呻き声が聞こえてくる。
この音は、知ってる。嫌というほど。
過労死する前の会社。深夜のオフィスで、体調を崩した同僚の呻き声。誰も助けなかった。私も、助けられなかった。
「現在、患者は三十七名。昨日からさらに五名増えました」
グレゴールが説明する。
「初期症状は高熱。四十度近くまで上がります。その後、呼吸困難と発疹が現れる。発疹は体中に広がり、水疱になる」
私は脳内で知識の書庫を開く。
「高熱 呼吸困難 発疹 水疱」
『精神力:100/100 → 95/100』
光の粒子が集まり、無数の本が浮かび上がる。
天然痘、麻疹、水痘――いくつかの候補が表示される。でも、どれも完全には一致しない。
【検索時間:約15秒 消費:5】
「既存の治療法は?」
「解熱の薬草、呼吸を楽にする煎じ薬、発疹を抑える軟膏――全て試しましたが、効果は一時的です」
グレゴールは立ち止まり、一つの扉の前で振り返った。
「覚悟はいいですか?」
私は頷く。
グレゴールが扉を開けた。
その瞬間――息が詰まった。
部屋の中には、十のベッドが並んでいた。その全てに、患者が横たわっている。
顔は赤く腫れ上がり、発疹が無数にある。呼吸は浅く、荒い。呻き声が部屋中に響いている。
死と病の匂いだ。
手が震える。理屈じゃない。これは現実だ。
「大丈夫か?」
エリカが私の肩に手を置いた。
「……大丈夫です」
私は深呼吸をする。感情を切り離す。SE時代の癖だ。
問題を分析する。原因を特定する。解決策を見つける。
「感染経路は?」
「不明です。最初の患者は、町の井戸水を飲んだ後に発症しました。その後、家族や近隣住民に広がりました」
「井戸水……」
私はさらに検索をかける。
「水系感染症 症状 細菌」
『精神力:95/100 → 88/100』
コレラ、腸チフス、赤痢――様々な情報が流れ込んでくる。
【検索時間:約20秒 消費:7】
でも、症状が完全には一致しない。この病は、地球の病とは少し違う。
異世界独自の病原体。
「井戸の状態を確認させてください」
「井戸?」
グレゴールは訝しげな顔をした。
「病は神の怒り、あるいは悪しき魔の仕業です。井戸に何の関係が?」
「水が汚染されていた場合、病の原因になります」
「汚染?」
グレゴールの声が少し強くなった。
「井戸は町の命です。神聖なる水源を汚すなど――」
「でも、もし目に見えない小さな生き物が水に混入していたら?」
「小さな……生き物?」
「はい。細菌と呼ばれるものです。目には見えませんが、病を引き起こします」
科学と信仰の衝突。
グレゴールの顔に、明らかな動揺が浮かんだ。
「そのような異端の考えを、この場で口にするとは……」
「異端ではありません。事実です」
「事実? 目に見えぬものを、どうやって証明する?」
「証明はできません。でも、試すことはできます」
私は言った。
「井戸を調べて、水を処理して、患者に薬を与える。そして、結果を見る。それが、科学です」
グレゴールは黙り込んだ。その顔には、苦悩が浮かんでいる。
信仰と現実。伝統と革新。
長い沈黙の後、グレゴールは頷いた。
「……一つだけ、条件があります」
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## 第三章:汚れた真実と対立
「あなたの『知識』で治療を試すのは構いません」
グレゴールは低い声で言った。
「しかし、成功しても失敗しても、その方法は薬師ギルド内に留めること。外部に漏らしてはなりません」
「どうしてですか?」
「知識は力です。その力を誰もが持てば、秩序が崩れます。薬師ギルドの存在意義も失われる」
知識の独占。
既得権益を守ろうとしている。
でも、今は従うしかない。
「わかりました」
とりあえず頷く。
でも、心の中では違う。知識は、独占するものじゃない。共有するものだ。
エリカと共に、問題の井戸へと向かった。
町の北部、住宅街の中心にある井戸。石造りで、直径は二メートルほど。周囲には水を汲むための桶が置かれている。
「ここね」
エリカが確認する。
私は井戸を覗き込んだ。
暗い。底が見えない。でも、水の匂いがする。
そして――もう一つ、別の匂いも。
腐敗臭。
「何か、死んでますね」
「え?」
「井戸の中に、動物か何かが落ちて、腐ってる」
その時、後ろから声がした。
「何をしている!」
振り返ると、白いローブを着た若い男が立っていた。年齢は二十代後半。金髪で、整った顔立ち。でも、目は冷たい。そして――怒りに燃えている。
「あなたは?」
「薬師ギルドの薬師、エドウィン・クラウスです」
エドウィンは私たちを睨んだ。
「井戸に近づくな。穢れる」
「穢れる?」
「そうだ。井戸は神聖な場所だ。病に侵された者が近づけば、水が汚れる」
「逆です」
私は言った。
「水が汚れているから、病が広がっているんです」
「何を言っている!」
エドウィンは怒鳴った。その声には、ただの怒りだけじゃない。何か、もっと深いものがある。
「水は神が与えた恵みだ。それが病の原因だと? 神への冒涜だ!」
「でも、実際に――」
「黙れ!」
エドウィンは私の前に立ちはだかった。その目には、涙が浮かんでいる。
「お前のような異端者に、何がわかる。私の――私の家族も、この病で死んだ! どんな薬も効かなかった! それは神の意志だった! それを否定するなど……!」
家族を失ったトラウマ。
彼は、信仰にすがることでしか、その痛みに耐えられないのだ。
「エドウィン、落ち着きなさい」
グレゴールの声がした。
振り返ると、グレゴールが数人の薬師を連れてこちらに歩いてきていた。
「彼女は依頼を受けた者です。調査をさせなさい」
「しかし、長老!」
「エドウィン」
グレゴールの声が、静かに、でも重く響いた。
「私たちは、三十七人の命を預かっている。お前の家族の死を無駄にするつもりか?」
「それは……」
エドウィンは言葉に詰まった。
グレゴールは私に向き直った。
「井戸を調べなさい。ただし、慎重に」
「ありがとうございます」
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## 第四章:賭けの時
井戸の水を汲み出すのに、半日かかった。
底に溜まった泥の中から、それは見つかった。
腐乱した猫の死骸。
おそらく、一週間ほど前に落ちたのだろう。完全に腐敗し、周囲の泥も黒ずんでいる。
「これが……原因?」
エリカが顔をしかめた。
「おそらく。動物の死骸から細菌が繁殖して、水を汚染した」
私は知識の書庫を開く。
「細菌感染症 治療法 抗菌作用 薬草」
『精神力:88/100 → 75/100』
頭が少し痛む。でも、まだ大丈夫。
【検索時間:約30秒 消費:13】
情報が流れ込む。抗生物質、消毒、対症療法――
でも、この世界に抗生物質はない。ペニシリンを作るには、カビの培養から始めないといけない。時間がかかりすぎる。
代替手段を探す。この世界の材料で、地球の理論を再現する。
まるで、バグだらけのシステムを、既存のライブラリで修正するような――。
「煮沸消毒 薬草 抗菌作用 異世界 銀 陽光」
『精神力:75/100 → 68/100』
視界が少しぼやける。でも、情報は掴んだ。
【検索時間:約35秒 消費:7】
「まず、井戸を完全に洗浄します。それから、水を煮沸してから飲むように町全体に指示を」
「煮沸?」
「沸騰させるんです。熱で細菌を殺します」
「そんなことで、病原体とやらが死ぬのか?」
グレゴールが疑わしげに言った。
「はい。そして、患者には――」
私は脳内の情報を整理する。
プログラムを組み立てるように。
変数1:銀葉草(抗炎症作用)
変数2:陽光花(免疫賦活作用)
変数3:蜜樹の樹液(結合剤、甘味料)
実行条件:温度70度で15分煎じる
「『銀葉草』と『陽光花』を煎じた薬を飲ませてください。それに、『蜜樹の樹液』を混ぜて」
「銀葉草と陽光花……確かに抗炎症作用はあるが、この病に効くとは――」
「試してみる価値はあるはずです」
私は言った。
「一人の患者で、試させてください」
グレゴールは長い沈黙の後、頷いた。
「わかった。ただし、失敗すれば、お前の責任だ」
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## 第五章:小さな光
最も症状の軽い患者――十代の少年が選ばれた。
名前はトマス。農家の息子だという。
彼は高熱にうなされ、発疹が顔と腕に広がっている。呼吸も苦しそうだ。
私は薬師たちの協力を得て、調合を始めた。
銀葉草と陽光花を計量する。蜜樹の樹液を準備する。
まるで、変数を代入するように。
ステップ1:洗浄(材料の不純物除去)
ステップ2:煎じる(温度70度、時間15分)
ステップ3:濾過(固形物除去)
ステップ4:樹液混合(結合と飲みやすさの向上)
【検索:調合手順の確認】
『精神力:68/100 → 60/100』
頭痛が強くなる。こめかみがズキズキと痛む。
【検索時間:約20秒 消費:8】
でも、止められない。
調合が完了した。透明な液体。少し甘い香りがする。
「これを、一日三回飲ませてください。それと、水は必ず煮沸したものを」
薬師たちが頷く。
トマスに薬を飲ませる。彼は苦しそうに呻きながらも、飲み込んだ。
「これで……効くのか?」
エドウィンが腕を組んで見ている。その目には、明らかな敵意がある。でも、その奥に――かすかな期待も見える。
「わかりません。でも、試す価値はあります」
私はベッドの横に座った。
待つしかない。
プログラムを実行した後、ログを確認するように。
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その夜。
私は薬師ギルドの一室で、トマスの経過を見守っていた。
定期的に体温を測り、呼吸を確認し、発疹の状態を記録する。
六時間後。
トマスの熱が、わずかに下がった。
『体温:39.8度 → 39.2度』
「少し、下がってる……」
でも、まだ安心はできない。これが一時的なものかもしれない。
十二時間後。
トマスが目を覚ました。
「……水……」
「飲める?」
煮沸した水を少しずつ飲ませる。彼は飲み込んだ。
「お母さん……は?」
「大丈夫。元気だよ」
嘘だ。彼の母親も、別の部屋で同じ病に苦しんでいる。
でも、今は希望を与えるしかない。
二十四時間後。
トマスの熱が、さらに下がった。
『体温:39.2度 → 38.3度』
呼吸も楽になり、発疹の赤みも少し引いている。
「効いてる……本当に、効いてる!」
エリカが駆け寄ってきた。
「ミサキ、あなたの薬、本当に効いてるわ!」
「まだ、完全じゃありません。でも――」
私は拳を握りしめた。
小さな光。でも、確かな光だ。
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## 第六章:観察者の干渉
その夜、遅く。
私は薬師ギルドの一室で休んでいた。
トマスは安定している。他の患者にも同じ薬を投与し始めた。
『精神力:60/100』
まだ回復していない。休息が必要だ。
でも――。
視界の端で、何かが光った。
『警告:未知の干渉を検知』
あのメッセージが、また表示された。
今度は、もっとはっきりと。
そして、その下に――見たことのない文字が並んでいる。
まるで、プログラミング言語と古代文字が混ざったような――
【観測記録:実行中】
【対象者:橘美咲】
【試練段階:2/7】
【評価基準:知識の転用能力】
【現在評価:良好】
【次段階:準備中】
何、これ……?
私は思わず立ち上がった。
文字が、ざらついた音と共に消える。でも、確かに見えた。
誰かが、私を観測している。
そして――試練は七段階ある。
知識の転用能力……?
背筋が凍る。
その時、窓の外で何かが動いた。
振り返ると――森の方角に、赤い光が見えた。
あの観察者。
フードを被った人影が、こちらを見ている。
距離があるのに、その視線を感じる。
人影は、ゆっくりと手を上げた。
そして――何かを投げた。
黒い霧のようなものが、町に向かってゆっくりと広がり始めた。
「まずい……!」
私は窓を開けて外を見た。
霧は、不気味なほどゆっくりと町を覆っていく。
そして――霧に触れた人々が、次々と倒れ始めた。
新たな疫病。
観察者は、また試練を与えた。
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## エピローグ:知識の限界
翌朝。
薬師ギルドは混乱に包まれていた。
一晩で、新たに二十名が発症した。
しかも、症状は前回とは違う。
激しい咳、血痰、全身の痙攣――
「これは……呼吸器系の病?」
私は必死に検索をかける。
「咳 血痰 痙攣 急性」
『精神力:60/100 → 48/100』
頭が割れそうに痛い。視界が歪む。
そして――。
情報が乱れている。
検索結果が、おかしい。
地球の情報が、ノイズと混ざっている。
文字が崩れる。意味不明な記号が表示される。
まるで、画面が砂嵐に覆われているような――
【ERROR: データ破損検出】
【ノイズレベル:15%】
【検索精度:低下中】
システムが、壊れ始めている。
「ミサキ!」
エリカの声で、我に返る。
「大丈夫!?」
「え、ええ……でも、システムが、おかしくて……」
「システム?」
「なんでも……ないです」
私は頭を振った。
観察者が、干渉している。
システムに何かをしている。
「トマスは?」
「……少し、良くなってる」
エリカが言った。
「あなたの薬、効いてるわ。でも――」
エリカは窓の外を見た。
「新しい病には、効かないかもしれない」
私は拳を握りしめた。
一つ治しても、また新しい病が現れる。
これは、終わらない試練。
グレゴールが部屋に入ってきた。
「ミサキ。あなたの治療法、一部の患者には効果がある。トマスの母親も、熱が下がり始めた」
「でも、新しい病には――」
「それも、あなたの知識で治せるか?」
私は――答えられなかった。
知識だけじゃ、足りない。
精神力が尽きれば、私は何もできない。
そして、観察者は次々と試練を与えてくる。
システムは壊れ始めている。
「わかりません。でも……やってみます」
「頼むぞ」
グレゴールは去った。
私は窓から、森を見た。
赤い光は、まだそこにある。
観察者は、まだ見ている。
そして――。
視界に、またメッセージが表示された。
【試練段階: 3/7】
【次の試練: 複合型感染症】
【警告: 精神力枯渇リスク75%】
【推奨行動: 能力進化プロトコル実行】
【補足: 単独解決は困難。協力者獲得を推奨】
そして、最後に――。
【真実への扉: 解放条件20%達成】
【知識の代償: まもなく理解する】
メッセージが、ざらついた音と共に消えた。
私は、ベッドに座り込んだ。
これは、ただの転生じゃない。
私は、何かの実験台にされている。
そして、真実は――まだ隠されている。
でも、今は――
私は立ち上がった。
今は、目の前の命を救うことに集中する。
それが、私にできる唯一のことだ。
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第三話 完
次回:第四話「協力者たちと進化の代償」
精神力の限界、システムの異常――ミサキは単独では戦えない。仲間を得ることで見えてくる新たな道。そして、能力の「進化」がもたらす代償とは?
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最後までお読みいただきありがとうございます。
知識は道具であり、代償でもあります。
次回は「協力者の獲得」と「能力進化の代償」が物語をさらに動かします。
読者の皆さんの考察や感想を楽しみにしています。




