002.赤目の群れと知恵の罠
異世界で知識を武器に生き抜く、元システムエンジニアの橘ミサキ(ミサキ)。
第2話では、赤目の群れとの遭遇で、彼女の情報が戦況を変え、ガルドの一撃が勝利を決定づけます。
知恵と刃が交錯する戦場の瞬間をお楽しみください。
第一章:情報戦の開始
夜明け前のギルド。
松明の橙色が紙面を揺らし、ノートの余白は図と走り書きで埋め尽くされている。頭の奥で時計が鳴るように、精神が削れていくのがわかる。
『精神力:100/100 → 52/100』
もう半分以下だ。
指先が震える。文字がたまに二重に見える。こめかみの奥で、何かが脈打つように痛む。
だが、止められない。
脳裏に浮かぶ情報の断片。狼の群れの習性、罠の種類、素材の代替案――過去の、いや、前世の記憶と混ざり合いながら、異世界の現実へと落とし込む作業。
「縄張り意識が強く、統率された行動……リーダーを倒せば混乱する可能性……」
ノートに書き込む手が止まらない。
キィ。
扉が開く音。
「おい、新人。まだやってんのか」
ガルドだった。腕に革の防具を巻き、剣の手入れを終えたところらしい。その顔には、疲労と緊張が混ざっている。
「はい。でも、まだ完璧じゃなくて……」
「完璧なんてない」
ガルドは私の横に腰を下ろした。剣と革の匂いが鼻をつく。
「戦場に出れば、全部が想定外だ。計画通りになんて、いかない」
「それでも、準備をしないよりは――」
「その通りだ」
ガルドは窓の外を見た。まだ暗い空。星が瞬いている。
「だが、お前の『情報』が役に立つかは、やってみないとわからない。赤目の群れは、普通の魔獣じゃない。知能が高い。罠を見抜くこともある」
「……それでも、何もしないよりは」
「ああ」
ガルドは立ち上がり、私の肩に手を置いた。重い。まるで、何かを押し付けられているような。
「お前は戦場には出るな。ここで情報を整理して、俺たちに伝えろ。それがお前の役目だ」
「でも――」
「死なれたら困る」
ガルドの声が、少しだけ低くなった。
「お前の能力は、今後も必要だ。使える道具は、壊すわけにはいかない」
道具。
その言葉が、胸に刺さる。
でも、反論できない。私自身、まだ何も証明していないのだから。
「わかりました。後方支援に徹します」
「よし」
ガルドは頷いて、武器庫へと向かった。
私は再びノートに向き合う。
道具でいい。それでも、生き延びるために。
視界の端で、精神力の数値が微かに揺れている。
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## 第二章:森の境界線
夜が明けた。
町の入口、森との境界線。冒険者たちが集結している。総勢三十名。剣士、弓使い、魔法使い――この町で動ける戦力のほぼ全てだ。
鉄と革がぶつかり合う音。武器を確認する冒険者たち。誰もが緊張した面持ちだ。
私はエリカと共に、少し離れた場所に陣取っていた。簡易的な指揮所。地図とノート、それに伝令用の若い冒険者が数名待機している。
「準備はいい?」
エリカが聞いてくる。彼女は今、受付嬢の柔らかい雰囲気ではなく、戦場指揮官の顔をしていた。目が鋭く、声に迷いがない。
「はい。罠の配置場所、誘導ルート、予想される魔獣の行動パターン――全部まとめました」
私はノートを開いて見せる。
そこには、地球のサバイバル術、動物行動学、軍事戦術の知識を総動員して作り上げた作戦が書かれていた。いや、正確には――夢で見た記憶が、異世界の地図の上に再構成されている。
「ふむ……」
エリカは真剣な目でノートを読んでいく。
「なるほど、魔獣を三つのルートに分散させて、各個撃破。リーダー格を特定して優先的に排除。退路を確保しつつ、段階的に後退――」
エリカは顔を上げた。その目には、驚きと、そして疑念が混ざっている。
「あなた、本当に記憶喪失? こんな戦術、軍師でも組み立てられないわよ」
「夢で……見たんです。断片的に」
危うく「地球」と言いそうになった。
「夢ね」
エリカは私をじっと見つめた。その視線が、まるで心の奥を覗き込むようで、居心地が悪い。
でも、それ以上は追及しなかった。
「まあいいわ。使えるものは使う。これを元に指示を出すわよ」
エリカは伝令に指示を出し始めた。
その時。
「来るぞ!」
前線から声が上がった。
森の奥から、無数の赤い光が見えた。
目だ。赤く光る、魔獣の目。
闇の中で、血のように赤い光が揺れている。
その数――数えるのを諦めるほど多い。
「予想より多い……」
エリカの顔が強張る。
「計画変更。第一防衛線を早めに放棄して、第二防衛線に――」
「待ってください」
私は地図を見ながら言った。心臓が早鐘を打っている。でも、頭は冷静だ。情報を処理するモードに入っている。
「数が多いなら、逆に誘導しやすくなります。ルートAとCに火を焚いて、ルートBに集中させてください。狭い場所に追い込めば、数の優位が相殺されます」
「でも、それじゃあ突破される可能性が――」
「その前に、ボトルネック地点で足止めを」
私は素早く脳内で検索をかける。
『知識の書庫が開く』
無数の本が浮かび、必要なページだけが光る。
「狼 嫌いな匂い」
地球の動物行動学、化学の知識が高速で流れ込んでくる。硫黄化合物、揮発性有機化合物、腐敗臭――
『精神力:52/100 → 48/100』
視界が一瞬ぼやける。でも、情報は掴んだ。
「刺激臭です。硫黄、腐った卵、酢――この世界にある素材で代用できるものは……」
私は素早くノートに書き込む。脳内の化学式と、異世界の薬草の知識を照合していく。
「沼地の泥、発酵させた果実、それと薬草の『苦根草』を混ぜたものを、ルートBの入口に撒いてください。一時的に進行を遅らせられるはずです」
「……本気?」
「夢の知識では、効果があるはずです」
エリカは一瞬逡巡したが、すぐに決断した。
「やるわ。伝令! 薬草庫から苦根草を持ってきて! それと発酵果実も!」
指示が飛び、冒険者たちが動き出す。
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## 第三章:群れの咆哮
戦いが始まった。
赤目の魔獣たちが、森の中から飛び出してくる。
黒い毛並み、鋭い牙、血のように赤い目――狼型の魔獣だが、普通の狼よりも一回り大きい。そして、何より統率が取れている。
地面を蹴る音。重い呼吸。爪が土を削る音。
「ルートAに火を!」
冒険者たちが松明を投げ込む。乾いた草に火がつき、炎が上がる。パチパチという音と共に、熱気が広がる。
魔獣たちは炎を避け、ルートCへと流れる。
「ルートCにも火を!」
さらに炎が上がる。煙が立ち込め、視界が悪くなる。
魔獣たちは進路を変え、唯一開いているルートBへと殺到した。
「来た!」
ルートBの入口――私たちが匂いの罠を仕掛けた場所。
地面に撒かれた、黒ずんだ液体。沼の泥と発酵果実、そして苦根草を混ぜたもの。強烈な刺激臭が漂っている。
魔獣たちが近づくと――
動きが鈍った。
鼻を鳴らし、嫌そうに首を振る。前進が止まる。何頭かは後退しようとする。
「効いてる!」
私は思わず声を上げた。
地球の知識が、通用した。
「今よ、弓隊!」
エリカの指示で、弓使いたちが一斉に矢を放つ。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
矢が魔獣たちに降り注ぎ、数体が倒れる。悲鳴のような鳴き声が響く。
だが――。
「ガルルルルルル……」
群れの奥から、一際大きな咆哮が響いた。
他の魔獣よりも一回り大きい、傷だらけの魔獣。耳が裂け、片目に古い傷がある。
リーダーだ。
その魔獣が吠えると、他の魔獣たちの動きが変わった。
迷いが消える。匂いをものともせず、突進を開始した。
「くそ、リーダーの命令が勝った!」
ガルドが前線で剣を構える。
「全員、迎撃態勢!」
魔獣と冒険者が激突する。
剣と牙、弓矢と爪。金属がぶつかる音、悲鳴と咆哮が入り混じる。
血の匂いが風に乗って運ばれてくる。
「やばい……数が多すぎる」
エリカの表情が険しくなる。
「このままじゃ、第二防衛線が持たない」
前線が押されている。冒険者の一人が魔獣に飛びかかられ、悲鳴を上げた。仲間が助けに入るが、次々と魔獣が襲いかかる。
だめだ。このままじゃ――
私は必死に考える。
どうすればいい。リーダーを倒せば混乱するはず。でも、リーダーは群れの後方にいて、近づけない。
待って。
遠距離から狙えばいい。
私は再び知識の書庫を開く。
「狼 リーダー 行動パターン」
『精神力:48/100 → 43/100』
頭が割れそうに痛い。視界が歪む。一瞬、目の前のノートが、過去のモニター画面に見えた。
デバッグ中のコード。エラーメッセージ。未完成のプログラム――
違う。今はそれじゃない。
私は頭を振って、現実に意識を引き戻す。
情報が流れ込んでくる。
「リーダーは通常、群れの最後尾で指示を出す。体格が大きく、他の個体から尊敬されている。行動パターンとしては、常に動き回り――」
そうだ。足だ。
「エリカさん、最も腕の立つ弓使いは?」
「それなら、アランね。あそこの、茶髪の男」
エリカが指差す。確かに、彼の弓さばきは他と違う。正確で、無駄がない。矢を放つたびに、魔獣が倒れている。
「彼に伝えてください。群れの最後尾、一番大きな魔獣の『右後ろ足』を狙うように」
「足? 急所じゃないの?」
「急所は本能的に守られます。でも、足なら――」
私は素早く説明する。
「狼のリーダーは、群れを統率するために常に動き回ります。足を負傷すれば、動けなくなる。指示が出せなくなる。そうすれば、群れは混乱します」
「……賭けね」
「はい。でも、他に方法が――」
「やるわ」
エリカは即座に伝令を飛ばした。
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## 第四章:逆転の一矢
伝令がアランに駆け寄る。何かを伝える。
アランは一瞬、こちらを見た。
疑いの目。新人の指示なんて、信用できるか――そう言いたげな目。
でも、彼は頷いた。
弓を引き、狙いを定める。
群れの最後尾。リーダーの魔獣。
その右後ろ足。
周囲の音が消えたような錯覚。アランの呼吸。弦の軋む音。
ヒュン!
矢が放たれた。
空気を切り裂き、一直線に飛んでいく。
そして――
ズシュ!
命中した。
リーダーの魔獣が、悲鳴のような咆哮を上げた。
「ガァアアアアッ!」
足を引きずり、バランスを崩す。地面に前足をついて、体勢を立て直そうとする。
その瞬間――群れの動きが乱れた。
統率が崩れる。魔獣たちが迷い、動きが鈍る。ある者は立ち止まり、ある者は方向を見失う。
「今だ、畳み掛けろ!」
ガルドが叫び、剣士たちが一斉に攻め込む。
混乱した魔獣たちを次々と倒していく。剣が閃き、血が舞う。
リーダーは後退しようとしたが、足の傷で速度が出ない。三本足で逃げようとするが、すぐにガルドが追いついた。
ガルドが接近し、剣を振り上げた。
「終わりだ!」
剣がリーダーの首を切り裂く。
ドサッ。
リーダーが倒れた。
その瞬間、残りの魔獣たちは統率を完全に失い、森へと逃げ去った。
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## 第五章:勝利の代償
「勝った……のか?」
誰かが呟いた。
しばらく沈黙が流れた。
そして――歓声が上がった。
「勝ったぞ!」
「赤目の群れを撃退したぞ!」
冒険者たちが抱き合い、喜びを爆発させる。剣を掲げ、雄叫びを上げる者もいる。
私は――その場に膝をついた。
『精神力:43/100 → 38/100』
頭が割れそうに痛い。吐き気がする。視界が白く霞む。
脳が焼き切れるような感覚。自分の身体が自分のものじゃないような恐怖。
これが、代償。
「ミサキ! 大丈夫!?」
エリカが駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です……ちょっと、使いすぎただけで……」
「無理しすぎよ」
エリカは私の肩を支えてくれた。
「でも――よくやったわ。あなたの戦術がなければ、もっと被害が出ていた。いえ、下手をすれば全滅していたかもしれない」
「本当に……役に立ちましたか?」
「ええ。少なくとも、今日は」
エリカは立ち上がり、冒険者たちに指示を出し始めた。
「負傷者の手当てを! 魔獣の死体は回収して、素材として売却! 今日は全員にボーナスを出すわよ!」
歓声がさらに大きくなる。
私は空を見上げた。
朝日が、町を照らしている。血と煙の匂いの中に、朝の清々しさが混ざっている。
生き延びた。地球の知識で、この世界の危機を――少しだけだけど、乗り越えられた。
でも、心のどこかで不安が消えない。
あの謎の人物。森で、何かを企んでいた人影。
これは、本当に偶然の襲撃だったのだろうか?
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## 第六章:観察者の評価
その頃、森の奥。
フードを被った人影が、倒れたリーダーの魔獣を見下ろしていた。
「ふむ、なかなかやるじゃないか」
人影は指で魔獣の足の傷を確認する。矢が深々と刺さっている。
「足を狙うとは。動物行動学の知識か、それとも戦術の応用か」
人影は立ち上がり、町の方を見た。
「どちらにせよ――予想以上だ」
人影は懐から小さな水晶玉を取り出した。
中には、赤い光が渦巻いている。表面には、奇妙な文様が刻まれている。まるで、古代の言語のような――
「だが、この程度で満足するわけにはいかない」
人影は水晶玉を握りしめた。
「もっと、もっと追い込まないと――彼女の『本当の価値』は見えてこない。そして、彼女がその力の真実に気づくまで」
パキン。
水晶玉が割れる。
赤い光が四方に飛び散り、地面に吸い込まれていく。
その瞬間――森の奥深くで、何かが目を覚ました。
大地が微かに震える。鳥たちが一斉に飛び立つ。
「さあ、次の試練だ。知恵の娘よ」
人影は闇の中へと消えた。
残されたのは、割れた水晶の破片。
その破片には、奇妙な文字が刻まれていた。
『観測者の印』
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## エピローグ:新たな依頼
三日後。
ギルドは賑わっていた。赤目の群れ撃退の功績で、冒険者たちは報酬を受け取り、祝杯を上げている。
私もギルドから正式に報酬を受け取った。銀貨五十枚。この世界では、一ヶ月は暮らせる金額らしい。
精神力も回復した。頭痛も治まった。
『精神力:100/100』
でも、心の奥に残る違和感は消えない。
「ミサキ、ちょっといい?」
エリカに呼ばれて、カウンターに向かう。
「新しい依頼よ」
エリカは一枚の羊皮紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『薬師ギルドからの依頼:謎の病の治療法を見つけてほしい』
『報酬:金貨十枚』
『緊急度:最高』
「薬師ギルド?」
「ええ。町の北部で、原因不明の病が流行り始めたの」
エリカは真剣な顔をしている。
「高熱、呼吸困難、発疹――既存の薬では効かない。そして、急速に広がっている」
「薬師たちは?」
「手を尽くしたけど、治療法が見つからない。それどころか、薬師の一人も感染した」
エリカは私の目を見た。
「そこで、あなたの『情報』に頼りたいと」
私は羊皮紙を見つめた。
病気。医療。地球には、膨大な医学知識がある。
でも――。
「私、医者じゃありません。知識はあっても、実践経験は……」
「大丈夫よ。薬師たちがサポートしてくれる」
エリカは言った。
「あなたは、夢の知識を提供するだけでいいの。でも――」
エリカの声が低くなった。
「これは、ただの病じゃないかもしれない」
「どういうことですか?」
「タイミングよ。赤目の襲撃の直後に、原因不明の病が流行る。偶然にしては、できすぎてる」
私の背筋が凍る。
あの人影。あの謎の人物。
「次の試練だ」
あの言葉が、脳裏に蘇る。
「ミサキ。あなたの能力は、戦場だけじゃなく、人の命を救うこともできる」
エリカは私の肩に手を置いた。
「それを、証明してみせて。そして――誰が、なぜこれを仕組んだのか、一緒に探りましょう」
私は深呼吸をして、頷いた。
「わかりました。やってみます」
「よし。明日、薬師ギルドに案内するわ」
エリカは満足そうに微笑んだ。
私は部屋に戻り、窓から町を見下ろした。
新しい挑戦。新しい可能性。
でも、心の奥で、あの不安がまた蘇る。
誰かが、私を見ている。試している。
これは、本当に偶然の依頼なのだろうか?
夜空に、赤い星が一つ、不気味に輝いていた。
まるで、血のような赤。
そして――私の視界の端で、何かが一瞬光った気がした。
精神力のウィンドウではない。
もっと別の、見たことのない文字。
一瞬で消えたそれは、まるで――
『警告:未知の干渉を検知』
そんな風に見えた。
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第二話 完
次回:第三話「薬師ギルドと知識の光」
謎の病に立ち向かうミサキ。地球の医学知識は、異世界の命を救えるのか。そして、病の裏に潜む「観察者」の影――
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ご覧いただき、ありがとうございました。
知識は力になる一方で代償も伴います。
次回はミサキが薬師ギルドで医療知識を応用する場面に移ります。
彼女の選択が、町と自身にどんな影響をもたらすのか、ぜひ見届けてください。




