001.地球の叡智を持つ者
異世界に転生した元システムエンジニア、橘美咲の物語。
彼女のチートは魔力でも筋力でもなく、地球の知識を閲覧できる能力。
理論と観察で切り開く生存劇です。
## プロローグ:終わりと始まり
私の名前は、橘美咲。二十八歳、システムエンジニア。
正確には、だった。
最後に見たのは、モニターに映る「エラー:メモリ不足」の文字。デバッグ中のコードは未完成のまま。送信していないメールは下書きフォルダに残ったまま。解決できなかったバグは――私が倒れた後、誰が直したのだろうか。
気づいたら、真っ白な空間に浮いていた。
「あなたには才能がありました。しかし、その才能を活かす場所が間違っていたようです」
目の前には光り輝く存在。神様、らしい。声は優しく、でも少しだけ――いや、かなり申し訳なさそうだった。
「ですので、新しい世界で再出発してみませんか?ただし、チートスキルは用意できません。その代わり――」
神様が差し出したのは、透明なタブレット端末のようなもの。光を纏って、ゆっくりと回転している。
「地球の情報にアクセスできる能力です。インターネット、書籍、論文、技術資料、あらゆる知識を閲覧できます」
「それって……」
「ただし」
神様の声が少し厳しくなる。
「物理的な干渉はできません。情報を『見るだけ』です。そして、この能力には制約があります」
「制約?」
「情報の閲覧には精神力を消費します。高度な知識ほど、負担が大きくなる。使いすぎれば、頭痛や眩暈、最悪の場合は意識を失います。それと――」
神様は少し間を置いた。
「なぜか、一部の情報には『アクセス制限』がかかっています。どの情報か、それすら私にはわかりません。まるで誰かが意図的に隠しているかのように」
背筋が冷たくなる。でも、今更引き返せない。
「知識こそが最強の武器です。それを証明してみてください」
神様はそう言って、私を光の中へと押し出した。
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## 第一章:目覚めと生存本能
ドサッ。
背中に鈍い衝撃。湿った土の匂いが鼻を突く。
「痛っ……」
目を開けると、木漏れ日が目に刺さった。巨大な樹木が空を覆い尽くしている。深い、深い森だ。
立ち上がろうとして――違和感に気づいた。
「え……?」
体が軽い。いや、軽すぎる。見下ろした自分の手は、見覚えのないほど華奢で白い。二十八年間使ってきた手じゃない。爪も綺麗に整っている。SEをやっていた頃は、キーボードを叩きすぎて爪が割れていたのに。
髪を触ると、サラサラとした長い黒髪が指の間を滑り落ちた。鏡はないけれど、確信がある。
私は、十代後半くらいの少女になっている。
「まずい……これ、完全に身体能力が落ちてる」
前世で運動なんてほとんどしなかったけれど、それでも大人の体力はあった。でも今は――おそらく、魔獣と遭遇したら即アウトだ。
「とりあえず、状況確認を……」
そう呟いた瞬間、視界の端に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
『地球情報アクセスシステム起動』
『検索ワードを入力してください』
『現在の精神力:100/100』
「精神力……やっぱり制限があるんだ」
試しに「異世界 サバイバル 初心者」と入力してみる。
ウィンドウが展開し、無数の光の粒子が集まって文字を形成していく。まるで巨大な図書館の書架が目の前に現れ、必要な本だけが輝きながら浮かび上がるようだ。
検索結果が表示される。ウェブサイト、動画、PDF、書籍――どれも地球のもの。クリックすると内容が読める。
『精神力:100/100 → 97/100』
「3消費……軽い検索なら大丈夫そうだけど」
試しに「核融合 詳細」と検索してみる。
『警告:高度情報のため、精神力15を消費します。閲覧しますか?』
「やっぱり。知識のレベルで消費量が変わるんだ」
キャンセルして、現実的な情報に戻る。
「まずは水と食料、それと安全な場所」
地球のサバイバル術を頭に入れながら、周囲を観察する。太陽の位置から判断すると、午後三時くらい。日没まであと数時間。
「水場を探すには、動物の足跡を――」
ガサガサ。
背後で草木が揺れる音。
振り返った瞬間、心臓が止まりそうになった。
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## 第二章:本能が叫ぶ瞬間
そこにいたのは、私の背丈ほどもある巨大な狼――いや、魔獣だ。
全身が黒い毛で覆われ、肩の筋肉が盛り上がっている。目は血のように赤く、涎が地面に滴り落ちている。口からは腐肉のような匂いが漂ってくる。
息ができない。
足が竦む。動けない。頭の中が真っ白になる。
魔獣はゆっくりと、本当にゆっくりと私に近づいてくる。まるで、獲物が逃げられないことを楽しんでいるかのように。
「動け、動け、動け――!」
体が言うことを聞かない。
また死ぬ。せっかく転生したのに、数分で終わるなんて。
「いやだ――誰か――!」
魔獣が跳躍の構えを取った、その瞬間。
キィン!
横から何かが飛んできて、魔獣の脇腹に突き刺さった。矢だ。
「そこの娘、伏せろ!」
男の声。反射的に地面に身を投げ出す。
頭上を風が切り裂き、剣が魔獣の首筋に突き立った。
ドウ!
魔獣が地面に倒れる。血が土に染み込んでいく。
「……は、ぁ……」
呼吸ができない。心臓が胸を破りそうなくらい鳴っている。
「大丈夫か?」
顔を上げると、そこには筋骨隆々とした男が立っていた。年齢は三十代半ば。顔の左頬に深い傷跡があり、右目の端には古い火傷の痕が残っている。腰には血のついた剣。背中には弓。
いかにも、歴戦の戦士という風貌だ。
「あ、あの……ありがとうございます」
「礼を言うのは後だ」
男は私の腕を掴んで引き起こした。力強い。
「ここは危険だ。他の魔獣が血の匂いを嗅ぎつける前に移動する」
「え、まだ来るんですか――」
「当たり前だ。森は魔獣の縄張りだ。お前、何も知らずにここに来たのか?」
「それが、記憶が……」
とっさに嘘をつく。異世界転生なんて言っても信じてもらえない。
男は一瞬、私を値踏みするような目で見たが、すぐに表情を戻した。
「なら尚更だ。走れ」
手を引かれて走り出す。枝が顔を掠め、石に足を取られそうになる。この体、本当に体力がない。
どれくらい走っただろうか。ようやく森を抜けたとき、目の前に石造りの門が現れた。
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## 第三章:冒険者ギルドという名の檻
門の先は、小さな町だった。
石畳の道、木と石で作られた建物、行き交う人々。剣を腰に下げた者、ローブを纏った者、荷車を引く商人――まるで中世ヨーロッパのような光景。
「ここは国境近くの町、グランベルだ。お前、どこから来た?」
「その、記憶が曖昧で……」
「……そうか」
男は何かを考えるように黙り込んだ。その横顔には、警戒の色があった。
この人、私を完全には信用していない。
当然だ。森で突然現れた記憶喪失の少女なんて、怪しすぎる。
「俺はガルド。冒険者だ。まずは冒険者ギルドに行こう。保護が必要な者を受け入れてくれる」
「冒険者……ギルド?」
「知らないのか? まあいい、見ればわかる」
町の中心部にある、一際大きな建物。看板には『冒険者ギルド グランベル支部』と書かれている。
中に入ると、酒場のような空間が広がっていた。大勢の男女が酒を飲み、笑い声を上げ、テーブルを叩いて談笑している。その全員が、剣や斧、杖といった武器を身につけている。
空気が重い。この場所は、命を売り買いする場所だ。
「おや、ガルドじゃない。珍しいわね、娘を連れてくるなんて」
カウンターから声がかかった。
赤毛のショートカット、切れ長の目、整った顔立ち。年齢は二十代後半くらいだろうか。笑顔だが、その目は鋭く私を観察している。
「拾ったんだ。森で魔獣に襲われていた」
「あらら、それは災難ね。怪我は?」
「ありません。助けていただいて……」
「よかったわ。私はこのギルドの受付をしているエリカ。よろしくね」
エリカと名乗った女性は、柔らかく微笑んだ。でも、その目は笑っていない。
この人も、私を値踏みしている。
「で、あなた、名前は?」
「橘……じゃなくて、ミサキです」
危うくフルネームで言いそうになった。
「ミサキね。記憶喪失らしい」
ガルドがそう説明すると、エリカは少し考えるような仕草をした。
「なら、ギルドで保護するわ。ただし条件がある」
「条件?」
「冒険者として登録すること」
え。
「この世界で生きていくには力が必要よ。記憶がないなら尚更ね。それに――」
エリカはカウンターに肘をついて、顔を近づけてきた。
「あなた、何か特別な力を持っているでしょう?」
背筋が凍る。
「ど、どうして……」
「その目よ」
エリカは私の瞳を覗き込んだ。
「時々、何かを『見ている』目をしている。まるで、この世界にないものを見ているみたいな」
鋭すぎる。この人、ただの受付嬢じゃない。
「……はい。情報を、見ることができます」
「情報?」
「色々な知識にアクセスできるんです。でも、それだけで。魔法が使えるわけでも、強くなるわけでもなくて……」
「十分よ」
エリカはきっぱりと言った。
「この世界で一番価値があるのは情報よ。魔獣の弱点、薬草の調合法、遺跡の場所、貴族の醜聞――知識があれば、力がなくても生き延びられる。場合によっては、王国すら動かせる」
その言葉には、何か裏がある気がした。
「少なくとも、試す価値はあるわ。どう?やってみる?」
エリカの瞳が私を見つめている。その目には、期待と好奇心――そして、打算が混ざっていた。
私は深呼吸をして、頷いた。
「やります。冒険者に、なります」
「よし、決まりね!」
エリカは嬉しそうに手を叩いた。
こうして私の、異世界での冒険が始まった。
――だが、この時私はまだ知らなかった。
この選択が、どれほど大きな波紋を呼ぶことになるのかを。
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## 第四章:最初の試練
冒険者登録を済ませた私は、ギルドの寮の一室を与えられた。質素だが清潔な部屋。ベッドと机、小さな窓がある。
窓から見える夕焼けが、異世界の空を赤く染めていた。
「まずは、能力の検証ね」
私は地球情報アクセスシステムを起動し、検索を始めた。
『精神力:100/100』
「魔獣 狼型 弱点」
検索結果が表示される。狼の生態、骨格、急所――地球の生物学的知識が次々と現れる。
『精神力:100/100 → 95/100』
「5消費か。まあ、許容範囲ね」
次に「中世 サバイバル術」「薬草 効能 画像」「簡易武器 作り方」と検索を続ける。
情報が頭に入ってくる。知識が蓄積されていく。
これは、使える。
でも――。
「試しに……『この世界 歴史』」
検索ボックスに打ち込んだ瞬間。
『エラー:該当情報が見つかりません』
「やっぱり。異世界固有の情報は見られないんだ」
それはそうだ。地球のデータベースに、この世界の情報があるはずがない。
「となると、現地の知識は自分で集めるしかない。地球の知識と組み合わせて――」
ドンドンドン!
扉を激しく叩く音。
「ミサキ! 緊急依頼だ、すぐ来い!」
エリカの声。ただし、さっきとは違う。切迫している。
部屋を飛び出すと、ギルドのロビーには人だかりができていた。
中心には、血まみれの男が倒れている。
「これは……」
「森の奥で、『赤目の群れ』が動き出した。このままじゃ、町が襲われる」
エリカが素早く説明する。
「赤目?」
「魔獣の中でも特に凶暴な種だ。通常は森の奥深くにいるが、何かの理由で縄張りを広げている。冒険者を総動員して対処するが――」
エリカは私を見た。
「あなたの『情報』が必要よ。魔獣の弱点、効果的な罠、何でもいい。知恵を貸して」
周囲の冒険者たちが私を見る。疑いの目、期待の目、嘲笑の目――様々な視線が突き刺さる。
「新人に何ができる」
「情報屋なんて、戦場じゃ役立たずだ」
「どうせ、口だけだろう」
囁き声が聞こえる。
ああ、そうだ。私は何も証明していない。
でも――。
私は拳を握りしめた。
「やります。私の知識を、使ってください」
エリカが微笑んだ。でも、その目は試すような光を宿していた。
「期待してるわ、知恵の冒険者」
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## エピローグ:動き出す影
その夜、ギルドは慌ただしく動いていた。
私は地球情報システムを総動員して、魔獣対策を検索し続けた。
『精神力:100/100 → 68/100』
頭が痛い。でも、止められない。
「罠の配置、誘導ルート、弱点の特定――全部、地球の知識で導き出せる」
ノートに書き込んでいく。冒険者たちがそれを見て、準備を始める。
――だが、その時。
町外れの森の中。
「ふむ、情報を操る能力か。面白い」
フードを被った人影が、町を見下ろしていた。
「ギルドが動き出した。あの娘の力を、確かめる好機だな」
人影は指を鳴らした。
パチン。
その瞬間、森の奥で無数の赤い目が光った。
「さあ、試練の時間だ。生き延びられるかな、異世界の知恵者よ」
闇の中で、不気味な笑い声が響いた。
第一話 完
次回:第二話「赤目の群れと知恵の罠」
迫り来る魔獣の群れ。ミサキの知識は、命を守る武器となるのか――それとも。
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第一話をお読みいただき、ありがとうございました。
ミサキの能力は見ることに特化していますが、その制約が物語の鍵。
いつの日か…その能力は進化するのか?
次回も知恵と工夫で切り抜ける彼女の成長を見守ってください。




