揺れる火花
うつくしい光景だ、と思った。目の前を青さを秘めた風が通り過ぎていくようで。ぼんやりと眺めれば眺めるほど、見惚れていた。自分の初恋は間違いなく浩作先生の作品だが、現実における初恋と呼ぶものはこういうものか、と体感した。ひとめぼれ。それ以外のなんでもなかった。声が疲れ切ってぴきぴきと音を立てている背中に優しく触れる。ああ、文字にして残しておかないと。これは使命のような感覚だった。浩作先生が残してくれた場所で得たものだ。かけがえのないものに違いない。
するすると筆が進んでいく。そうして出来上がった作品が、驚いたことに賞を取り、そのまま一躍有名になると知るのは、その後の話だ。ただ、生まれてきた言葉だった。それからと言うもののそのたった一つの恋を多方面から描くことで作品を増やしていき、速筆作家などと謳われた。だが、自分には当たり前のことだった。何故なら自分の内にある世界をアウトプットしているだけなのだから。
ひと段落ついたところで、なんとなく当時を思い出しながら煙草に火をつけて、大きく煙を吸い込む。そのまま細くふーっと吐き出すと、少し遠くからけほけほと噎せる音が聞こえた。
「……、なに。」
「あ、や、えっと……、」
そこには予想通りに美咲がいた。こそこそ、と隠れていたのか何やら後ろめたさげだ。
「今夜は茶頼んでないけど。」
「わ、わかってます、ただ、」
「ただ?」
「少し、お話が……したくて、その、」
「俺とおまえの話が合うとは到底思えないけどな。」
ふう、とため息交じりに紫煙を吐き出すと、単純にもむくれる美咲。もう、接し方がわからないのだ。長年拗らせたこの想いの先へ。
「わざと人が嫌がる言葉、選んでますよね。」
「職業病かな。」
「小説のせいにしないでください。」
私の大切なものだから。
と、小声でぼそりと付け加える美咲。どうしようもなく苛立って、そしてどうしようもなく……──愛しかった。こんな傍に居るのに、何も気の利いた言葉をかけることが出来ない。それどころかとげのような言葉ばかり刺してしまう。欠落したコミュニケーション能力に、どうしたものかと考えていると、ずい、と美咲が距離を詰めてきた。
「あ、あの!」
「うるさ。なに。」
「初めての作品を書いた時、多分私、そこの、その……庭に居たと思うんですけど、も、」
「だったらなんなの。」
「……知ってたんですか。私の事。」
「知るわけねえだろ。」
虚構なんていくらでも吐ける。そういう大人になってしまった。本当は生まれた作品のほとんどの軸になっているだなんて、今更誰が言えようか。これは羞恥心なんてものじゃない。長年絡まり切って解けなくなった鎖だ。
「わ、わた、私、」
「……あんだよ、はっきり言え。」
「あなたのことが、知りたいです。」
距離が近くならないように、遠ざけ続けていたのに。何を間違ったのだろう。この娘はどこか抜けているのだろうか。
「そうだな、おまえは。」
「え?」
「火花。」
少し脅してやろう、という気が合ったわけでもない……でもないが、ぐいと腕を引いて引き寄せると、そのまま座敷へ組み敷くように娘を押し倒した。
「囲われた箱庭のようなちいさな場所でもひとしお美しく咲く、火花。一瞬の熱を全身に散らす、儚い花だ。」
美咲は、驚いて目を見開いたまま言葉を失っている。それもそうだろう。今まで悪態しか吐いてこなかった人間から向けられる言葉ではない。だが口に出してしまえば存外するりとそれは形を持った。
俺は、この娘にずっと、片想いをしていたのだから。
娘は動かない。どうしたものかと思っていると、少し震えながら、唇を開いた。いつかの青春を秘めたような瞳をこちらにむけて。
ああ、そんな眩しい目で、見るな。
「それなら私は、あなたという囲いの中で咲いて、散りたい。」
投げ返された言葉に絶句する。今度はこちらに沈黙のボールが飛んできて、受け取り損ねる。少しだけ咳払いをしてもう一度瞳を合わせれば、そこには火花があった。ゆらゆらと揺れる、赤い焔。一瞬の熱をそこに秘めたような綺麗な花。
「……ばっ…、言ってる意味分かってんのかよ。」
座敷から起き上がって、腕を掴み相手も起き上がらせると、顔を逸らす。今の自分はどうかしている。何から何まで吐き出してしまいそうになって、舌打ち交じりに悪態を吐くしか、もう手段を持たない。
「私はあなたの作品を全部読んできた。その上で、言ってます。」
「……バカな女。」
「あなたほどじゃないです。」
覚悟を決めたような娘の瞳は強かった。押されている?この自分が。
「俺なんかの何がいいの。」
「今更そんなこと、聞くの?……何がいいか分からないから、知りたいんです。私が好きな『穂村浩司』とは違う、あなた……司さん自身を。」
名を呼ばれ、ぴくりと肩が揺れる。知ってどうする。何も持たない、どうしようもない、浩司ではない自分を。