離れで生まれたもの
早朝。母は食堂の台所に立ち、慌ただしく準備をしていた。少し聞きたいことがあったが、今は難しいだろう。ひょいと少しだけ顔を出して逃げるつもりが、がっつりと掴まってしまい手伝いを要求された。
「これ、穂村さんの分。持ってって。」
「え、居ないけど……、」
「穂村さんは部屋で召し上がるのよ。だからお願い。」
なんで私はこうも運が悪いんだろう。大きくため息を吐くも抗えない圧力に、渋々トレーを持つ。どうか寝ていてくれますように。離れまで足を運んだが、どうやら起きているようで、明かりが灯っていた。
「失礼します。」
「そこ置いといて。」
「……ハイ。」
部屋に入るや否や首をふいと横に向けたと思うと一言だけ発した彼は、どうやら執筆中のようだった。明かりが外から入っているにも関わらず煌々とついている。
「徹夜、ですか?」
「だったらなに。置いといてって言ってんだろ。」
「……あまりお身体に触りませんよう。」
「余計なお世話。」
とん、とトレーごと隣の机に置くと、やっぱり自分の中の「穂村浩司」への憧れが顔を出す。こんな風に執筆しているんだ。新作はどんなのだろう。なんて、朝のぼんやりした思考がよくなかった。いつまでも部屋を出ないこちらを向いて、苛立ったような眼差しを向けられた。
「なんか用。」
「あ、あの、」
「なに、早くして。」
「穂村浩司さん、っていうのは、本名なんですか。」
「だったらなんだよ。」
「え、っと……、」
「本名とかどうでもいいだろ、知りたけりゃ帳簿でも見ろよ。」
「そこにも、穂村浩司さんとあったので……、」
すっかり書く気を失くしてしまったらしい彼は、こちらに向き直りぶっきらぼうに一言だけ「司」と告げた。
「穂村 司。浩作先生から一文字拝借した。」
「浩作先生って……おじいちゃん?」
「もういいだろ。飯食うから出てけ。」
いい加減怒らせてしまいそうなので、私は慌てて部屋を出た。司、司……。そっか、と、どこか喜んでいる自分がいて驚いた。初回からあんな扱いしか受けていないのに、やはり自分は穂村浩司のファンなのだ。ちょっとしたミーハー心だったが、答えてくれるとは思っていなかった。ぶっきらぼうで、不愛想で、口の悪い、穂村司。その実はあんな綺麗な言葉で世界を描く穂村浩司。なんだか納得できた気がした。それにしても、おじいちゃん、かあ。
ようやく食堂の朝時間を終え、一休みしている母に近づく。母はこちらに気付き、あら、と声をかけてくる。
「穂村さんに持っていくだけなのに随分かかったじゃない。」
「ちょ、っと話をしてて。」
「穂村さんが話を?珍しいわね、いつもは置いておいての一言なのに。」
確かにそうなりそうであったが、それを阻止したのは自分だった。
「ね、お母さん。おじいちゃんって、小説家だったの?」
「そうよ。」
ずず、と淹れたお茶を飲みながら懐かし気に目を細める母。
「おばあちゃん言ってたわ。穂村さん、おじいちゃんの若い頃にそっくりだって。おじいちゃんは家を建てるときに、執筆に集中できる部屋を、ってあの離れを作ったのよ。そして、そこに足繁く通ってたのが彼。」
中々想像もつかない光景だった。彼が誰かのためにそんなに必死になるなんて。
「ファンだったんですって、おじいちゃんの。弟子にしてくれって何度も頼み込んで。でもそんなのする気もなかったから、ずっと断り続けて、そのまま。おじいちゃんが亡くなって、取り壊すかどうするかっていう時に、ずぶ濡れに絶望したような彼が現れたのが、うちが下宿をはじめたきっかけ。」
まさかこの離れが出来た理由も、ここが下宿になった理由も、小説が関係していたなんて。思いもよらない事実にごくりと唾を飲み込む。と、いうことは、あの離れにいたとき、彼はずっとここにいたのか。それで、はじめての作品を生み出した。……だから懐かしさのようなものを感じるのだろうか。わからない。わからない、から、触れてみたくなった。もっと、穂村浩作の──否、穂村司の──世界に。