厭な男
そのまま眠ってしまっていたようだ。彼の小説の世界観のようなやさしい夢を見た、気がした。それがまた一気に現実に引き戻されて、空腹も乗じて吐き気を催す。着替えも後回しにとんとんと階段を降りると、何故だろう、またしてもタイミングが合ってしまって、彼と出くわしてしまう。
どうして私ってこんなにタイミングが悪いの!
「はは、そういやな、さっき面白い話を聞いたんだよ。」
鼻で軽く笑った後、男は笑みで口元を歪めた。なんだか嫌な予感がして、今すぐにでもこの場から立ち去りたくなる、だが、食事にありつくにはそうもいかない。なんですか、と小声で返すと、目線を私から地面へ移してくつくつともう一度笑う。
「おまえ、俺の作品が好きなんだってな。」
「……!」
「どうだ?憧れの先生に会った感想は。」
揶揄っている。その発言に咄嗟に恥ずかしさで赤らんだであろう頬が憎らしい。目線を逸らしたまま、沈黙が数秒。意を決してはっきりと言葉に気持ちを込める。
「あ、あなたみたいな人じゃないと、思いました。」
「ふーん、」
嫌味な声は次々と小説とは違った形で紡がれていく。私の中の彼を壊さないで欲しい。そう思えば思う程、この男は愉快なようだ。どこまで本当に作品とかけ離れれば済むのだろう。
「おまえ、俺の事嫌いになれないんだろ。」
表情は伺わない。何故なら分かるから。厭な笑みを浮かべているであろう男を前に、一歩も動けなくなってしまっているのが情けない。ぐ、と唇を噛み締めて、そこから言葉は出ていこうとしなかった。回答なんて、決まっていたから。
「こんな性格だって知って、何言われたって、あの作品を書いたのが俺だって知ってるから、好きで好きで仕方ないんだろ?」
「別に、あなたのことが好きなわけじゃない……、あなたの、作品が好きなだけで、」
「はっ、俺の“作品“、ね。」
ふうん、と喉を鳴らしながら、まじまじとこちらを伺うように覗き込む。逸らしたままの目でさえそれが伺えて、気分はどんどん悪くなっていった。
「お茶。」
「……え?」
「持って来いよ後で。それくらい出来るだろ。」
突拍子もないその言葉に、思わず顔をかちあわせてしまう。性格の様につんと尖った鼻筋に、何もかもを見抜くような黒目がちの瞳。薄い唇から漏れ出る言葉は一々嫌味たらしくて、ぎゅ、と拳を握り締めた。
「わかり、ました……、」
「風呂貰うから1時間後ぐらいで。」
そう告げると猫背がちに部屋へと戻っていく穂村。その後ろ姿をぼんやりと見届けると、なんといっていいのだろう、どうしようもない気持ちになった。
彼の作品のような恋がしたかった。
ほろりと壊れそうで、繊細に入り混じった甘さを持って、時に苦さに胸がつぶれそうになるようなそんな恋が。物語は実在しないとしても、ここまで酷いことがあるだろうか。釈然と出来るはずもないまま、重い足を引き摺って、母がまだいるであろう食堂へ向かう頃には、空腹もなんだかよくわからなくなってしまっていた。