怪しい男、その実は、
帰るや否や慌ただしく下宿用の離れの部屋の整理をする母である篝 喜咲に呼び止められ、バイトを終えて家族用玄関から入ろうとしていた娘の私は、はいこれ、と唐突に大きな段ボールを渡される。その重さに膝を折りそうになりながら、意味の分からない唐突の大工事に思わず表情を曇らせて叫ぶ。
「ちょ……と、おもっ、お母さん、なにっ……バタバタしてんの?」
「それが急に今日から部屋を使いたいってお客さんが来ちゃってね。だからあんたも手伝って、ほら!」
祖母の代から下宿として提供していた離れは随分と長年空き部屋が続いていたため、一向に掃除も行き届いておらず、母は慌てて忙しなくあちこちを掃除している。それもそのはずだ、こんな街中にある下宿を使う人間は早々居ない。その為、どちらかと言うとその一角の食堂がほぼ全ての経営を成り立たせているのだから。下宿客等、早々来るはずもないのだ。
「はあ?そんな予約なしで急なんて無理だって断わっちゃえばいいじゃん、なんでそんな無理矢理……」
「断われるわけのない上常連様なの。あー、ほら、一応玄関先で待って頂いてるから、あんた、軽く案内してきてちょうだいな。それくらい、できるで、しょっ……。」
「え、ちょ、なんで私が……っ」
背を段ボ―ルで押されながら、お茶の用意もまだ出来ていないからとずいずいリビングへ押しのけられてしまった。するとリビングの窓から、草臥れたキャリーバッグの上に気怠げに座り込んでいる男が見え、思わずびくりと肩が揺れた。目深に被ったキャスケットとマスクで伺えない表情からは怪しい人物にしか見えず、訝しい表情でそうっとその男へと近づいてみる。
「あのー……すみません、お客様、ですよね。えっと、部屋まだ……時間、かかるみたいで。中でお待ちになられますか?お茶、出しま……」
はあ、とわざとらしい大きなため息で言葉はかき消される。そしてさらには鬱陶し気にこちらへ向かってあっちへいけとでも言わんばかりに手で退くように示された。いきなり一体何だと言うのだろう。
「いや、いいよ、あんた従業員じゃないだろ。声筒抜け。娘さん?別にお茶も要らないから早く部屋さえ用意してくれりゃいいよ。俺の時間取ってんだからさ、何かしてくれる気があるなら君も手伝ってきて。その方がいい。」
苛々している様子を隠そうともせず一息に述べられる言葉に、ついには呆気にとられる。
「は、……いや、でも、」
とんとん、とこめかみを指で叩きながら、早口に言葉は続けられる。弾丸のような言葉たちはとげとげとしていて、なんだか胸を刺すようだった。それこそわざと痛い所を攻撃してくるかのように。
「いやでもでもでもないから、さあ、早くして。俺急いでんだよ。ここじゃなきゃ書けないって話が頭のこのへんにまで来てんの。下宿って看板だすならちゃんとしとくべきじゃないの、そうでしょ。無駄にさせないでくれないかな?」
依然苛立つような口調を向け続ける男から浴びせられるものに、いよいよ理不尽なのではないかと怒りと焦りを露に眉を顰めてしまう。
「そ、そこまで言わなくたって、そもそもこんな小さな街中の下宿に、あなたみたいに急に泊まりに来る方は珍しくて……っその、言い訳、ですけど……。」
「うん、よくわかってるじゃん。言い訳だね、思いっきり。じゃ、しないでさっさと部屋片付けにいこうか。それか俺の荷物運んでくれる?細腕の君に出来ると思わないけど。」
早口に嫌味をすっかりと言いきるとキャリーバックから立ち上がり、そのまま男はキャスケットを取り、打って変わった仰々しい態度で玄関へ深々と頭を下げる。
「え……っ!」
「本日から、また、宜しくお願いします。」
まるで美咲など視界に無いという勢いで建物に向けて至極丁寧な言葉を述べた後、男はキャリーバックをずるずると玄関へと引き摺って行く。キャスケットを取り露になった顔は、一目瞭然に世間を長年騒がせている人気小説家の穂村 浩司その人だった。
「うそでしょ……あれが、穂村浩司……!?」