そして何もかも失い、始まった
退廃して尖るだけ尖り切った気持ちが生み出す言葉は毒を含むものばかりだった。もう何枚握り潰しては捨てたか分からない原稿用紙を横目に、ぐしゃりと同じく握って掻き上げた髪がいつの間にか伸びている事に気が付き、どれほどの期間これに没頭しているのか強制的に思い起こさせられる。ああそうだ、失ってしまった。大切な人生の師であり、指針だった。ならば今後どう生きれば善いのかさえ、分からなくなる程に、切なる存在であった。
──きゃあきゃあ、と。
不意に聞こえた笑い声は、比喩ではなく本当に鈴の鳴る音のようだった。凛とした耳心地の善いよく通る笑い声が、この離れから見える庭先に響き渡る。
少女は、一人だった。
だけれどとても幸せそうに、野良猫だろうか、ちょろりと塀から顔を出している生き物と遊んでいる。まるでかくれんぼをしているかのように。何もかもが楽しくて仕方ない、そんなふるまいだった。あっただろうか、自分にもそんな時代が。きらきらと輝くオーラを纏い、見るものを魅了する若さの煌めき。何もかもが楽しくて仕方ない、とまではいかないが、目に入るものすべてが楽しい、そんな時期は確かにあった。ただ、その時目に居れていたのは師と勝手に仰いでいた彼の言葉ばかりだった。それしか自分にはなかったのだ。
奪われた視線は中々帰ってこない、離れが丁度薄暗い為、こちらから見ていることは気が付かないのだろう。それをいいことに、ただ、ぼんやりと、その光景を見ていた。驚くことに筆が動き出す。先ほどまでの毒々しい言葉はどこかに旅立ってしまったみたいだった。自分の知らないような柔らかな音色が耳を擽って居心地が悪い。言葉にしなければ、落ち着けない。
『煌めく金平糖のような甘い言葉がころりころりと口の中を転がる。それは一つの意志を以て、じわりと身体に沈んでいった。嗚呼、なんという言葉にして表現できるだろう。私は悩んだ。そこに恋と言う言葉を当てはめたのは、随分後になってからだった』──「春風の迷い路」穂村 浩司
「はぁ、やっぱこの人の言葉は綺麗だなぁ。何度も読んじゃう」
インタビューに記されていたのは、尊敬する小説家のデビュー作の一文。うっとりと語ると、友人はまたか、という顔を見せる。
「あんたってほんとに好きだよね、大村浩司だっけ?」
「穂村浩司!」
私、篝 美咲は特段本の虫と呼ばれるタイプの人間ではなく、でもただこの人の小説だけはすべて揃えているタイプの愛読家(と呼べるのか)だ。それを滾々とバイト先の友人である近藤 千恵に語る。いつもの日常。
の、筈だった。