事故
「…はぁ」
溜息をつくと、口から白い息が零れた。
ドッと階段に腰を下ろし、季節に合わないぐらい青い空を見上げる。
それを映すヴァイオリンケースが、太陽の光を反射して鈍く光る。
家賃を滞納して約半年。
やっと給料日だと思ったら解雇され、事前にその知らせを聞いていたのでは、と疑いたくなるようなタイミングでアパートを強制退去させる連絡が入り、帰るあてもなく職も失った。
コートの内ポケットから財布を取り出し、中身を確認して呻く。
所持金1万ユーロ。
これじゃ、安いホテルに一泊するのがやっとだ。
溜息を再び零していた自分を自嘲気味に笑い、後ろに倒れこんで天を仰ぐ。
忌々しいほどに青いその空をぼぅ…と見ながら、左手でヴァイオリンケースを開けたり閉めたり。
その時、ふ…と顔に影がかかった。
それは、一人の少年がこちらをのぞきこんでいたからだった。
「おじさん」
「おじ…お兄さんだ」
「お兄さん」
「何だ」
その少年は青い丸い目をこちらに向けて、尋ねてきた。
「お兄さんは、何をやってるの?」
「見て分からないか?」
「うん」
全く表情を変えずに頷く少年。
少年が動くたびに、ブロンドの髪がさらさらと揺れ、その視線は俺の顔、一点で止まっている。
なんとも気味の悪い少年に、俺は今すぐその場を離れたくなった。
「お兄さん、困ってるの?」
「…まぁな」
「でも、いいことが起こるよ」
「そうかよ」
「うん。
きっと…いいことが」
少年はそれだけ言うと、タッと階段を下まで飛び降り、大通りに面した路地裏に入り込んでいった。
何だったんだ…あのガキ。
いいことが、起こる?
「ハ…」
馬鹿馬鹿しい、とでもいうように頭を振って立ち上がる。
風が少し強くなり、コートがはためいた。
ガッ
風にバランスを崩し、脇に置いておいたヴァイオリンケースを蹴ってしまった。
「あっ…!」
先ほどケースの蓋をいじっていて、そのまま閉めるのを忘れていたのか、蹴った拍子に中からヴァイオリンが飛び出てしまった。
ヴァイオリンはガタガタガタッ、と音をたてて階段を滑り落ちていき、前を歩いていた老婦人の足にガンッという大きな音をたてて止まった。
しかし、悲劇はそこで終わらなかった。
ヴァイオリンが足にぶつかった老婦人はバランスを崩し、階段に向かって後ろに倒れようとしていた。
ヴァイオリンを追いかけようとしていた俺は、無残に転がっていたケースに追い討ちをかけるようにヴァイオリンケースを踏んでしまい、階段から滑り落ちていった。
「お、ぁぁぁぁぁあっ!」
どんどん勢いをつけて滑っていく自分。
目の前の老婦人にぶつかるっ、と思った瞬間、ギュッと目を瞑った。
「……ん」
くるはずの衝撃がいつまでもこないのを不思議に思い、そろそろと目を開けると、自分の上に老婦人が倒れこんでいた。
「………」
呆然としていると、老婦人が目を覚まし、俺を見た。
マズい。
冷や汗がツゥーと首筋を伝って、落ちた。
「け…」
け、何だ?
警察か警官か。
どちらにしろ逮捕されるんだろ。
あぁ…本当についてない。
最期は牢にぶち込まれて終わりか。
茫然自失といったようには、はは…と笑う。
だが、次に続く言葉を聞いた瞬間、覚醒した。
「ゲールハルト!」
「……は?」
ゲールハルト?
「あぁ、ゲールハルト!やっと帰ってきてくれたのね!」
ギュゥ、と俺にしがみついてくる白髪のおばあさん。
何がなんだか分からない俺は、警察が来るまで何もすることができなかった。
なぜか、遠くで小さな笑い声が聞こえた気がした。
新連載への愛の差か…
もう一つぜんぜん更新してない…