3-9 ♂ いつでも帰ってきてねっ ♀
「みーくん……しちゃったね」
えへ、と恥ずかしそうに愛音が言った。
彼女は乱れた服装をなおしながら、もう一度繰り返す。
「しちゃった、ね」
俺はなにも答えられない。放心状態だ。
体育倉庫のウレタンマットの上に横たわったまま、ただただ呆然としている。
「…………」
頭の中は激しい嵐が過ぎ去ったあとの朝凪のように静かだ。
そんな静謐でぴんと張り詰めたような思考の中に――
ひとつのことが思い浮かぶ。
つい今さっきまで。
愛音によってどうしようもなく理解させられたひとつの主題だ。
――俺は、心まで、女に変わってしまっている。
だけど。それを認めてしまうと。
俺の中に存在している。見て見ぬふりをしてきた。
もうひとつの感情まで。
認めてしまうことになる。どうしようもなく。
「……俺、俺……」
「うん? どうしたの?」
これまで俺自身に巻き起こった様々な倒錯的な出来事が。
男だった時には理解不能に思えた感情のひとつひとつが。
(俺は、もう、とっくに心まで女の子に――)
そんなシンプルな事柄をひとつ認めることで、簡単に解決されていく。パズルのピースがはまっていく。
あとは覚悟だけだ、と思う。覚悟?
「……ちがう。覚悟なんかじゃない」
「え?」
愛音が目をまたたかせ首をかしげた。
俺は唇を噛み締めてから、つぶやくように言った。
「俺の中にある――〝本当の気持ち〟に素直になるだけ、かもな」
「みーくん……?」
俺はゆっくりと立ち上がった。
身体の感覚がこれまでと違うような気がした。
まるで自分のものではないような――いや、むしろ逆に。
これまで感じていた〝女のカラダ〟に対する違和感がすべて薄れて、はじめから慣れ親しんだようなものにさえ思える。まるで生まれ変わったみたいだ。
「――あ」
きん。こん。かん。こん。
授業の終わりを告げるチャイムがなった。
「たいへん、もうこんな時間。行かなくちゃ」
行かなくちゃ、と愛音は言った。
「……ああ、そうだな」
俺は白く小さな掌を二三度開閉させて何かを確かめるようにしたあと。
入口の扉の隙間から漏れる、微かな光に目を細めて、言った。
「いかないと、いけない」
歩き出した途中で、一瞬愛音の方を振り向く。
「……みーくん?」
その時に俺の首元でペンダントが揺れた。
愛音はその中身を見た瞬間に――なにかを察したような表情を浮かべてから。
「――あ」
また元の、天使みたいな微笑みに戻った。
「愛音……ごめん」と俺は言った。
「ううん、あやまらないで」と愛音は言った。優しく言った。
俺は倉庫の入口(あるいは出口)の扉に手をかける。
大きく息を吸う。吐く。
これからやることはもう、決まっている。
逢いに行かなくちゃいけないやつがいる。
もうひとりの――幼馴染がいる。
「……っ‼」
意を決して扉を開くと、眩しいまでの夏の日差しと、轟々と騒ぐ蝉の鳴き声が飛び込んできた。
その光の中に駆けだそうとしたとき。
愛音が後ろで連ねるように言った。
「ねえ、みーくん。前にも言ったこと、覚えてる?」
「みーくんにこの先、どんなことがあっても」
「私はずっとずっと、いつまでも。みーくんのことが大好きだよ」
「それだけは絶対に、なにがあっても変わらないから」
「ずっとずっと待ってるから」
「だからいつでも、安心して――」
――帰ってきてね、みーくんっ。