2-7 ♂ 夜、公園、ひとつの嘘。 ♀
「あ……龍斗」
月が高い所に出ている、夜も深い時間に。
俺は幼馴染で親友の灰田龍斗を近くの公園に呼び出していた。
「――ミナタ」
龍斗はベンチに座った俺のことを見つけると、すこし頬を引きつらせ、速足で駆け寄ってきた。
「うん? どうしたんだ」
龍斗は俺の目の前で立ち止まった。
背負っていた小さめのリュックをベンチに放り出して、羽織っていた薄手のジャケットを脱いで俺の肩にかける。
「なに――そのかっこう」
「何、って」
言われて自分の恰好を確かめる。白とピンクのパジャマだ。
寝間着というよりはルームウェアのような見た目だったので、そのまま出てきたのだが……。
「今のミナタは、女の子――ちゃんと自覚、もって」
と龍斗に注意されてしまった。
「あ……すまん」
俺はもらったジャケットで自らの上半身を隠すようにする。
服にはまだ龍斗の温もりが残っていた。
「さんきゅ」
「ん」と龍斗は短く言って、周囲を見渡した。「場所、どこかに移る? もっと明るいところとか」
「ううん、ここでいい」俺は首を振った。「俺、すっぴんだし……あ」
まただ。男だった時には考えもしなかったようなことを。
今の俺は、自然に考えてしまっている。
「うー……!」と俺は頭を抱えてうつむく。「なんでも……ない」
龍斗は不思議そうな顔を浮かべてから、構わず隣に座ってきた。
「きく?」
「……え?」
「良い曲、見つけたんだ。ミナタも気にいるとおもう」
龍斗はリュックからいつものCDプレイヤーを取り出して、俺に片方のイヤホンを差し出してきた。
「……おう」と俺はそれを受け取った。受け取るときに龍斗の手に指先が触れる。
「ん――どしたの? もうちょっと、こっち来ないと」
「お、おう……」
言われたとおり、俺は龍斗の方に近づいた。
近づいて、イヤホンを右耳に入れる。
龍斗とは肩口が触れ合うくらいの距離になる。
「良い曲でしょ」
「……おう」
なんだよさっきから、おうおうおうおう。餌をねだるオットセイか!
と突っ込みが飛んできてもおかしくなかったが、龍斗は特に触れることなく俺との自然な会話を続けてくれた。
他愛のない会話。居心地の良いテンポ。親友の距離感。だけど。
今の俺は。
そんな親友に――ほんのすこし緊張をしてしまっているのだった。
「……っ!」
俺はハッとする。あらためて、このままではいけない、と思う。
胸元のペンダントの中の液体は、もう容積のほとんどを満たしている。
「りゅ、龍斗に――頼みが、あるんだっ」
俺はイヤホンを外して、隣を向き直って言った。
「たのみ?」と龍斗も自分のイヤホンを外した。
俺はとつとつと語り出す。
淫力が溜まるペースが速まってきたこと。
このままでは明日にも次の淫魔化が起きてしまいそうなこと。
前に更衣室で――龍斗としたこと。それで随分と淫力が発散されたこと。
「だから、その……龍斗の〝精気〟を、また俺にくれないかっ……?」
俺は意を決して、そんな提案をしてみた。
だけど、龍斗は。
「それは――できない」とあっさり首を振ったのだった。
「……え」
「あの時は、あくまで特別だった。特別に――愛音が、許可してくれた」
「で、でも……」
「事情は分かってる。だけどあくまで、ボクとミナタは親友で。ミナタとあーちゃんは、恋人。だから――あーちゃんの許可なしに〝そういうこと〟は、できない」
龍斗の言うことはもっともだ。
どれだけオカルトな理由があったとしたって。
――恋人がいるのに、他の人と〝キス〟をするのは不純が過ぎる。
(そう、だよな……)
更衣室の時は特別だったんだ。
状況が状況だったし。
他ならぬ愛音の許可のもとで行われた、一時の緊急手段――
(……あ)
俺はそこでふと思った。
状況が状況――
それは〝今この瞬間〟だってそうだ。
二度の淫魔化により、俺の心は無意識のうちに〝女〟に染まってきている。
このまま次の発作が起きてしまえば、事態はさらに進行して――
俺が俺ではなくなってしまうかもしれない。
そう。今だって充分に危機的な状況なのだ。
「あ、……ええ、と、」
だから。
「ん。なに? ミナタ」
状況が状況だから。
仕方がない、ことなんだ。
「そ、その……愛音には、」
「あーちゃんには?」
「――許可、もらったんだ」
一度くらい。嘘を。
ついたって――
「……そう、なの?」
龍斗が目をまたたかせた。
「あ、ああ」と俺は頷いた。「愛音も、事情は分かってくれて。ちゃんと、許してくれた。だからこうして、龍斗を、呼び出したんだ」
じりりりり、と外灯が音を立てて一瞬光が明滅した。
近くを飛んでいた羽虫がぼとりと地面に落ちる。
電気はすぐにもとに戻って、夏の夜中の公園を無機質に照らした。
「あーちゃんが許可してるんだったら――いいよ」
龍斗が言った。
「ほ、本当か?」
俺は顔を上げた。
心臓は乾いた音を立てている。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいる。
「ん」と龍斗は短く頷いた。
「……さんきゅ」と俺は言ってぎこちなく微笑んだ。
龍斗は淡い色の癖毛を軽く爪先でかいてから、俺の顔を覗きこんできた。
「なっ! なんだよ、いきなり」
「ん――するんでしょ?」
「へ? ……あ、ああ。そうだった」
俺は戸惑いながらも、首を上に傾けた。
すぐ目の前に龍斗の顔がある。その整った容貌に思わずどきりとして目をそらす。
龍斗は気にせず、ぐいと上半身を寄せてくる。
(あれ……龍斗のやつ、こんなに、大きかったっけ?)
男だった時は自分よりも背が低く、線の細い印象があったけれど。
今の俺からしてみれば、肩幅も広く、一回り以上大きな存在に感じる。
男の子の身体だ、と俺は思った。
「りゅ、龍斗……! やっぱり、俺――あ」
焦ったように視線を泳がせていたら。
龍斗は俺の頭の後ろに手を回して。
くい、と。自らに引き寄せ。
まるでとても簡単なことみたいに。
――俺の口へと、自らの口を合わせてきた。
「~~~っ……!」
夏の夜の音が周囲に満ちた。
しばらくして。ことが終わって。
俺たちはどちらからともなく身体を離した。
「「…………」」
外灯の蒼白い光に照らされる中で。
龍斗は手の甲を自らの口元にあてて。
珍しく視線を泳がせながら言った。
「やっぱり――すこし、へんなきぶん」
「え?」
「ミナタと――キスする、なんて」
「……っ!」
当然だ。
すこしどころじゃない。まったくもって変な気分だ。
たとえ今の俺のカラダが完全に〝女子〟のものであろうと。違和感は――拭えない。
(だけど……これは、仕方がないことなんだ)
俺はあらためて、自分に言い聞かせる。
「それにしても――あーちゃん、よく許してくれたね」
「え?」
「あーちゃん、こういうの、気にするタイプだと思ってた」
「……あ、えと」俺は誤魔化すように言った。「ぎゃ、逆に! お、お前も、よく引き受けてくれたな」
「ん――べつに。まえにもいちど、してるし。親友たちの頼みだったら、断れない」
――あ。
この場合の親友たち、というのは。もちろん。
俺と愛音のことを指しているわけで。
そのことを考えると、ずきん。
俺の心のどこかがひび割れたような気分になった。
「ん、ミナタ?」
「……あ、いやっ。なんでも、ない」
龍斗は目をしばたたかせたあと、すこし言いにくそうに続けた。
「それに――今回の件は、ボクに責任の一角があると思ってる」
「え?」
「あの倉庫の整理を頼んだのは、ボク。巻き込んじゃって――ごめん」
龍斗はそこで申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ……謝るなよな」と俺はなるべく明るい声を出す。「あんなオカルトになるなんて、だれも想像できなかったさ。だれも悪くない。しいて言うなら……〝運〟が悪かっただけだ」
「ん」と龍斗は安堵と不安が混じった表情を浮かべた。「ミナタは、やさしい」
「っ! や、優しくなんて、ないさ」
俺は罪悪感から、地面に視線を落とす。
「でも、だいじょうぶ」
龍斗は俺の肩にぽんと手を置いて言った。
「きっとボクが、ミナタをもとに戻す方法を、探してみせる」
俺が女のカラダになってしまっても。
彼は変わらない距離感で接してくれる。
それが今の俺には、なんだかとてもありがたかった。
「だから――だいじょうぶ」と龍斗は繰り返す。
まっすぐな瞳を向けられて。
俺はその中へと吸い込まれそうになった。
「じゃ」龍斗は相変わらず前触れ少なく会話を切り上げて、リュックを背負い歩きはじめた。
「うん? ……お前んち、逆だろ?」
「送ってあげる。みなたちゃんのこと」
龍斗はいつもの表情に戻って、おどけた感じで口角をあげた。
――ペンダントに入っていたピンク色の液体は、一気に半分ほどが減っていた。