2-4 ♂ キミだけじゃ足りないっ ♀
「う……はあ、はあ」
俺は引き続き女子更衣室のベンチで愛音と抱き合っていた。
互いに呼吸が荒くなっている。頬が上気している。肌はしっとりと汗ばんでいる。お互いに女の子の香りを漂わせている。プール独特の塩素の匂いと一緒に、感覚が鋭敏になった俺の鼻腔をくすぐる。
「えへ――またしちゃった、ね」
と愛音は言いながら、背中に回した手にぎゅうと力をこめる。
愛音の温もりを感じる。愛音の柔らかさを感じる。それと同時に。
俺は――下腹部の淫紋の内側に、疼きを感じた。
(……うん? この感覚は……)
「みーくん。おとなのキッス――これで、よかった?」
「あ、……」
愛音の質問に。
俺ははっきり頷くことはできなかった。
あんなにも濃厚な接吻をして、愛音の精気を――つまりは体液を摂取したはずなのに。
なぜ俺は。未だ。
――足りない。
などと。
思ってしまうのだ?
「す、すまん……俺、」
気まずさで愛音から目を離す。
壁のすこし高いところに大窓が見えた。
「――あ」
半分ほどが開いて風が吹き込んでいる。外から音が聞こえてくる。
水音。笛の音。喋り声。ささやき声。はしゃぎ声。人がいる。
オイシソウな、人の気配がある――
俺はふらりと立ち上がると、窓の方角を見上げた。
「みーくん……?」
愛音の声はほとんど耳に入らなかった。
それよりも、未だ収まらない身体の疼きをどうにかしたい。
欲しい。足りない。もっと――
「俺――いかなきゃ」
俺は翼を広げた。広げ方は自然と分かった。
そのまま黒い羽根を羽ばたかせ、目線よりすこし高いところにある窓まで。ふわりと。
飛んだ。
「みーくん、だめっ!」
愛音が叫ぶ。それすらも遠い世界のものごとのように聞こえる。
窓枠に立って、外に見えた光景に。
プールの中、たくさんの人間が薄着でいる状況に。
俺は舌をちろりと出して、唇を舐めて湿らせて――
その群れの中へ窓から飛び出そうとした瞬間。
「――ミナタ」
後ろから、下半身を掴まれた。
「……っ!」
そのままバランスを崩して背中から床へと落ちる。
着地の瞬間、誰かが支えてくれて衝撃が和らぐ。
「……龍、斗……?」
もうひとりの幼馴染であり俺の親友。
灰田龍斗だった。
「りゅーと⁉ ここ、女子更衣室……!」と愛音が焦るように言った。
「そんなこと言ってる場合じゃない」
龍斗は首を振って、角やらなんやらが生えた俺のことを指さして言った。
「これ、見られたらまずいでしょ」
「そ、それは、そうだけど……」
「だいじょうぶ。だれかが入ってこれないよう、ドアに鍵はかけた」と龍斗は続ける。「愛音がいたから大丈夫かと思ってたけど――どうしてまだ、もとに戻ってないの?」
「それは、こっちの、台詞だ……!」
俺は龍斗の腕の中から立ち上がって言った。
紋が刻まれた下腹部を押さえながら、未だ落ち着かない呼吸の合間にどうにか声を絞り出す。
「まだ、ここが疼いて――足りない、みたいなんだ」
「…………」龍斗はぴくんと眉毛を動かした。
「――え」と愛音は小さく口を開いた。
龍斗は続いて顎に手をおいて、何やら考え込むようにしたあと、
「どうしよう。こまった」と首を振った。「淫魔化は精気を吸うことで、もとにもどる。逆を言えば、それ以外の方法は――ボクはまだ、知らない」
「……ねえ」
様子を見ていた愛音が、おそるおそるといった感じで声を出した。
「いいよ。りゅーとと、だったら」
「……え?」
愛音は今なんと言った?
俺には言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「だから、そのっ……精気が、足りないんでしょう? うまくいくかどうかは、分からないけど。りゅーとだったら、今回だけ特別に、ゆるしてあげる。――カノジョとして」
そこで俺は龍斗と目を合わせる。
目を合わせて。ようやく意味を理解して――絶句した。
「……っ⁉」
ぼうっとしている頭をぶんぶんと振ってやる。
「お、俺が〝龍斗の精気〟を……す、吸うってことか……⁉」
さすがにすこしは理性が戻ってきた。
しかし、そんなもの。
「ででででっ! できるわけ、ないだろっ……!」
『おーい、大丈夫ー?』
その時、更衣室の扉の外から声が聞こえてきた。
がちゃり。ノブが回される。
『あれ、鍵かかってる』『なにかあったー?』
続いてノック。まずい。
今開ければ、俺のカラダを見られちまうし――
なにより、これ以上理性が持つかも分からなかった。
「ん――あーちゃんの許可が出たなら、わかった」
龍斗が短い息を吐きながら言った。
「え?」
「ボクの精気で、この場がおさまるなら――別にいい」
「はあああああっ⁉」
別にいいもなにもあるか! と俺の思考は混乱する。
龍斗は親友で、なにより――俺と同じ〝男〟なんだぞ……⁉
あ。いや! 確かに今の俺は〝女〟のカラダなんだが!
さすがにそれとこれとは話が別だ!
「あとはミナタに、まかせる」
しかし龍斗は淡々とそう言うと。
俺から背中を向いてベンチの端に座った。
「任せる、つったって……!」
『おーい、聞いてる?』『一回開けなってー』『先生も来てるよー?』
急かすように扉のノックがあった。
外では騒ぎになっているらしく、すりガラスの向こうには多くの人影があった。
「うー……!」
俺は頭を抱えてしゃがみこむ。
脳内では様々な思考がぐるぐると回っている。
『今回だけゆるしてあげる。カノジョとして』と愛音は言った。
『別にいい。ミナタにまかせる』と龍斗は言った。
〝淫魔化を解く〟という大目的があるとはいえ。
このままだと、このカラダのことが周囲にバレて〝もっと大変な騒動〟に発展しかねないとはいえ。
俺が? 龍斗と?
小さい頃から一緒だった男の親友と?
キス。
するなんて――
「う、……はあ、はあ……」
息が余計に荒くなる。だんだん過呼吸のようになってきた。
下腹部の奥が熱い。はやくこの疼きをおさめたい、と思う。
本能的に思う。どうしようもなく思う。
『関係ないだろ』と本能は言う。
『欲しい』と淫魔の本能が騒ぐ。
『足りない』『もっと』『もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと――』
気がついたときには。
「ん――ミナタ?」
俺は龍斗の肩を掴んで。
彼のその振り返りざまに。
「……っ」
唇と唇を――触れさせていた。
♡ ♡ ♡
目が覚めると、俺はもとの少女のカラダに戻っていた。
『みなたちゃんっ』『だいじょうぶ⁉』『しっかりして!』
場所はまだプール横の女子更衣室だ。
どうやら俺は、愛音や龍斗とのアレコレがあったあと、気を失うように倒れてしまったらしい。
「う……あ……」
壁側の鏡に俺の姿が映る。角も翼も消えている。
しかし瞳はとろんと蕩け、唇は半開きになっていた。
ロッカーに上半身を預けるようにしてうなだれている。全身に力が入らない。
周囲には人が集まりザワついていたが、俺の耳にはあまり詳細は届いてこない。
『あ、こっちこっちー!』『道あけてー』
ひとまずはこのあと、俺は保健室に運ばれることになったようだ。
先生と他の生徒が簡易的な担架を運んできた。
(あれ? 龍斗は……?)
ぼうっとした思考の中で周囲を見渡す。
更衣室の中に親友の姿は見当たらない。きっと騒ぎに乗じてうまく抜け出したのだろう。
授業の前半で俺のことをもみくちゃにしてきた女子たちが、『せーのっ』と俺の身体を持ち上げ担架に乗せてくれた。そのまま俺は運ばれていく。
「――あ」
その途中で。
愛音の姿が目に入った。
前髪が顔を隠すようにかかっていて、その表情は見えない。
(……あい、ね)
口にしようとしたができなかった。脳と一緒に口元もまだ痺れている。
野次馬を含めた周囲がざわざわと忙しなく動き回っている中で、愛音はひとりぽつんと立ちつくしている。
「…………」
窓から差し込む日光が、彼女の白い肌と輝く長髪を照らしていて。
まさに福音を告げに、天界から降りてきた天使様みたいだな、と思った。
俺を乗せた担架がそんな彼女の横を通り過ぎるとき。
「――ふうん」
と。
幼馴染の俺ですら。
十数年来の付き合いである俺ですら。
カレシであるはずの俺ですら。
今までに聞いたことのない、雪のように冷たい声で。
「りゅーととだったら、足りたんだ」
白金の天使様は、そうつぶやいた。