朧月の向こう
記憶が堕ちていくまるでで海のように
体から力が抜けていくまるで泡のように
『貴女は女なのよ。僕なんて言い方やめなさい』
「……」
僕にそう言うのは血の繋がりのあるあの人だ。自分の顔に似た母親もどきの『あの人』
あの人なんて自分の母親に言うつもりはないけど、どうしても認める事が出来なかった。あの人の存在も、僕自身の存在も。
反論はしない方がいいと思い、無言でその場を立ち去ろうとする。そんな僕の右腕にしがみつき女の表情をして、懇願するんだ。
『お母さんが悪かったわ。だからね、もう女に戻っていいのよ? ユウ』
反吐が出る。自分よりも僕が可愛がられると女の顔をするなと言う癖に、あの人の思い通りの操り人形になると、こうやって自分の非を認めようとせず、否定する。
こんな僕にしたのはお前だろ、と言ってしまえば楽かもしれない。しかしこんな自分を選んだのは自分自身だ。だから否定も肯定もしない。それが一番無難だと思うから。最善の答えが『無視』これ一択だ。
ガラガラガラと引き戸開け、外の世界に出ていく僕。この瞬間が一番生きている実感が出来る一瞬でもある。あの人と同じ空間でいると吐きそうになる。正直、してはいけない事をしてしまいそうになる自分が恐ろしくもあるから、立ち去るしか方法はないのだが……
いっそしてしまいたい衝動に駆られる時もある。しかし自分の手を汚しても、自分の人生に支障が出るだけだ。だからこそ自己防衛の為でもある。
『待ってユウ。私を捨てないで』
「……」
纏わりつく言葉は『呪』あの人の執着心。それが一番厄介な持ち物だろう。その感情は少しずつ内側から人格を破壊していくものだから。昔の自分ならあの人を助ける為に傍にいる事を選択したに違いない。しかし、今の自分は違う。そう断言できるようになった。
あの人の手を払うとスタスタと何もなかったように外の世界へと足を踏み入れる。今は冬の季節だ。一番好きで、嫌いになった時期。
ガシャンと引き戸を閉めると、あの人が追いかけてこれないように全速力で走る、自分の感情を吐き出すように呼吸をし、加速していく。
自分は自由なはずなのに、不自由だ。だけどせめて心だけは『人間』でいたい。そんな唯一の願いも簡単に叶える事は出来ない。呪とはそういうものだ。言葉で相手を縛り、全ての生き道を逆転させていく。いい方向にも悪い方向にも。
あの人には『絶望』を用意しよう。その中でもがき苦しむあの人を観察するのが好きだから。自分の苦しみ以上の美しい残酷な世界を見せてあげたいと感じた16歳の冬。
全ての自分を作り出したのはその過去があるから
だからこそ僕は……
血潮の中で倒れている僕がいる。まるで眠っているように意識を手放し、ミオリの前で無防備な姿を見せている。ミオリはそんな僕を見下ろし、フンと鼻で嗤う。
「裏切り者を連れていくわよ。あたしは汚いものに触れるつもりはないわ。ユウの事を大好きな貴女なら担げるでしょう?」
朧月を隠すように黒いクモがかかる。
その向こうに黒い影が浮き彫りになっていくんだ……