重なる音と懐かしい匂い
『君を止めれない俺は、いつまでも弱者だ……』
悲しい匂いがあゆを包み込み、あの瞬間へと堕としていく。人間として産まれる事が出来なかった彼女は自分の生きる世界で一人の男を、ただ見つめていた。蒼く靡く髪は海のような深さを纏いながら、一つの命の灯を奪っていった。
この世界と現世を繋ぐ糸は『夢』と言う幻想により繋がってしまった。男は夢の中であゆの生きる世界へと迷い込み、吸い寄せられるように、求めるように彼女の存在を見つけてしまったのだ。愛を知る事のないあゆは、見た目は人の姿をしているが、魂に命の輝きは見られない。そんな姿を見て、男は口を開き、呟いた。
『……美しい』
その音は静寂の中で激震のように震えあがり、怒号へと変化していく。生きた者がこの世界に迷い込む事なんて、今までなかった。初めての経験を目の当たりにしたあゆは、驚いたように目を見開き、彼に近づいていく。
「……何故、慶雲に」
二人の視線が混ざり合いながら縁を作り替えていく。この世に神がいるとしたらそれは『悪戯』だったのかもしれない。その出会いが彼女の全てを変えていく序章になる事など、誰にも予測出来ない。
『迷い込んだようなんだ、君はここに住んでいるのかい?』
「ええ」
『ここは重苦しい場所だね、だけど君はとても美しく、悲しみに包まれている』
「……」
男は自分の感じる素直な感情表現をしている。生きた人間を鏡を通して見て来たが、実際に対面する事のなかったあゆは、返答に困りながらも、いつものように自分を作り替えていく。そこにあるのは無。感情など持たず、揺られる事のなかった彼女は自分に心などないのに、何故だか疼いた。表情に出す事は出来ない。少しでも気を緩めてしまうと見せてはいけない表情が表に出てきそうだったのだから──
『寝ていたはずなんだけどなぁ、気が付いたらここにいたんだ。それも君と出会う為に起きた『奇跡』なのかもしれないね』
人懐っこい笑顔で言うと、温度のない空間に生きて来たあゆの当たり前を塗り替えていく、不思議な空気感を伝染させていく変わった人間だと感じてしまった。自分の役目だけを全う出来れば、それでいい。それ以上も以下も必要ない。あゆにとって人間は操り人形のようであり、自分には必要のない存在だと考えていた。
フッと笑ってしまうあゆが男の視線を掠め取っていく。無表情を貫いていた黒い美しい女が初めて『微笑み』を見せた瞬間に立ち会えた男は、純粋に嬉しく、そして自分の手の中へと隠したくなっていた事に気付く事はない。
どうでもよかったはずなのに、何故だか惹かれてしまう、不思議な男だった──
小夜が放った言葉が彼女の昔へと繋げる線になる。引き寄せられる懐かしい匂いが鼻の奥を刺激し、深い感情に溺れてしまいそうになる。しかし、小夜の前でそんな姿をさらけ出す事は出来ない。何故なら、見せてしまっては取返しが着かないと感じていたからだった。
小夜は男の匂いに包まれているように、優しい声であゆを包み込んでいく。
『あゆと一緒にいると心強いよ──安心する』
小夜の声が鼓膜を響かせ、彼の人の体温と混ざっていく。あゆの中で彼の存在は奥底に沈めてしまいたい痛い想い出だったのだから──
右目から一筋の美しい滴が流れた。
人間の器を使っているからか分からないが、何もなかった自分の中で何かが弾けた瞬間だった。