Red nail
人は普通では経験しない物事を目の当たりにすると、自己防衛の為に捨ててしまう。ユウの場合は記憶を手放し、彼女の場合は感情だった。二人は背中合わせで狂ったように嗤っていく。逃げられない鎖で繋がれた二人は目線は違うはずなのに、同じものを見ている。
彼女達の爪に塗られた『Red nail』が切り裂いていく。
一人の人物の首を腕を足を──そして心臓までも……
彼女は約束している時間の五分前に着いていた。顔見知り程度の人だけど、何故だか惹かれた女がいる。人と深い付き合いをするのは勘弁と思っていたはずなのに、初めて女を見た時、感じた感覚を忘れる事が出来ないでいた。
自分と似ている人間なんているわけない、誰かに分かってもらう事も、相手に好きになってもらう事にも興味を抱けないでいる。どんな人と遊んでいても、笑えない。
『──はじめまして、鮎川アイラって言います』
見た目は美人だが、生きている人間の匂いがしない。ビリビリと感じる違和感に彼女は女が嘘を隠し持っている事に気付いていた。本来なら女の対応で嘘を見破る事は出来ないだろう。目線も態度も物腰も、全て人に愛されている。そこに違和感を感じていた。この女は完璧すぎて付け込む隙が見当たらない。彼女はそんな鮎川の事を把握する為に、様子を伺っていたのだ。
昔の彼女なら満面の笑みで対応をしていたかもしれない。そうすれば自分を守る事にもなるし、ある程度合わしておく方が楽だからだ。人から嫌われる事に怯えながら生きていた昔の彼女は、もういない。彼女自身も戻りたいなんて考える事もない。
「……13時か」
色々な事を頭の中で張り巡らせているといつの間にか約束の時間になっている。カチカチと鈍い音を響かす腕時計を見つめながら、秒数を数えた。暇潰しになるのは勿論、複雑に絡み合った情報を整理する為に今まで得た全ての記憶を頭の中でMVのように物語に作り替えていく。そしてそこから見える『真実』を自分の求める答えに繋がるピースを合わせていった。
彼女はハッと短く笑うと、長い前髪で表情を隠す。傍から見たら失恋でもしたように見えたのかもしれない。前髪の隙間から見えた高校生達がこちらを指さし、何か言っている。
ああ、まただ。
──ドクン
その光景はあの女達と重なり、過去にタイムスリップしていくような感覚に堕ちていく。フラッシュバックに近いかもしれない。でも彼女はただそれを受け止める。忘れたい事があった。それを受け止める強さなんてない。だけど自分の願いの為なら、そんな事は些細な事であり、どうでもいいしょうもない物事だった。MVと化した記憶はたまらなく美味しそうなご馳走に見えてくる。
「私が……」
そう呟いた瞬間だった。遅れてきた女が彼女の元へと声をかけたのだった。
『ハァハァ……遅れました。すみません』
「いいんですよ。私も現在来ましたから」
透き通った声が女の耳を支配していく。生きた人間なはずなのに、彼女からは『死』の匂いがした。そこに触れるかどうか躊躇いながら、口を開こうとすると、真っすぐな瞳で女へと視線を注いだ。
「さ、行きましょうか。鮎川さん」
『はい……篠崎さん』
にっこり微笑む姿は氷のように冷たく、その姿が逆に美しいとも感じたのだった──
「名字で呼ぶより名前で呼んでくれませんか?」
『ええ、いいですよ』
「私、鮎川さんの事好きですし」
鮎川は彼女の言葉に隠れる化け物に気付く。彼女の好きは普通とは違うと感じたのだろう。そこには猟奇的な趣向が隠れていたのだ。実際は『好き』と言うのは建前でしかない。表ではある程度は言葉を選ばないと自分が紛れ込んでいる狼だと気づかれてしまう。だからこそあえて『好き』を選んだ。
『ふふふ。あたしの事はあゆでいいですよ。鮎川のあゆです、単純かもしれないけど』
「いいですね。私は小夜と呼んでください。改めてよろしくお願いします、あゆ」
『よろしくね、小夜』
小夜は心の中で自分の欲望を抑え込みながら、優しいフリをする。本当ならば雄たけびのような歓喜をあげたいくらいだろうが、それは家に帰ってから出来る、そう自分を説得するように、何度も何度も暗闇の奥底に眠る幼い自分を両爪で何度も何度も肉を切った。




