おかえりなさい……ただいま
スピードに乗っていく車の中で僕はただ流れていく夜の光を見つめながら時を過ごしていく。あれからハルもカオルも無言を貫いている。これ以上話す事はないといった雰囲気を出しながらその空間を守っている様子だった。
自分がどんな世界に足を踏み入れてしまったのかと不安はあるが、どうしてだか先ほど感じていた恐怖は徐々に小さくなって消滅していく。僕が気づいていない所で何かが産まれていくような感覚を感じながら現状に映し出された映像が妄想の世界の景色へと変化していく。
「え……」
つい声を漏らしてしまったがそんなのはもうどうでもいい。肉体は他の者の動きを感覚的に捉えている、だが僕の思考は血と女の叫び声と美しい死体で埋め尽くされていった。
『貴女は私の子供よ、ユウ。もう少しで私の元に帰るのね』
黒い髪が僕の全てを絡み取りながら侵食していく。真っ黒になっていく僕はもうユウと呼ばれるような存在ではなくなっていた。
女は前髪を掻き上げると赤い唇をペロリと舐めながら僕の頬を挟み洗脳するように何度も繰り返した。
『────だから────あ───ふふ』
途切れ途切れに聞こえてくる音が僕の脳天を突き破りながらあふれ出る血のシャワーを浴びながら愉悦に酔いしれている。
「あああ………あ」
僕と言う人間がボロボロと崩れ落ちていく。脳みその中に埋まっていたアイツが全ての血液を自分の体の軸へとする為に肉体と精神を喰っていく。真っ赤に染まったアイツは女の手を取ると僕の体を半分以上取り込めた事を確認したかのように微笑んだ。
「ただいま。母さん」
母はうっとりとした表情でボクを見つめている。赤く汚れた頬の血を拭うと今度は優しく微笑んだ。ボクが手放した過去の光景は色鮮やかに残っている事を自覚した事で尚更、自分が元に戻る事がどれだけ周囲にとってメリットが産まれるかを実感している。
『悠。おかえりなさい』
ボクと母は昔のように狂った愛情の中で生きている。お互いの体を切り付け肉破片にしていく事の喜びを噛みしめながらボクは母の首に、母はボクの左腕に爪を食い込ますと思いっきり引き裂く。まるで刃物のように尖った爪はぷっくりと肉に食い込みゆっくりと赤い涙を流す。それをお互い確認するとボク達はいつものように愛の言葉を綴る。
『愛しているから───』
「愛しているからこそ───」
「『コロス』」
『「コロしたい」』
歪んだ世界は弱い僕を封じ込めながら時間の共有と意識、記憶の共有を自分の物にした。その引き金を引いてくれたのはあの男のお蔭だろうな。
匂いを感じた、昔の殺意を。痺れるくらいの快楽を感じている。ああ、これだ。この瞬間があるからこそ生きている実感を得る事が出来る。
「まだ半分だけだけど、今日はいい夜だな。昔から逃げれるなんて甘い考えを持つなんてどこまでガキなんだよ。ハルとカオルに感謝しろよ。じゃねぇとお前のメンタルじゃ壊れるのがオチだかんな。二年間の記憶を忘れる事でしか生きれないお前とは違うんだよ、ユウ。ボクはなこの時を待っていたんだ」
現実と深層心理の世界を繋げる必要があったボクは言葉でまだ残っているユウの瓦礫にトドメを刺そうとする。すると母は微笑みながら血に濡れた手を美味しそうに舐めながらこちらを見ている。
『それぐらいにしときなさい、悠。お父さんがやっとお前を元に戻してくれたのだから彼女にも感謝をしないと。記憶を手放してくれたお蔭でこの女の体を手に入れる事が出来るのだから───ね。今はまだ、よ』
「そう……だね」
母の言葉はボクの生きる道しるべでもある。それは過去も現在もそしてこれからも変わらない。正直、やっと生き返る事が出来るのにそのチャンスを手放すのは癪に障る。ボクの記憶はまだ完璧ではない、だからこその事を考えてそう判断するしかなかった。
『馴染ませていくのよ、お父さんがその為に下準備をしてくれているのだから。可愛い私の息子。悠樹はいい子だからね』
獣が喉を唸らせながらその時を待っている。赤いルージュを好み、羊の皮を被りながら本当の姿を出せる瞬間に移るまで暗闇と同化しながら漂い一つの海となる。
自分が何者なのか分からない。
生きているのかもシんでいるのかも……
僕はただ彼の姿に怯えながらも受け入れようとしている。
新しい自分に生まれ変わる為に──
夢と現実の堺が分からなくなりながらも、生きている事だけは肯定している。脳の中で沢山の黒い虫がはいずりながら一つの存在へと進化していくんだ。自分では制御出来ずにいるはずなのに、口元には笑みと呪文のようにある言葉を口ずさんでいた。
『君は凄く素敵な人だ。僕は君になりたい
その手を目を舌をはぎ取って僕のモノとして飾るのが新しい夢。
君は僕が欲しいんだろう? 僕も同じ気持ちさ』
ははははっ、愉快だ。
こんなに楽しい事はない。
今まで生きてきた事はこの現実に出会う為に生きていたのだ。
自分の体から離れた声は喉を焼き付け呪いのように空間を支配する。まるで昔、テレビで見た連鎖実験のように全てを飲み込んで新しい思考を吐き出し侵食していく。僕の脳は焼け落ち、残った体はガラクタのように軋んでいく。それがまた愛しく美しい芸術のようで蕩けた。
『──ウ……ユウ』
遠くから誰かが僕を呼んでいる。ああ邪魔だなぁ……せっかく狂いそうな快楽を楽しんでいるのに横やりばかりしてくる声の主を消したくて唇をかみ砕こうとする。
ガリッと音が全身を支配するとまるでそれは肉を噛み切る時の感覚と似ていてまた美味。トロリと広がるあぶらと血の匂いがツンと鼻に上がってくると、美味しくて美味しくて獣を食したくなった。この感覚は自分のものではないと知りながらも、今までの自分を取り戻す術を知らない僕は、ただ、ただ、彼のマリオネットに成り下がりながら、求められた役を演じ続けていたんだ。
温かい温もりが肌を通じて僕の血と混ざりあいながら奥底に帰ろうとする彼にしがみつきながら、何度も頼む。
『何処に行くの。僕をこんなにして放置なんてどこまで残酷なんだ、君は……。僕をどん底に落して君は、また僕から離れていくのかい?』
口調が変化している事に気付かずに、淡々と言葉を連なる。最初は人間らしい言葉で話していたはずなのに、色を失ったかのように少しずつ細切れに刻みながら首を揺らして、低く笑っている。
「くっっ、くくくくく。最高」
夢と現実に揺られながら車の中で寄声を挙げながら両手で叩く。両手から始まり、頬、頭、最後には首へと滑らすと力を込めながら、涎を垂らしていた。
『ハル。その女放置していていいのか?』
『ああ。何も問題はない。どうせ匂いにあてられただけだろうからな』
カオルの言葉を軽くあしらいながら、タバコに火を点けると余韻を楽しむように煙の味を堪能し始めた。幻覚に襲われている僕の劇場を愉しむ観客のように。
車の中を充満しているのは道化師が用意したコロンの匂い。僕自身も知らない昔を象徴させる匂い。
過去の記憶を連想させる為に、引き金を引く為に、用意されたものだった。




