ボーダーライン
一度足を踏み入れると絡めとられる事になる。それでも自分が生きている事の事実を確認する作業の一つとして自ら飛び込む事しか選択肢はなかった。
『久しぶりだねユウ。元気かい?』
「はい。えっと……」
僕はこの人の名前を知らない。聞くタイミングを失っていた部分もあるが、聞く事を躊躇っていた。普通に生きているとこの人達と出会う事はなかっただろう。この世界のイロハを知らない僕は何処まで発言していいのかボーダーラインを知らないからだ。
『どうしたの? 何かあるなら言ってごらん』
「はい……貴方のお名前は」
『あっはっはっは。そう言えば俺言ってなかったっけ?』
大したことないと言わんばかりの反応に肩透かしを食らった。緊張感と威圧感が混ざり合いながら僕を縛っていたから余計だ。
『俺はね個人として君に興味を抱いた、それだけだからね? そんなに気を張る必要はないよ。生きる世界が違うだけで俺も同じだからさ』
「そうですね」
それ以上何を言っていいのか分からずその代わりに溜息が零れ落ちる。そんな僕の様子を見ている彼は思いきり噴き出すとお腹を押さえゲラゲラと笑っている。
「そんなに笑わなくても……」
『悪い悪い。新鮮で楽しくてね。俺の名前は『春樹』と言うんだ。皆は『ハル』って呼んでる。君も好きなように呼んでいいよ』
「じゃあハルさんでいいですか?」
呼び捨てで呼ぶ事なんて出来ない。敬語を使いながら話を移そうとすると見逃してくれないハルさんは僕の頭を撫でながら提案をしてくる。
『敬語もいらないし、呼び捨てでいい。君は何も知らないからこそ俺みたいな存在が必要になる時が来るだろうね。その時の為に『自分を守る』為に友好関係は築いていた方がいい。だから『ハル』って呼んでよ』
真面目な話をしているのにこの人は笑顔のままだ。時々見せる視線からは氷のように冷たいまるで獲物を見るようなハルの眼差しから逃れる事が出来ない。どれだけあがいてもこの人からは離れられない気がしている。そんな僕に気付いているはずなのに、気づかない振りをしているハルを脅威だと感じてしまった。
怯えていても何も変わらない。覚悟を決めたはずなのに揺らいでいく心を抑えるので精一杯だった。少しでも気を抜くとこの人に『喰われて』しまいそうで怖かったんだ。
「分かったよ、ハル」
『それでいい。ユウ、ようこそこちら側へ』
出された手を払う事だって出来るはずだった。本当の意味の『支配』を知らないこの時の僕は震える体を抑えるように深呼吸をすると、ハルの手を取った。
言葉の代わりにコクンと頷く僕を見ているハルはすこぶる機嫌がいい。有無を言わせない彼の重圧から逃げ出そうとすればする程、自分の身が危なくなる事くらい理解していた。だからこそこの手をとる以外の答えは用意されていない。
僕とハルの会話を楽しみながら運転手の男も愉快そうに言葉を突きつけてくる。
『俺はカオル。よろしくな、ユウ。逃げるんじゃねぇぞ』
「よろしく」
僕達三人を乗せて走る車の音が響き渡りながら、街の光が目に差し込んで離れる事はなかった。