引き金
懐かしい人は昔と同じ笑顔で手招きをする。こっちにおいでと──
ナギトは違和感を感じながらもその人の後をついていくのだ。足元を見ると道なんてものはない。あるのは暗闇だけだった。どうやって歩いているのだろうかと思いながらも、その度にその人は振り返る。まるで考える事を邪魔しているように。
次第に眩暈がするようになった。やけに眠たい。今まで感じた事のないような意識が遠ざかるような、落ちるような感覚。その中でもその人は歩き続ける。まるで地獄へと連れていく案内人のように。
『その人を何処に連れていくつもりなのかしら?』
目は開いているはずなのに、映像が何も見えない。感じる事が出来るのは聴覚だけだ。ナギトはどうにか起き上がらないといけないと体を動かそうとするが、黒い霧が鎖の形に変わり、体中に巻き付いている状態で身動きが出来ない。
虚ろな瞳の奥にあるのは彼岸花の映像。目で見えるものは美しいのに、脳で感じる映像は別の生き方をしている自分自身を映し出していた。同じ事を繰り返す為だけに生まれてきたのか、と思うと体が心に反応してより重みを増していく。
『こちらへおいで』
ナギトの聴覚を歪ますようにその人は言葉で縛る。何も考えなくていい、楽になれる。全て諦めればいい、そうする為が本当の幸せなのだよとテレパシーを飛ばしながら支配していくんだ。
『人間の姿を真似してまで、その人の『魂』が欲しいの? そんなに腹が減っているの?』
『……あ』
女はその人を止めるように抱きしめると、ズンと重たい空間を作り出していく。女の創り出した歪みはそのものにとっては耐えがたい痛みとなって沈んでいく。その瞬間、ナギトを雁字搦めにしていた鎖は砂になり、そのものと共に本当の闇に飲みこまれていった。
『この人はまだ死者ではないわ。体に返さないといけない』
『うあ』
『あら私が分かるの? 不思議な人ね。まだしんどいでしょう』
『うあ』
『そう。反応があるだけマシだわ。私が元の居場所へ帰してあげる』
女は『うあ』としか反応出来ないナギトをフワリと抱きしめると悲しく笑う。その表情の意味を知る訳もなく、ふんわりとナギトの記憶へと入り込んでいくのだ。誰かに抱きしめられる温かさを知った彼は自分が母体の中でいた時の事を思い出しながら涙を流す。
『貴方にとっては『残酷』かもしれない。だけど生きているとね、悪い事ばかりじゃないのよ? 人として産まれてきた事が奇跡なの。願っても『人』になれない存在もいるのだからね』
彼女から体温を感じる事はなかった。その代わり心が満たされていく。知らない温もりを知り、子供に返ったように安心したナギトはふんわりと瞼を閉じた。
懐かしい匂いがした。
優しい声の女から──
その出会いが引き金になるなんて誰も知らない。その事実を受け止め、生きているのは『道化師』だけだった。