戻れない、戻りたくない
なぁ……あの時の事を覚えているか?──
あいつは僕の後ろにへばりつきながら囁いてくる。あいつの声が僕の憎悪のスイッチでもあるのだ。昔からそうだった、綺麗事を口にする自分に嫌気がさしていたんだ。
「お前に言われなくても分かってる」
「ふうん。その割に甘いのは気のせいか?」
あいつの憎悪の匂いが濃くなっていく。今にも僕を取り込んでしまいそうな嫌な匂い。綺麗な世界を見ていたあの時の僕はもういない。左手からは血が流れて床に絵画を描いている。
普通の幸せが欲しかった。ただ『家族』と笑い合うような幸せが。それも過去の願いだ。人間は弱い者を虐めて支配する、欲深い奴程、表の顔がいい。それを一番理解しているからこそ、優しい自分を演じる事に諦めがついた。
「ユウ、お前も来いよ、俺の世界へ」
「……」
煩い虫がへばりついてくる。
「希望を見るより絶望に堕ちた方が楽になる。お前は闇落ちしてもその耐性を持っているだろ?」
「だから何?」
僕はサッとあいつの影を掴むとクビを締め、囁き返す。
「お前がいる居場所に僕の欲しいものはない。面白くもない、楽しくもない、何もない。そんなところに堕ちて、僕に何の得がある?」
「楽になれる」
その答えを聞いてゲラゲラ腹を抱え笑い出してしまった。そんなものの為に逃げ道を選択するなんてバカげている。そこには何の『刺激』もないのだから。
「お前も堕ちたな。昔は面白かったのにさ、残念だよ、ほんと」
「なっ……」
「だけどきっかけを与えてくれたのはお前だったな、ありがとう感謝しているよ」
この世は『弱肉強食』だ。
僕はその真実を身体で受けてきた。
いつからだろう。
笑う自分を抹殺したくなったのは。
「つまんねぇな」
切り付けられた手は汗と混ざり合って染み込んでいく。タバコを咥えるとツンと香る鉄の匂いと甘い甘い砂糖の味がした。
「うますぎるな、血が馴染むとタバコってこんな『甘い』んだな」
知ってしまった生きるかシヌかの『刺激』は心を躍らし、当たり前だった感覚も狂わしていくのだ。僕が僕として生きれるのも長くはない。
「堕ちるならさ、楽しみたいじゃん? お前はぬるすぎるんだよバーカ」
ゴロンと転がっている赤く彩られた女の死体を足蹴にし、上から灰を落としていく。
これが僕の生きる世界であり、生きる意味。
「僕も貴方みたいにもっと染まりたいよ。だからさ待っててね」
中途半端な闇はいらない。
そこには叫び声も死体も芸術も甘い匂いも何もない。
だからこそもっと知りたい。例え、昔の僕が『大切』にしていた人達を犠牲にしてでも──
今でも脳裏に過るのは綺麗な笑顔を作るあの人の姿。
ワインを注ぐあの人の仕草を美しいと感じた時から始まった。
「もう戻れない、戻りたくない。今の方が生きてる感覚がする」
そうやって僕は昔の自分を見下し、嘲る。忌々しい醜い無知だった自分を。