田中、殺す。
艶かしさすら覚える刃は刻一刻と俺との距離を縮めてくる。
俺の目線は刀に釘付けになり、いまからそれで体を斬りつけられる想像を繰り返しては、全身から汗が滲み出た。
「田中さん!やるしかないよ!」
2メートル程しか離れていない筈の志島月子の声がひどく遠くから聞こえるような錯覚に陥る。
「くっくっく…。」
笑みを浮かべるのは刀を握る組長の松原。
「刀ってのは…不思議なパワーがある。握ると…こう…何と言ったらいいのかな。体の奥から炎が湧き上がってくるんだよ。今すぐにこれを振るって何かを…誰かを斬りつけたいという欲求に駆られる。
それを満たす時が…一番楽しい!!」
大振りで振り下ろされた刀に対し、俺は反射的に後ずさり尻餅をつく。
まずい。もう一度攻撃されれば今度は避けられない。
そう感じたし、実際にそうなのだろうが、松原は俺を追撃することはしなかった。
「立てよ。」
ニヤつきながら言う松原を見て理解した。
彼は遊んでいる。彼にとって俺は恐怖を示す愉快な玩具にすぎないのだ。
玩具は壊れてしまってはもう遊べない。
彼はじっくりと楽しみながら殺すつもりなのだ。
「田中さん!!!土田を殺したのを思い出して!田中さ…。」
志島月子の健気なエールは中途半端に途切れる。
そう、彼女にしたって命の奪い合いの最中だ。
水戸と呼ばれていた巨漢は志島に詰め寄り、固めた拳を突き出した。
志島月子は俺とは違い華麗なバックステップでそれを回避する。
「身軽な女だな。」
「えー。なんかそれ貶されてる気分。」
次に攻撃に回ったのは志島月子。お得意のチェーンが水戸を目掛けて一直線。
水戸はそれを首を捻って交わす。
「俺の持つ質量からノロマだと考えたのなら改めた方がいいぜお嬢ちゃん。俺は動ける筋肉ダルマだ。」
「…自慢もいいけど、そもそもあなたに当てる気じゃなかったからね。」
「これだから子供は…見苦しい言い訳は…ごあっ!!!」
彼女の主張は真実だったらしい。
水戸を通り過ぎたチェーンは彼の背後にある高価そうな壺を巻き取り、志島月子がチェーンを引き戻すと、壺が水戸の後頭部に打ち付けられた。
盛大な音を立てて割れ、散っていく壺の破片。
その中には赤く輝く液体も混ざっていた。
「ぐぬぅ…。」
倒れこそしなかったが、頭を割られた水戸に明らかなダメージが見て取れる。
「この程度!!!」
強がりなのか、本当に大した怪我でないと捉えているのかは定かではないが、水戸は痛みや苦痛を感じさせない迫力で志島月子に向かい駆け出した。
横振りの打撃はやはり志島月子には当たらない。
腰を落とし、姿勢を低くすることで打撃をかわした彼女は、そのまま前転し水戸の背後を取る。
水戸はすかさず振り返り次の攻撃を仕掛けようとするが、いつの間にか右腕に巻かれたチェーンに気が付き動きを止める。
志島月子は前転時にに水戸の拳に向かって既にチェーンを放っており、それは見事に命中していた。
戦闘開始当初と真逆の位置に立ち、互いを見つめる2人。
「フン…だからなんだ?これで自由を奪ったつもりか?分かるだろう…筋力の圧倒的な差を!俺が腕を振り回せば飛んでいってダメージを負うのはお前だぜ!!」
膨れ上がる胸筋を見せつけながら豪語する水戸に、志島月子は呆れた声で答えた。
「脳まで筋肉なのね。ウケる。してないワケないよね…フィジカル差を埋める用意。」
そう言うと志島月子は目を瞑る。
「フッ。」と浅い呼吸をしながら再び目が開かれたのと同時に、チェーンが強く発光した。
「ギギギギギ!!!」
水戸の口から聞いたことのない悲鳴が漏れる。
チェーンから流れ出た電流が彼の体の中で暴れ回っているからだ。
「ぐ…ぐ…!!!」
必死に堪えようとする水戸に対し、志島月子はただ立っているだけだった。
さて、そんなプロ同士の攻防をよそに、こちらの試合展開は一方的なものだった。
「ああ…うぐぅ…。」
体につけられたいくつもの切り傷から溢れる血の量は大したことはなかったが、圧倒的な強者の掌の上で踊らされている感覚は恐怖を生み出し、俺はそれに完全に呑まれていた。
「ほらほらぁ!」
振われた刀を避けようと体を捻るが、それも虚しく大腿に新しい切り傷がつく。
「ぐううっ!」
痛みと恐怖で膝をついてしまう。
「くっくくくく!ああ…楽しいなぁ。悪く思わないでくれよ…というか俺は悪くないしな。喧嘩を売ってきたのはお前たちなんだから…正当防衛ってやつだよ。」
「はぁ…はぁ…。」
松原の話を聞く余裕などとうに無い。
「水戸ぉ!お前も気合い入れていけよ!!高い金払ってんだから負けましたじゃ済まねぇぞコラ!」
発破をかけるには余りにも遅いように見えた。
水戸は電撃をもう10秒近くも受け続けており、悲鳴すらあげていない。立ったまま死んでしまったように見える。
「ふん!何言ってももう無駄よ。」
志島月子の見解も同じようだった。
つまり、俺たちは2人とも考え違いをしていたことになる。
「うっおおおおお!!!」
水戸の咆哮は生命力に溢れていた。
どこに残っていのかまったく不可解である力を使い、チェーンの巻かれた腕を思いきり振り回す。
隙をつかれた志島は体をチェーンに持っていかれ、近くの壁に激突した。
「ふぅ…。痛かったぜ。」
水戸は解かれたチェーンが巻かれていた手首を擦りながら誰が見ても分かることを呟いた。
彼の驚異的な生命力を目の当たりにしていた俺と水戸との目が合う。
すると水戸は一歩二歩とこちらに近付いてきた。
「お前らのせいで…この後病院行きだよ。ジムの予約してたのによお!!」
「おい水戸!そいつは俺の獲物だぞ!」
そんな松原の言葉は全く届いていないらしく、水戸は俺の目の前で立ち止まる。
今からこの巨漢に殴られて殺される。
そう考えた次の瞬間、彼の背後からチェーンが迫る。
「うおっとぉ!」
水戸は頭を下げてギリギリのところでそれを回避した。
チェーンを放ったのは当然志島月子。
割れた壁面の元で頭部から血を流し、膝をついていた。
「…バカな奴め!生きていたのなら逃げて態勢を立て直せばいいものを!」
もっともな主張だ。
彼女にとって水戸という男の存在は今回の任務では想定外。その結果、事が不利に働くのであれば、一度逃げ帰りまた明日にでもチャレンジすればいい。
しかし彼女はそうしなかった。
逃げず、最早勝ち目の薄い相手に対して無謀にも攻撃し、自らの存在をアピールしてみせた。
そして…その理由は明白だった。
「この男に命を賭けてまで守る価値などないだろう!」
水戸の主張はやはり正しい。
後は殺されるだけだという中年を助ける理由など、本人にだって見当たらない。
志島月子の見解は違った。
「価値…あるわよ。その男は…田中さんには才能がある。殺し屋の才能が。きっと…私なんかよりもずっと素晴らしい殺し屋になる。ここで死んでいい筈…ないでしょう。」
彼女は信じていた。初めから信じ続けていた。言い続けてきた。
俺に殺し屋の才能があると。
一方で俺はれそを拒絶してきた。
志島月子の言葉を信じ、自分の才能を信じた末にそれが勘違いだった時の虚脱感を恐れて。
だが…それで何になるというのだろう。
自分より一回り以上も歳の離れた少女が命を賭けて訴える主張を跳ね除けて、そうして俺に何が残るのだろう。
「水戸!そっちの女きっちり殺しておけよ!こっちもフィナーレだ!!」
才能があるかは分からない。目の前の刀を振るう男に勝てるかは分からない。
それでも…せめて彼女の気持ちには答えよう。
失敗しても…死ぬだけだ。
それは才能を信じず、彼女の命を無駄に散らせるよりかは…いくらかはマシだろうから。
恐怖は依然として濃く残っていた。
抱いているのは希望というほど高価な代物ではない。
それでも…。
俺は立ち上がった。
正面から松原を見つめた。
「きえええっ!!」
異様に甲高い声で叫ぶ松原が両手で握った刀は、俺の首を目掛けて弧を描くように動き始めた。
…人は人の命を簡単に奪えるようにプログラミングされていない。
当然と言えば当然だ。
人間に限らずあらゆる生命体により運営される様々な社会は、信頼によって成り立っている。
隣の席に座るクラスメイトが突然カッターで切りつけてこないだろうという信頼。
満員電車で背中合わせになったサラリーマンがカバンから包丁を取り出して突き立ててこないだろうという信頼。
それがなければ我々はカーテンを締め切り自室に閉じこもるしかないだろう。
そしてその信頼はどうやって生まれるのか。
それは自分も相手を殺さないという信頼を相手に与えることでのみ発生する。
私は殺さないので貴方も殺さないで下さい。
言葉にすると何とも滑稽な一文だが、しかし、これが無意識のうちに大前提となっているから、我々は生活を送ることができる。
その大前提を崩し、他者を殺すと言うのは簡単なことではない。
強い意志…生まれ持った不殺のプログラミングを破るにはどうにかして強い殺意を捻出せねばならない。
松原は甲高い声をあげることで自らを鼓舞し、俺の首を落とすための一撃を繰り出した。
水戸は生命力に溢れる大声で自分を奮い立たせた。
志島月子は浅い呼吸をすることで心に区切りをつけた。
各々が命を奪うための、殺しに手を染めるためのトリガーを持っている。
では、俺のトリガーは。
俺はいったいどうすれば他者の命を狩るための一歩を踏み出せるのだろう。
脱獄囚の土田は俺を殺そうとした。
結果としては反撃され、俺に殺された。
この過程のどこかに俺のトリガーがある筈だ。
しかしそんなものを考える暇など、今まさに俺の命を絶とうとする刃が迫る中において存在し得ない。
刀と俺の首との距離は無常にも縮まり続ける。
どうしようもなかった。
死を待つ以外にすることがなかった。
しかし…。
それこそが……俺のトリガーだったのだ。
松原の持つ確固とした純粋な殺意がひしひしと伝わる。刀よりもさきにそれが俺を包み込む。
心臓が血液を循環させるよりももっと早く、全身に奴の殺意が満ちていく。
殺意を味わい尽くすように俺は感情も、思考も、感覚すらも手放した。
心地が良かった。
頭のてっぺんから足の指先までの間を、純粋な殺意が激しく飛び交っている。
その殺意が誰のもであるかさえも…もうとっくに分からなくなっていた。
溢れた殺意は、まず初めに口から漏れ出た。
「殺す。」
首に迫る刃は両の掌に優しく包み込まれ、動きを止めさせられる。
腰を軽く捻ると、刀は松原の手元から簡単に滑り落ちた。
刀身を掴んだ両手をフワリと高く掲げ、パッと手を離すと、刀は綺麗な円を描きながら宙を舞った。
松原は想定外の反撃に驚いた表情のまま、俺を押し出すような前蹴りを放った。
ヘソの位置に迫る足首を左腕で包んでやると、片足立ちとなった松原はバランスを崩してよろけ始める。
空いている右手で水を掬うような形を作り、それを強い勢いで松原の左耳に押し当てる。
皮膚と皮膚とが重なるペチンという可愛げな音だが、掌に包まれていた空気の塊は簡単に松原の鼓膜を破った。
想定外の痛みにより前屈みになったところで掴んでいた足を解放してやると、彼はあっさり転倒した。
「お…お前…お前…!!」
それに続く言葉は何だったのだろう。
今更確かめる術もないし、別に知りたいとも思わない。
宙を彷徨っていた刀は重力に従い落下し、松原の脳天に自らを突き立てた。
松原は傷口よりも先に目と鼻から血を流し、その時にはもう生きてはいなかった。
松原の死を見届けた水戸は最早志島月子に一切の注意を向けておらず、本来なら死んでいた筈の男を凝視していた。
「……お前も…殺し屋だったのか!!」
人を殺せば殺し屋なのだろうか。殺し屋の定義が分からない。だから俺はその旨を伝えるべく返事をした。
「さあね。」
それから、一拍おいて、こう付け加える。
「でも…お前は殺すよ。」
続きます。