第九七話 王位争奪戦の開幕
エリアスは、メリッサを抱えたまま立ち上がった。
戦闘の場に臨んで、彼はいつもの丸眼鏡をかけたままである。
よほど急いで、ここまで駆けつけてきたものらしい。
破壊された扉から続々と入ってきた下級天使たちが、遠巻きに二人を囲む。
正面のロザリンダは、飛び込んできたエリアスを、ただ笑って見ていた。
エリアスは自分の目を疑った。
まさか彼女が「ミストレス」だったとは。
政治などには何の関心もなく、不得意と自ら語っていた治癒魔法を何とかものにしようと悪戦苦闘していた、不器用な姉。
それらはすべて、演技だったというのか。
「姉上。あなたが王になられたということは、つまり」
間違いない。
彼女は父王と二人の兄を、すでに粛正している。
もはや、隠す必要もない段階まで来たということか。
当のロザリンダには、特に悪びれる様子もない。
「まあいいじゃない、エリアス。王位というものは、いつか代替わりするものだし。それが少し早まったって、大きな問題はないと思うけれど?」
「姉上の言うそれは、世襲ではなく簒奪でしょう。兄上たちを差し置いて、ですから」
その非を糾弾するエリアスに、ロザリンダは少しむくれた。
「父もお兄様たちも、異世界に対してあまりにも無知だったから。彼らに異世界と渡り合う能力はない、と私は判断しました。まったく、誰が今まで異世界と交渉してきたと思っているの。ほかでもない、私よ」
ユークロニアの、その組織インテグラルの、この世界での協力者。
この世界に来た異世界転生者を元の世界に送り返す任務を帯びた、裏切り者の治癒師。
「そうか、あなたが異世界へのゲートの役割をしていたのか」
「そう。こちらに送り込まれた転生者に、ユークロニアに帰還するための転生遺伝子を、私の治癒魔法で組み込んであげる。そうすることによって、彼らはこの世界の情報、とりわけ魔法を自分たちの世界に持ち帰ることができる。エリアス、あなたも本来なら、こちらでの任務が終わった後で私に遺伝子を組み込んでもらって、向こうへ帰還するはずだったんだから」
俺のほうでは、ロザリンダの真の姿を一切知らなかったのに。
彼女は、俺のことを最初から監視していたうえで、泳がせていたということか。
道理で俺がここに飛び込んできても、眉一つ動かさなかったわけだ。
「で、姉上。あなたはその見返りに、何をインテグラルに約束してもらっているのですか」
「表向きはね、私がこの世界の王になるのを追認してもらうこと」
それだけでも、十分大罪だが。
「へえ。内実は?」
「『記憶の不死』に改変したリョーコを、この世界に送りこんでもらうこと。そして彼らは、馬鹿正直にそれを実行して見せたわ。もっとも、フリッツを手に入れるためには対となるリョーコが必要です、なんて私のでたらめを、インテグラルが真に受けたのもあるんだけれど」
なるほど。
インテグラルは、「不死」を手に入れるためにロザリンダを利用していたつもりで、逆に彼女に利用されていたというわけか。
狐と狸のばかしあい、というやつだ。
「この世界を異世界に売り渡してまで、あなたは不死などになりたいのですか。俺には理解不能ですが」
言うまでもないというように、ロザリンダは右手を振った。
メリッサのライトニング・ボルトで黒焦げになったそれの表面には、すでに新しいピンク色の肉芽が盛り上がってきている。
同じく魔法で爆裂した左手も、少しずつ五本の指の形をとって再生されつつあった。
ロザリンダ。
治癒魔法が苦手などと、手の込んだ嘘を。
「そりゃあ不死になりたいわよ、当然じゃない。世界なんて、私は興味ないから。きっと世界の方でも、私なんかに興味はないでしょうよ」
「自分勝手な。あなたが神となって多元世界に平和をもたらすというミカエルの話、あれは嘘だったのですか」
ロザリンダは、迷惑そうに眉をひそめた。
「ミカエルはロマンチストだったから、彼自身は本当にそう思っていたんでしょうけれどね。まあ、ほかの人たちが私の存在をどのように扱うかは、その人たちの自由。アイドルの方から、私はファンの人には全然興味がありません、なんてわざわざ言う必要もないしね」
ミカエルの名が出たからであろうか、ロザリンダはラファエルへと声をかけた。
「あなたもそうよ、ラファエル。別に私のことを崇拝しなくても、従わなくても構わないのよ」
ラファエルは敬意を示すためだろう、バイザーのついた兜を脱いだ。
若い、美形の青年の容姿である。
装着している鎧よりもさらに純度の高い白さの長髪が、さあっと流れ出た。
大天使は右手に抱えた大砲を床に下ろすと、戦闘中であるにもかかわらず、その場で片膝をついた。
「ミストレス、私たち下々のことはお気になさらずに。私はただ、永遠の存在というものの誕生を見届けたいだけなのですから。その時こそがまさに、生存欲や支配欲といった足かせから、我々が解放される瞬間に違いありません」
ロザリンダはラファエルの言葉を、興味がなさそうに聞き流している。
「それはラファエル、あなたの心持ち一つでしょうね。まあ、私を好きに使ってちょうだいな」
「御意」
ラファエルはうつむいたまま、歓喜の涙を静かに流していた。
ロザリンダは、視線を再び彼女の弟へと向けた。
「というわけで、エリアス。あなたはどうするの? さすがに王位を譲ることはできないけれど、あなたが私の邪魔をしないでいてくれるのなら、放っておいてあげる。ううん、もしあなたさえよければ、私の摂政にしてあげてもいいわ」
彼女はエリアスに、親し気に笑いかけた。
あたかも、ただの姉弟のままであるかのように。
「あなたは私より年下なんだから、殺す必要はないわけだし。年功序列なんてくだらないけれど、馬鹿な臣民の多くは、王家にそれを期待している」
「なるほど。姉上は、自分の目的のために王位を利用するというわけですか」
「私だけじゃなくて、他の皆にとっても、ウィン・ウィンよ。王あっての臣民。神あっての人間。何かが一つにまとまるためには、核が必要。そうじゃなくて?」
エリアスは、ロザリンダの発言に欺瞞を感じた。
彼女の全ての言葉は、でたらめだ。
「まとまる必要なんて、ないね」
「え?」
「俺はこの世界を守ろうとして、異世界の侵入を可能な限り排除してきた。だが、それは間違ったやり方だった。異世界同士が衝突し、混ざり合うことによって、可能性が拡がることを知った。リョーコとフリッツのように」
そして、異世界の利益の代弁者だった俺自身が、この世界に触れたことによって転向したように。
「だがそれは、世界の融合を意味しない。多元世界が別々に存在することが、お互いの進化へとつながるんだ。それに対して姉上のやろうとしていることは、異世界同士の平たん化と均一化。それはすなわち退化と衰退、穏やかな安楽死だ。それを平和と呼ぶなら、俺は平和などいらない」
エリアスの言葉を、ロザリンダはにやにやしながら聞いている。
「へえ、哲学ね。部屋に引きこもってばかりいると、そんなこと考えちゃうんだ。でもさっきも言ったでしょ、私は私以外には何の関心もない。私に勝手な役割を押し付けておいて、お前の存在は許さないなんて、ちょっとひどいんじゃない?」
エリアスは小さくため息をついた。
話し合いの時間は、もはや終わりだ。
「俺も姉さんも、この世界からはみ出している。我々で、落とし前をつけるべきでしょう」
「ふうん。姉弟でも分かり合えない、か。やっぱり、独りが最高で最強ね」
エリアスは丸眼鏡をポケットに押し込むと、銀髪をかき上げて大判のゴーグルを装着した。
「姉さん、あなたは寂しい人だ。誰かいい男があなたのそばにいたならば、変われたかもしれないのにな」
エリアスが、隣にいるメリッサをちらりと見る。
彼の視線に気づいたメリッサは、わずかに顔を赤らめてそっぽを向いた。
何どや顔してんのよ、鈍感男のくせに。
エリアスにからかわれたと感じたロザリンダは、いら立ちを隠さない。
「何ですって? 馬鹿にしてるの」
「本心ですよ、姉上。オールアーマメント・オープン!」
エリアスの四肢に装着されている手甲と脚絆に刻まれている溝の間隙で、多数の光が明滅し始めた。
表面の多積層の金属板が細かくスライドを繰り返すにつれて、緑色の輝きが徐々にその光量を増していく。
彼の武装に付与された「核撃」の魔法が、十全にその効果を発揮し始めた。
エリアスが、メリッサをつついて小声で言った。
「メリッサ。俺があのでかぶつを引き付けているうちに、君は『核撃』で天使たちの壁をこじあけて脱出しろ。できるな?」
「それじゃあ、あなたがこの部屋に取り残されちゃうじゃない」
「なんとかなる、心配するな」
ばあか、かっこつけちゃって。
メリッサは嬉しくなった。
さっきのあなた、いかしてたわよ。
片腕で悪魔の私だって、受け入れてくれるんだもの。
この国の王には、あなたこそがふさわしい。
「逃げる時はあなたと一緒よ、エリアス。どこまでもね」
エリアスは、苦り切った顔で肩をすくめた。
「恐ろしいことを言ってくれるな、まったく」
「ふふ。私の心配より、自分の心配をして頂戴、なっ!」
その声を合図に、二人は左右にそれぞれ飛び出した。
メリッサが身をひねりながら、一瞬で呪文の詠唱を完了する。
「其、転冠矩撒核!」
「『核撃』か!」
赤い光線の束がメリッサの右手から放射状に射出され、ラファエルを襲った。
かばうように飛び出してきた近衛兵たちに、光の矢が次々と突き刺さる。
ラファエルは眼前で崩れ落ちた下級天使を払いのけると、黒光りする太い砲を両腕で構えた。
それを見て取ったエリアスが、ラファエルへとダッシュする。
「七十ミリ口径、スキャッターショット」
ラファエルの、静かな声。
彼の砲身が、轟音とともに火を噴いた。
やはり、散弾。
エリアスは弾が拡散する前に、スライディングでラファエルの足元に滑り込んでいた。
そのまま股の間を潜り抜けると、素早く立ち上がる。
振り返ったエリアスがちらりと見ると、それまで彼が立っていた石床は、大天使の放った無数の硬弾で深く掘り返されて見る影もない。
背後に回ったエリアスの方へと振り向いたラファエルの後ろから、メリッサが呪文を詠唱する声が聞こえた。
「其、転冠矩撒核!」
またしても、「核撃」。
すでにエリアスと格闘を開始しているラファエルは、釘づけにされたままでメリッサにその背をさらしている。
無防備。
もらった。
そうメリッサが確信した時、ラファエルの背が中央で観音開きに割れた。
中には、無数の小弾頭。
「ファランクス・ウォーヘッズ」
噴出炎とともに、小型のミサイルが圧倒的な数でメリッサに放出された。
複雑な軌道を交錯させながら、そのすべてが彼女に突入してくる。
メリッサが放った拡散型の『核撃』は、そのすべてが弾幕に吸収され、いくつかを破壊するにとどまっていた。
なんだ、こいつは。
生体兵器?
「其、蛮遮楼炎陣!」
メリッサの速さをもってしても、間一髪だった。
降り注ぐミサイルは、メリッサが眼前に立てたファイヤー・ウォールに飛び込むと、火球を上げて次々に爆散していく。
背後の結果にわずかに気を取られたラファエルに、エリアスが拳を放った。
ラファエルは長大な砲身で彼の打撃を受けると、それをそのままエリアスへと投げつける。
エリアスの手甲に付与された「核撃」に反応したラファエルの砲身が、崩壊しながら爆散した。
降り注ぐ破片がゴーグルに当たる音を聞きながら、エリアスは踵を返して破壊された扉へと走った。
「メリッサ、先にいけ」
「やさしいわね、エリアス」
メリッサはもう一撃だけ「核撃」を放って出口をふさいでいる天使たちをなぎ倒すと、エリアスと連れ立って廊下へと飛び出していった。
戦いの一部始終を見守っていたロザリンダは、ほぼ治癒した両腕を組むと、ラファエルに声をかけた。
「まあ、ゆるゆると追いましょうか。あの二人は別段『不死』とは関係ないけれど、私の邪魔になるのには違いない」
ラファエルの端正な顔は、二人が去った廊下の奥の闇を見つめている。
「アズ・ユー・ウィッシュ」
ラファエルとそれに続くロザリンダは、悠然と部屋の外へと踏み出した。