第九六話 刻め、私の真名を
巨大な魔弾の直撃を腹部に受けたジェレマイアは、身体を上下に分断されて宙を飛び、それぞれが鈍い音を立てて堅い石床に落下した。
うつぶせに横たわった彼の上半身は、微動だにしない。
その傷口からはすでに、肉体の崩壊が拡がりつつあった。
ロザリンダの表情は、風のない水面のように動かない。
「先生とは、私が生まれた時からの長いお付き合いでしたね。こんな形でお別れになるとは、大変残念です」
そのつぶやきが終わるか終わらないかのうちに、厚い一枚板で作られた頑強な部屋の扉が、周囲の石造りの壁とともに轟音を立てて吹き飛んだ。
「ジェレマイア理事長!」
飛び散る瓦礫とともに部屋の中に飛び込んできたのは、隻腕の若き女魔導士、メリッサであった。
彼女の肩まである濃い栗色の髪は、怒りに逆立っている。
「其、激粒気尖裂!」
メリッサは、廊下から部屋に着地するまでのわずかな時間で、同一呪文を複数回、連続して詠唱してみせた。
ジェレマイアとの戦いでも眉一つ動かさなかったロザリンダが、初めて驚愕をあらわにした。
何なの、この子。
速い。
ひょっとして今、三度唱えた?
虚を突かれた彼女は、呪文を紡ぐのが一瞬遅れた。
「カタストロフィック・ライオット・ウォール!」
ぶうん、という鈍い音とともに、ロザリンダの右腕に青く輝く力場が形成される。
その半球状のバリアは、メリッサの放った三発のエアカッターのうち、二発を跳弾させた。
それた真空の刃が、ロザリンダの左右で後方の石壁に激突し、その壁面を砕く。
そして残りの一発は、ロザリンダのマジック・シールドをすり抜けて、彼女の左肩を大きく切り裂いた。
天井高く、鮮血が跳ね上がる。
しまった。
ロザリンダは、小さく舌打ちした。
深い。
左腕が動かない。
これは、治すのに時間がかかる。
治癒魔法を左肩に最大限に集中しながら、ロザリンダが後方へと下がる。
メリッサは白い羽を広げると、彼女を追って、さらに前方に跳躍した。
「第一王女、あなたが『ミストレス』だったのか。よくも、ジェレマイア様を!」
ロザリンダは強化した脚ですばやく距離をとりながら、侵入者を観察する。
白い、羽。
私が生み出したものではない人外の存在となれば、悪魔か。
「悪魔で魔導士。確か、ヴォラクといいましたか。あなたは、異世界転生者との戦いで死んだと聞いていましたが」
ロザリンダは、記憶の底を探った。
ヴォラク。
かつての魔導士アカデミー総代、メリッサ。
たぐいまれなる才能を持った彼女は、異世界転生者の男に裏切られ瀕死となり、悪魔となって生まれ変わった。
その後は、異世界転生者殺しの第一人者として数々の任務に従事し、最期はあのヒルダと戦って敗れた。
そのはずだった。
だが、あの隻腕。
左腕をと引き換えに、生きていたということか。
ベージュのロングスカートをひるがえしながら、メリッサがロザリンダに肉薄する。
「質問するのはこっちよ。王族でありながら、不死を得て神になろうなどと血迷った真似を。なぜ、ジェレマイア様を殺した!」
ロザリンダは、皮肉な形に口元をゆがめた。
「ジェレマイア様、か。あなた、ずいぶんと先生を尊敬していたようね。でも、あなたたち悪魔って、みんな先生に利用されていただけじゃないの?」
「何を」
「だってそうじゃない。あなたが悪魔になったいきさつも、報告を受けてるわよ。異世界転生者への憎悪を逆手に取られて、悪魔にさせられたんでしょ。だまされてたのよ、あなた」
「違う!」
メリッサは、はっきりとノーを突き返した。
今の彼女は、胸を張ってそれを突き返すことができた。
確かに、ジェレマイア様にとって私は、異世界転生者と戦うための手駒に過ぎなかったのかもしれない。
だけど、それを選んだのは私だ。
そしてその結果、私はこうして生き続けている。
たとえ、悪魔の身体になったとしても。
生きているから、ヒルダさんやカレンさん、リョーコさんたちとも出会えた。
そして何より、私はエリアスのそばにいる。
それらはすべて、ジェレマイア様が私に手を差し伸べてくれたからだ。
全てを憎み絶望し、自分自身すら見捨てていた私を、救い出してくれたからだ。
そのジェレマイア様を、この何も知らない箱入り娘は、無遠慮に侮辱している。
「なめないでよ、プリンセス。私はあいにく、王族には慣れっこでね。あなたが王女だろうと、手加減は一切しないわよ」
「何ですって?」
ロザリンダはメリッサの言葉の意味を少し考えて、薄く笑った。
「そうか、エリアスね。あの子ったら悪魔に肩入れなんかして、一体何を考えているのやら。姉として恥ずかしい限りだわ」
「無駄口もそこまでよ。あなた、さっきの通常魔法でダメージを受けてるってことは、天使じゃないわね。『核撃』を使うまでもなく、消滅させてあげるわ!」
メリッサの輪郭が、陽炎のように揺らいだ。
魔力が渦を成して、彼女を中心に収束していく。
危険を感じたロザリンダは先制すべく、無事な右腕をメリッサの方へと伸ばして、呪文を詠唱し始めた。
「カースド・ヴィチャ……」
彼女の詠唱は、メリッサに完全に追い越された。
「其、鳴雲光誅雷!」
メリッサの鋭く振った右手から放たれたライトニング・ボルトが、呪文を形成しようとしたロザリンダの右腕を直撃する。
ばしいっという激しい音とともに、ロザリンダの細い右腕は瞬時に炭化した。
「……!」
ロザリンダは「鎮痛」を発動させて意識が飛ぶのを防ぐと、使い物にならなくなった両腕を交互に見た。
その目には、驚きと喜び、そして狂気が混然と一体化して宿っている。
「なんて速さ。アカデミーを卒業する前からあなたに目をつけて悪魔にスカウトするなんて、ジェレマイア先生も案外手が早いわね。もし王宮に仕えていれば、あなたなら宮廷魔導士団のリーダーになれたのに」
はっ、とメリッサは嘲笑を返した。
「あいにくね。悔しいけれど、あたしは二番手。ヒルダさんの力は、こんなものじゃないわよ」
メリッサは、右の人差し指をロザリンダに突き付けた。
「第一王女ロザリンダ、あなたは私を怒らせた。この、メリッサ・フォティア・グリッチリボルバーを。この代償は、必ず支払ってもらう」
ロザリンダは表情を改めた。
強さなんか、どうでもいいけれど。
とにかく、かんに障る女だ。
「真名を名乗ったか、いいでしょう。我、ロザリンダ・セルピエンテ・クラックダイヴァーの名を知ることができたことに、満足して死になさい」
二人は、同時に飛び込んだ。
メリッサが真っすぐに突っ込みながら、雄たけびを上げる。
「魔導士を倒すには!」
ロザリンダがそれに応えるように、はあっと息を吐いて続ける。
「呪文を詠唱される前に、殴り倒す!」
ロザリンダの左腕が動いた。
裂かれた肩の傷は、いつの間にか閉じている。
継続して発動させていた彼女の治癒魔法が、切断された筋や神経の修復をすでに完了させていた。
ロザリンダは左の拳を硬化させると、メリッサの顔面に強烈な打撃を叩き込む。
治癒魔法で強化した左腕の筋力と相まって、その一撃はメリッサの頭部を砕いた、ように思われた。
ばしいっ。
ロザリンダの白化した拳は、メリッサの掌で止められていた。
赤胴色に変化した、悪魔の右腕で。
「忘れちゃだめですよ、王女様。私、魔導士ってだけじゃなくて、悪魔だったんですから」
メリッサは文字通り悪魔のような笑いを浮かべると、ロザリンダの拳をゆっくりと包み込みながら握っていく。
ぼきり、とロザリンダの指が折れる鈍い音が、部屋の壁に反響した。
「まだまだ。其、拌撚彗炎局!」
ロザリンダのこぶしを握ったまま、メリッサの悪魔の掌が赤く輝く。
耳をつんざく轟音とともに、ロザリンダの左腕がはじけ飛んだ。
彼女の肉片と火花が混じり合って、お互いの全身に降り注ぐ。
「ぐうっ」
「エリアスには悪いけれど、あなたはここで殺す! どうせ彼のことも、弟だなんて思っていないんでしょ?」
再び両腕の機能を失ったロザリンダは、それでも仁王立ちでメリッサを睥睨する。
「無礼な奴。あえて否定する気はないが、家族も恋人もその手で殺した俗物が、どの口でそれを言うのか」
「黙れ!」
とどめを刺すべく、メリッサが右腕を大きく伸ばした。
「後ろだ、メリッサ!」
何者かが彼女を抱きすくめると、そのまま床へと押し倒した。
這いつくばったメリッサが、驚いて顔を横に向ける。
今しがた口にしたばかりの、エリアスの緊張した顔がそこにあった。
「エリアス。あなた、どうして」
エリアスは何も言わずに、彼女の頭を抱え込むと床に押し付けた。
その二人の頭上を、熱風が吹き抜ける。
遅れて、轟音。
顔を上げたメリッサは、対面の壁が蜂の巣のようにえぐれ、それがぐずぐずと崩壊していく様を呆然と見送った。
「なに? 詠唱なんて全く聞こえなかったけれど」
破壊された入り口を振り向いた二人は、そこに巨大な砲身を構えた、白く輝く巨人を見た。
エリアスが顔をしかめる。
散弾のはずなのに、あの威力。
まだ硝煙の立ち上る砲を構えたまま、巨人はゆっくりと室内に侵入してきた。
その遮光されたバイザーが、部屋の照明を反射してぎらりと光る。
その背後には、天使と化した近衛兵の軍勢。
「遅くなり申し訳ありません、ミストレス様」
「ナイスタイミング、ラファエル。仕事は終わった?」
「遅滞なく。今やあなた様は、名実ともにこの国の王です」
「サンクス。まあ、小さな一歩だけれどね」
黒こげの右手を軽く上げたロザリンダが、満足そうにうなずいた。