第九五話 ミストレス・ザ・ソリチュード
「……ここまではいいですか、殿下。皮膚をただ治すだけでは、傷の治療というものは十分ではありません」
紺のカッターシャツの上に、白いベスト。
シャツの左肩には、白地に赤い三本線、「治癒師印章」。
治癒師アカデミーの長ジェレマイアは、部屋の中を歩いて往復しながら、講義を続けている。
「そうなんですか、先生。傷を閉じてしまえば、それで元通りなんじゃ?」
椅子に座ってテーブルの上のノートに何やら書き込んでいた女性が、顔を上げて質問を返した。
白いインナーの上に、ミントグリーンのロングカーディガンという、ラフな服装。
カーキ色のパンツに包まれた形の良い足を組み替えながら、ペンを指の上でくるりと器用に回転させる。
「いえ、血のめぐりというものを考えねばなりません。治ったと思っても、皮膚への栄養が途絶していれば、完全に癒合せずにいずれまた開いてしまいます。だから、皮膚の下の脂肪や筋肉といったものを同時に修復することを、常に意識してください」
殿下と呼ばれた女性、第一王女ロザリンダは、こめかみに手を当てて小さなため息をついた。
「はあ。難しいですわね」
座っているロザリンダの後ろからノートの上の文字を指さしながら、ジェレマイアは別のことを考えていた。
近衛隊の兵士たちが、少数ずつ人知れず、天使に改変されている。
近衛兵の数は、王室全体で千五百人程度である。
現国王ゴダールに三百人、三人の王子にそれぞれ三百人ずつ。
そして、今彼の目の前で治癒魔法を学んでいる、第一王女ロザリンダにも三百人。
他国に比べると圧倒的に少ない数ではあるが、これは一つには国内の治安が良いこと、もう一つは兵を養うための国費の増加を嫌ったゴダール王の意向によるものであった。
いったい、近衛兵のなかでどれほどの人数が天使に改変されているのか。
おそらく上位の天使の命令が伝わるその時までは、天使としては覚醒しないに違いない。
だから、通常時に天使であるかどうかを判別することは極めて困難である。
フリッツの「スプリッツェ」に付与された魔法「ディテクト・フォーリン・ジェネ」なら、あるいは可能であるかもしれないが。
「先生、どうされたんですか」
ノートを見つめていたロザリンダが、椅子越しに後ろを振り向いた。
垂れた大きな目が、ジェレマイアを下から見つめている。
短いポニーテールにまとめられた銀髪が、ふわりと揺れた。
「あ、いや。何でもありません、ロザリンダ殿下」
「先生、最近少し疲れているんじゃありませんか? それとも、私の魔法の上達の遅さに嫌気がさしたとか?」
両手で伸びをしながら、ロザリンダが苦笑した。
ジェレマイアは、優しいまなざしで彼女に笑い返す。
「とんでもない、殿下はよく頑張られていますよ。病める民のために、少しでも魔法を上達させたいというそのお気持ちも、得難いものです」
第一王女ロザリンダは、治癒師である。
自ら、政治は苦手だとうそぶいては、お忍びでアカデミー内での治療実習などに参加している。
周囲はそれを、すこしでも国民の役に立ちたいという彼女の慈悲の心の表れだろうと、微笑ましく見守っていた。
父王と二人の兄の手により内政は安定しており、また能力的には劣っているとみなされている弟のエリアスも、一部からはある種独特の人気を獲得しており、現王家は安泰だと思われていた。
そのロザリンダは、ジェレマイアの言葉に微妙な表情をした。
「民を救いたいなんて、そんなたいそうな動機じゃないんですよ、先生。みんなが私を見てくれて、それで頑張ってくれれば、自分を見つめなおしてくれれば、それも悪くないかなあって」
「はは。アイドルみたいな動機ですね、殿下。でもまあ、国民は殿下のことをそのように感じられているかもしれませんね」
ジェレマイアは、ロザリンダに期待をよせていた。
その治癒魔法の実力に、ではない。
代々の王家は治癒魔法の力を恐れ、それを抑圧し、弾圧してきた。
しかし、その王家の中に治癒師が誕生したことで、その風向きは確実に変わるはずだ。
ロザリンダも、自分のその力を決して忌避しようとはしていない。
治癒魔法こそ、この世界を守る絶対の武器なのだ。
ジェレマイアの思考は、ロザリンダのあどけない声で現実に引き戻された。
「でも、先生。私を見てくれるのが、わが国の民だけでは物足りませんわね。もっと、世界中の人たちとか。あるいは」
「あるいは?」
ロザリンダはくすりと笑うと、彼女の師を上目遣いに見上げた。
「異世界の人たちとか」
ジェレマイアが、ばっと飛び退いた。
ロザリンダは椅子を蹴飛ばして素早く立ち上がると、右腕を突き出して叫ぶ。
「カースド・ビチャズ・バースト!」
連射された硬弾が、ジェレマイアを中心にばらまかれる。
瞬間、ジェレマイアの背から一対の翼が広がると、それは彼の身体全体を花のつぼみのように覆った。
皮革のような鈍い光沢を放つ黒い翼に、ぼすぼすと深い穴が穿たれていく。
数秒撃ち続けた後、ロザリンダは右腕を上げた。
その指先から白い硝煙が立ち上る。
「ほら、先生。早く翼を放棄しないと、本体までダメージが広がりますわよ」
ばさりと翼が床に落ち、その中から現れたジェレマイアが、唇をかみながらつぶやいた。
「……殿下。まさか、あなたが」
「天使たちは、私のことを『ミストレス』と呼びます。女主人であることには、私自身は何の興味もないのですけれどね」
ジェレマイアの頭脳がめまぐるしく回転する。
なるほど、これで合点がいった。
王族であれば、王宮内の移動も近衛兵の掌握も、自由自在だ。
もっと早くに気づくべきだった。
天使を作り出せるのが、遺伝子を変性させて人体に組み込むことができる治癒師のみだとしたら。
この城に出入りしている治癒師など、この私か、ロザリンダ殿下しかいないではないか。
しかし、彼女のこれまでのカモフラージュは、実に巧妙だった。
そして今の攻撃。
「殿下。あなたは、魔導士でもあったのですか」
ジェレマイアは脅威を感じていた。
彼の知る限り、現存する治癒師の中で、魔導士の資質を同時に持つものはいない。
治癒魔法と攻撃魔法が組み合わさったならば、その戦闘力はいかばかりか。
ロザリンダが朗らかに笑った。
「その通りです、先生。ただし今の弾丸は、治癒魔法で生成したものですが。あのヒルダなるものの『核撃』と魔法の様態は異なりますが、変性遺伝子を破壊することができる攻撃であることに、変わりはありません」
ロザリンダの弾丸を受けたジェレマイアの翼は、白い煙を上げながら、すでにほぼ溶解している。
「私、治す方は得意ではありませんが、壊す方や作り変える方には、ちょっと自信があるんです。先生も治癒なんかより、悪魔を作り出す方がお得意なのでは?」
もちろん、ジェレマイアが悪魔を造り出してきた元締めだということも、とっくにばれているのだろう。
おそらくは彼の裏の名前、ルシファーの二つ名も。
ジェレマイアはシャツのえりを直しながら、自らの肉体の組成を変えていく。
二の腕が、太ももが、黒く膨張した。
それらはそのまま、甲虫のような外骨格に覆われていく。
ルシファーの戦闘態としての姿だった。
「殿下。不死となり神となり、それから何をしたいのです。リョーコ殿の話では、神の存在を民の一人一人が心の中に意識することによって、平和と安寧を得る、といった内容だったと思いますが」
「リョーコというのは、ミカエルを倒した女剣士ですね。ミカエルは、陽気な良い天使だったのですけれど」
「話をはぐらかさないでいただきたい」
「不死になりたかったのは、その通りです。平和とかについては……まあ、どうでもいいかな。人間は、いつか滅びてしまう定めですからね。その時期と理由が、多少変わってしまうにしても」
「さっぱりわかりません、あなたが不死を望む理由が」
「私は、輪廻から抜け出したいのです。人の一生、個と集合の関係性、そういったものを振り捨てて。ほら、小さな頃に、家出をして自由になりたいなんて、先生は思いませんでした? どこまでも昇れば、きっと解放される」
「ばかな。人は、独りでは生きられません。孤独と自由は違う」
「だから、生き死にを超越したいのです。そうすれば、孤独は孤独でなくなる」
だめだ。
理解できない。
話がかみ合わない。
「あら。先生、そんなお顔なさらないでください。部下にもよく言われます、あなたはいかれてるって」
ロザリンダは微笑しながら頭に手をやると、その銀髪をリボンでしっかりと結びなおした。
あまりに日常的で自然なその仕草に、ジェレマイアはかえって狂気を感じる。
「たしかにフリッツ君とリョーコさんには迷惑をかけてしまいますけれど、私の望みはそれだけです。ジェレマイア先生、私を放っておいていただけませんか?」
ジェレマイアは、大きく息を吸い込んだ。
「殿下。私の望みはこの世界を、ただこの世界だけで完結させることです。異世界からの干渉を排除し、この世界だけの歴史を刻む。あなたも異世界も、私の理想の邪魔です」
「たった一人の女性の我がままさえも、お許しいただけないと?」
「あなたも私にそれを期待などしていなかったのでしょう? 私に正体を明かした時点で」
ロザリンダはうつむいたまま、口だけでにやりと笑った。
「さすが、私の大好きなルシファー先生。話が早くて助かります!」
ルシファーと呼ばれたジェレマイアは、大きく前方に跳躍した。
強大な筋力の反動で、石床が割れてかぎ爪の跡がくっきりと刻まれる。
左腕を曲刀へと変えると、ジェレマイアはロザリンダの右腕を狙う。
彼女のミント色のカーディガンが前腕のところですぱりと切れ、露出した皮膚にぴっと一筋の赤い線が入った。
さっと引いたロザリンダの腕の傷から流れ出す赤い血液が、きらきらと宙に舞う。
「惜しい、先生。私は天使じゃないから、あなたの通常攻撃でもきちんと倒せますよ!」
一歩下がりながら、ダンサーのようにターンするロザリンダ。
その一瞬で、彼女の右腕の傷は何事もなかったように消えていた。
「どうですか、私の治癒魔法も上達していますよね。これも、先生のご指導のおかげです」
ちっと舌打ちしたジェレマイアは、左腕の剣をさらに延ばした。
戦闘に長けた治癒師の厄介さは、フリッツで嫌というほど思い知らされていたが。
彼女は、さらに魔導士だ。
治癒魔法と攻撃魔法のハイブリッド。
ジェレマイアの次の一撃は、彼女のパンツの裾をわずかに切るにとどまった。
刀を引いたジェレマイアの目に、右腕を伸ばしたロザリンダの姿が映る。
「リーサル・ラインメタル・ファイアリング!」
通常の魔導士の攻撃であれば、悪魔の力を得たジェレマイアにそれを避けるのは、造作もないことであっただろう。
だが、治癒魔法で全身の反応速度を倍加させたロザリンダの、その詠唱速度や正確な照準、素早い魔法動作などは、すべて彼の予想を超えていた。
彼女の右の掌底から放たれた巨大な硬弾が、ジェレマイアの腹部を正確に貫通し、一瞬遅れて彼の胴体を上下に分断した。