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第九十話 傷心

「本当にありがとうございました。ええと、フリッツ先生でしたよね」


 山奥の小さな家の玄関口で、中年の女性が深く頭を下げた。

 白いセーターに黒いショートコートのいつもの姿のフリッツが、足を止めて振り返る。


「いいんです、これが僕の仕事ですから。あと、先生って敬称は遠慮させてください」


 困ったように頭をかくフリッツを、女性はまぶしそうに見上げた。


「うちのおじいさん、半年前に骨折してからまったく歩けなかったのに、まさか立てるようになるなんて。一人で歩いて用を足したりできるだけでも、私も夫も大助かりです」


 確かに、そうなのだろう。

 こんな人里離れた山奥で、寝たきりの老人を介助しながら生活していくことの苦労は、想像するに余りある。

 治癒魔法がまだ未発達のこの世界では、弱いものから死んでいく。


「まだ膝の曲がりが不十分ですし、もう少しきちんと治したかったのですが。僕の知識と治癒魔法では、あそこまでが精一杯でした。申し訳ありません」


 女性に頭を下げながら、フリッツは小さくため息をついた。

 リョーコさんがいてくれれば、彼女の知識があれば。

 もっと、いい治療ができたのに。

 彼女に教えてもらう期間が、彼女と一緒にいた時間が、あまりにも短すぎた。


 フリッツは心の中で、自分に舌打ちをした。

 仕事にかこつけて、僕はリョーコさんのことばかり考えて。

 自分から彼女を拒絶しておいて、身勝手にもほどがある。


 フリッツに謝られた女性は、慌てて彼を引き起こした。


「何言ってるんですか。今まで何人も他の治癒師さんに診てもらったけれど、みんな首を振るばかりで。本人も私たち夫婦も、いい加減あきらめていたところなんですから。フリッツ先生、お若いのに、アカデミーでもさぞかし優秀な方なんですね」


 中年の女性は、名前に先生とつけることをやめない。

 フリッツは苦笑すると、それ以上の深い話を避けた。


「かなり足の筋力が落ちていますので、しばらくは転びやすいと思います。歩く時は、そばについていてあげてください」


「もう、ご出発されるのですか。フリッツ先生には、どこへ行ったら診てもらえるのでしょう。私、みんなに宣伝しますよ。素晴らしい治癒師の先生がいらっしゃるって」


 どこへ行ったら、いいのだろうか。

 僕の方が、教えてもらいたいくらいだ。


「旅の途中なんです。こちらへは、たまたまお邪魔させてもらっただけで。それでは、これで」


「そうですか。せめて、これを」


 女性は、サンドイッチと蒸し鶏の入った包みをフリッツの胸に押し付けた。

 フリッツは軽く会釈をすると、小道を森の方角へと足早に歩き去った。






 午後の木漏れ日がところどころ差し込む、木々に挟まれた細い街道。

 聞こえてくるのは、鳥のさえずりと、ささやかな葉擦れの音。

 それに自分の足音と、間隔をあけてついてくる、もう一つの足音。


 フリッツは立ち止って振り返ると、今来たばかりの曲がり角の方へと目をやった。


「僕に、何か御用でしょうか」


 フリッツのかけた声に足音は歩調を変えることもなく、やがてその男は悠然と姿を現した。


「俺の尾行に気づくとは、さすがだなあ。それとも軍を離れているうちに、俺の腕のほうがなまっちまったのかな」


 短い金髪に、無精ひげ。

 革製のベストの左胸には、双頭の蛇の紋章。

 そして腰には、巨大な鋼鉄製の手甲。


 フリッツは意外な再会に、少し驚いたようだった。


「あなたは、自警団の」


 男は気さくな調子で、軽く片手を上げた。


「リカルドだ。アドラメレク戦以来か、久しぶりだな」


 距離をあけたままで、フリッツはリカルドを油断なく観察した。

 王都からこれほど離れた山奥で、偶然になど出会うはずもない。


「足音を消そうとしていたのは、失敗でしたね。かえって、素人ではないとばれますよ」


「なるほど、それもそうか。かなり離れてついてきたつもりだったんだが、よくわかったな」


 フリッツは自分の右耳を、人差し指で指し示した。


「歩きながら時々、治癒魔法で聴覚を増幅していますので。僕、人から恨まれることが多いんですよ」


 自嘲気味に話すフリッツに、リカルドは単刀直入に切りだした。


「正確には、異世界転生者から恨まれることが多い、だろ」


 フリッツの黒い瞳が、とたんに険しく光る。


「……誰から聞いたのか知りませんが、むやみに関わらないほうがいいですよ。知らないことが多ければ多いほど、平穏に生きていけます」


 リカルドは、ふんと鼻で笑った。


「知った風な口きくじゃねえか。七百年生きてきた貫禄、ってやつかい」


 フリッツは、ぎりっと奥歯をかみしめた。


「そんなことまで知っているんですか。あなたに、そこまでの事実を話せる人といえば」


「おっと、リョーコちゃんじゃないぜ。ことお前さんに関しては、彼女は口が堅い。まあ、彼氏のことをべらべらと話すなんてのは、ろくな女じゃねえがな」


 フリッツはちょっと考える仕草をしたが、やがて思い当たったように言った。


「じゃあ、ヒルダさんか。異世界についての事情を知っているのは、転生者か悪魔か、そのいずれかですからね」


「ああ、その通りさ。そして俺は、そのヒルダちゃんから伝言を預かってる」


「伝言? 彼女から僕に?」


「ああ。お前さん、今度は天使に狙われてるから気をつけろ、ってな」


「天使」


 フリッツはその単語の意味するところを探った。

 もちろん文字通りの、概念上の天使であるはずがない。


 異世界に対抗するためにこの世界で生み出された遺伝子変性体が、悪魔であるならば。

 その対になる天使なる存在も、やはり遺伝子変性体なのであろうが。

 誰が、何のためにそいつらを作り出したのか。


 まあ、僕を狙う目的なんて二つしかないが。

 僕の命か、あるいは「不死」か。


 その天使なる奴らは、僕を殺すことが、消滅させることが、できるのか。

 それこそ、ヒルダさんの「核撃」のように。

 奴らが、僕の永遠を終わらせてくれるのか。

 

「そうですか。まあ、狙うことにも狙われることにも、慣れていますから。警告ありがとうございますと、ヒルダさんにはお伝えください」


 すげないフリッツの返事にも、リカルドは組んだ腕を解くことはなかった。


「ふむ、これで俺の仕事は終わったわけだが。俺自身からも、お前に伝えておくことがある」


 もったいぶったようなリカルドの言い方に、フリッツがいら立ったように返す。


「これ以上、まだ何か」


「リョーコちゃんが、その天使ってやつらに襲われた」






 それまで眉一つ動かさなかったフリッツが、初めて動揺を見せた。


「リョーコさんが、まさか」


 彼女が襲われたのなら、天使とやらの目的ははっきりしている。

 彼女の「記憶の不死」についての情報だ。

 僕と彼女を同時期に襲うということは、天使たちは僕たち二人を手に入れて、完全な不死を達成することを望んでいるのか。


 こんなものを欲しがる奴がいるとは、物好きな。

 リョーコさんだって、きっとそう思っているに違いない。


「それで、リョーコさんは無事なんですか」


「雑魚の天使については、エリアス殿下の知り合いの女悪魔が『核撃』で倒したらしい。奴らの親玉は、リョーコちゃん自身が斬り倒した。ただし、かなりの深手を負ってな」


 エリアス殿下、女悪魔、「核撃」。

 様々なことが動いていたようだが、今はそんなことよりも。


「リョーコさんが、怪我を」


 バフォメットの時も、アドラメレクの時も。

 リョーコさんは常に全力で戦い、その都度、自らに大きな負傷を受けていた。

 そして、僕の治癒魔法と彼女の知識でその傷を治しながら、なんとか乗り越えてきた。

 でも、僕がいない今。


 フリッツの心の中を見透かしたように、リカルドが言葉を続けた。


「大丈夫だ。治癒師アカデミーのジェレマイア理事長、お前さんも会ったことがあるだろ? 彼が治してくれたらしい。とりあえず今は天使たちも鳴りを潜めてるんでな、かりそめの平和って奴さ」


 リョーコさんと天使との戦いに、なぜ理事長が関係しているのか。

 そんなことを考える余裕も、今のフリッツにはなかった。


「そうですか。良かった」


 フリッツは、思わず安どのため息をついていた。

 その様子を見ていたリカルドは、首を振りながら彼に近づくと、やにわにその胸ぐらをつかんだ。


「良かった、じゃねえだろ。リョーコちゃん、死ぬかもしれなかったんだぜ」


 フリッツはされるがままに、リカルドの顔をにらみつけた。


「それって、僕の責任ですか」


 リカルドは、つかんだ右手に力を込める。


「ああ、そうさ。そばにいてやらなかった、お前さんの責任さ」


「そんな無茶な」


「本当に無茶かい? お前さんには彼女のそばにいてやれない理由が、何かあったのか」


「あなたに何がわかるんです。ヒルダさんが話したんでしょう? 僕は、異世界転生者を許すことができない」


 リカルドは、フリッツをどんと突き飛ばした。

 いつもならそれくらいのことではバランスを崩すはずもないフリッツが、大きくしりもちをつく。


 リカルドはフリッツに馬乗りになると、有無を言わさず右の頬を殴り飛ばした。

 フリッツは、いつもの戦いの時のように、治癒魔法で皮膚を硬化させて自分を守ることをしなかった。


 殴ったほうのリカルドの言葉は、フリッツに対するはがゆさに満ちている。


「リョーコちゃんを、異世界転生者なんてひとくくりに語ってんじゃねえ。彼女は、何も好き好んで転生者なんかになったわけじゃねえんだ。あの子がお前に何か悪いことしたのかよ、言ってみろ」


「いいとか悪いとか、そういう問題じゃないんです。異世界転生者をこの世界から消し去ることが、僕の生きているたった一つの意味なんです」


「勝手な呪いで、自分をごまかしてんじゃねえ。お前さん、リョーコちゃんのこと、嫌いなのかよ」


「そんなわけないじゃないですか」


「だったらはっきり、好きだって言えるのか、ああ?」


 フリッツは、リカルドを身体の上から突き飛ばした。

 上半身を起こしたフリッツは肩で大きく息をしていたが、やがて膝を抱えこむと、その中にがっくりと顔をうずめた。


「リョーコさんに言えたら、どんなにいいか。だけど、どうしても言えないんだ。こんな僕に、リョーコさんは好きだって、告白までしてくれたのに」


 しぼり出すようなフリッツの声に、リカルドは全身の力を抜いた。


「そうか。リョーコちゃん、お前に告白を」


「笑ってくれて構いません、リカルドさん。彼女の気持ちに応えることができない、臆病な僕を」


 それきり黙ったままのフリッツのそばに、リカルドは並んで腰を下ろすと、枝の隙間からところどころ顔を出している青空をまぶしそうに見上げた。


 笑えるわけ、ねえだろうが。

 ずっと告白できなかった、臆病なこの俺が。


 二人はしばらくそのまま、身じろぎもせずにただ座っていた。


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