第八四話 もう一人の治癒師
王城の外壁に接して建っている、石造りの堅牢な塔の中に、王宮守備隊の本陣はあった。
王位継承権第四位のエリアス王子、それに近衛隊副長のカレンは、隊員たちに気づかれないように足音を忍ばせながら、執務室へと滑り込む。
燃えている暖炉の暖かさに、二人はそろって安どのため息をついた。
「おかえりなさい、エリアス。カレンさんも、ご無事で何よりでした」
長椅子のそばにかがみこんでいたメリッサが、振り返って笑顔で迎えた。
彼女の肩越しに、エリアスが覗き込む。
「どうだ、彼女の具合は」
メリッサが答える代わりに、長椅子に横たわったままのリョーコが、指だけをひらひらと振って答えた。
「いやー、今までフリッツ君がいてくれてたから、怪我をするってことにちょっと無頓着になってたよね。傷がそんなに簡単に治るものじゃないってこと、久しぶりに思い出したわ。失敗、失敗」
たはは、と笑うリョーコ。
汗がにじんでピンクの髪が額に張り付いているのが、強がりな彼女の内面の苦痛を物語っている。
また、奴の話か。
そんなエリアスの内心を代弁するかのように、カレンが気をもんで立ち上がった。
「まったく、フリッツ殿はいったいどこへ。リョーコ様がこんな状態だというのに」
やるせなさで憤る彼女を、リョーコが苦笑しながらなだめた。
「そんな風に言わないで、カレンさん。フリッツ君には、もう十分に助けてもらったから。彼がいなくても、一人でもやっていけるわよ、私」
カレンは唇をかんでうつむいた。
「……出過ぎた発言でした。お許しください、リョーコ様」
フリッツ殿、このままでいいのですか。
お二人の気持ちが冷めて別れたのではないことくらいは、いくら鈍い私でも、わかります。
お二人がいまだに、惹かれあっていることくらい。
ならば、そばにいてあげるのが、騎士の役目ではないのですか。
好きな人の無事がわからないことに、あなたの心は痛まないのですか。
カレンの憂い顔を微笑ましく見ていたメリッサが、努めて明るく言った。
「大丈夫です、リョーコさんにカレンさん。戦いの前に私が会いに行った方が、もうじきここに来られると思いますから」
エリアスが思い出したように尋ねた。
「そうだった。メリッサ、君は一体どこへ行ってたんだ?」
まるでその言葉が開扉の呪文でもあったかのように、執務室の窓がぎいっという軋み音とともに開いた。
メリッサを除く一同は、ぎょっとして振り返る。
何しろこの部屋は、地表からはるか高所、三階にあるのだから。
メリッサが、窓の方を見ながら笑った。
「ああ、早かったですね。でももう少し急いでいただけたら、先ほどの戦いに間に合われたのですが」
彼女の声に応えて、快活な声が窓の外の闇から聞こえてくる。
「はは。人使いが荒いな、ヴォラク。これでも全速力だよ、寄る年波には勝てないねえ」
翼を器用にたたみながら窓から入ってきたのは、長い金髪を総髪にした、壮年の紳士。
彼は背を大きく開けたノンスリーブのシャツの上に、ご丁寧に持参してきた紺の長袖シャツを着ると、さらに白いベストを重ね着した。
そのシャツの左肩には、白地に赤い三本の縦線の「治癒師印章」。
「え。まさか、ジェレマイア理事長さん?」
リョーコが首だけを持ち上げて、そしてカレンが口に手を当てて、同時に驚きの声を上げた。
何しろ、治癒師アカデミーの長が、高空から翼をはためかせて飛んできたのだから。
そして、エリアスとメリッサは心の中で、彼を別の名で呼んだ。
「……ルシファー」
エリアスは腕を組むと、横目でじろりとメリッサをにらんだ。
ルシファーは、メリッサがヒルダとの戦いで生き残っていたことは、知らなかったはずだ。
ほかならぬ自分が、そのことを隠ぺいしていたのだから。
であるのに、メリッサは生きている自分をさらしてまで、ルシファーに協力を求めた。
これ以上戦いに関与するなという俺の要請を、彼女は完全に無視している。
まったく、おせっかいな奴だ。
「メリッサ。ルシファー様をここへお呼びしたのは、どういう意図からなんだ?」
苦々しげに問うエリアスに、メリッサは悪びれもせずににこにこと答える。
「私が知っている治癒師といったら、ルシファー様だけだったので。戦いにおいて回復役は、パーティに必須でしょう?」
なるほど。
メリッサは、いつか天使たちが現れて戦いになることを、あらかじめ予測していたのか。
リョーコがターゲットになるであろうことも、戦いで負傷する可能性があることも。
それに加えて、自らもヒルダから「核撃」を学ぶことによって、対天使戦に対応できる能力をすでに身に着けている。
メリッサ・フォティア・グリッチリボルバー。
ふわふわしているようで、その危機管理能力、リスクマネジメントは抜群だ。
敵に回せば、これほど厄介な女もいないだろう。
もし付き合うようなことがあれば、尻に敷かれること間違いなしだ。
エリアスは頭を振って恐ろしい考えを振り払うと、治癒師アカデミーの長に向き直った。
「ルシファー様。あなたと私は、この世界を守るやり方を異にしている。そのあなたが、私に協力してくださると?」
半信半疑のエリアスを、理事長は片手で軽く制した。
「まあまあ。まずは、お互いの立場を明確にしておきましょう。まず、私のことはジェレマイアで構いません。悪魔はもう組織として機能していませんので、ルシファーの名は形がい化しており、もはや不要と考えます」
それを聞いたメリッサが指を組んで、うれしそうに尋ねた。
「じゃあジェレマイア理事長、私のことも、ヴォラクではなくメリッサでよろしいですね?」
「無論です。メリッサ、あなたは驚くほど変わりましたね。あなたが私を訪問した時には、一瞬誰だか分らなかったほどですよ」
「ふふ。女の子も魔導士も、変幻自在なんですよ」
天真爛漫に笑うメリッサを見て、ジェレマイアは心底ほっとしているように、エリアスには思えた。
心神喪失していた彼女を悪魔へと変えたことに、彼も内心忸怩たる思いがあったのかもしれない。
ジェレマイアは一つうなずくと、エリアスへと向き直る。
「それで肝心のランディ君は、エリアス王子と呼ばせて頂いてよいのですか」
「それで結構です。俺はこれから、王子として、王族としての義務を果たそうと思っています。ランディという前世の名は、今の俺にとっては邪魔でしかありません」
ジェレマイアは、ほう、と声を上げた。
「いままで血筋などに関心のなかったあなたが、王族として。当然といえば当然ですが、どうした心境の変化なのでしょうか」
エリアスは、長椅子に横たわったままで興味深そうにこちらを見ているリョーコを、ちらりと振り返った。
「リョーコとメリッサが、俺に提案してくれました。政治的な解決策を模索するように、と」
ジェレマイアは、目を細めてリョーコを見やった。
「ふむ。どうやら王子は、いい補佐官をお持ちのようだ」
それを聞いたリョーコは、いたずらっぽく笑う。
「私は、別に政治なんかに興味ないんですけれど。ただ、クーデターを勧めただけで」
ジェレマイアは一瞬ぎょっとした表情をすると、くっくと笑いだした。
「クーデターが、政治的な解決策ですか。ピンク髪の狂剣士の異名は、伊達じゃありませんねえ」
リョーコはうんざりした表情をした。
「だから、なんなんですかそれ」
こいつら、私にどんなイメージを持っているのか。
ただのパン屋の店員だっての。
ようやく笑いをおさめたジェレマイアは、少し姿勢を正した。
「まあ、とにかく。まずは皆さんの傷を治してから、情報交換といきましょう。もっとも重傷であるように見える、リョーコさんからでよろしいですか」
エリアスがうなずいた。
「お願いします、理事長。リョーコの奴、へらへらしていますが、いつ気絶してもおかしくない。大した精神力です」
「いやあ、それほどでも」
リョーコの軽口に、エリアスはさらに顔をしかめた。
「それではリョーコさん。傷口を見ますので、上着を取りますよ」
ジェレマイアの言葉にリョーコはうなずくと、彼が衣服を脱がせるに任せた。
医師だったこともあるのだろうし、彼女の性格もあるのだろう。
自らが裸になることについて、リョーコには特に躊躇もない。
両肩の傷口をじっくりと改めたジェレマイアは、渋面を作ると首を振った。
「これはかなりひどいですね。まず左肩の刺創については、かなり深い。関節内まで達していますか?」
リョーコは、自分の身体を客観的に分析した。
「肘の屈伸は可能ですし、指の色調に異常はありませんから、神経と血管は大丈夫だと思います。あ、解剖分かります?」
ジェレマイアは、得意そうに笑った。
「本当はこの世界でも、人体についての知識はかなりのものが蓄積されているのですよ。治癒魔法が発展しないように、機密事項としてその公開が国家に制限されているだけで。それでもおそらく、あなたが以前いたユークロニアの知識には及ばないと思います。適宜、指示を頂ければ」
リョーコはうなずいて了解の意志を伝えると、よどみなく病状を伝える。
「助かります、理事長さん。画像検査がないから推測ですけれど、刺し傷の方向と痛みの性状から考えて、左肩は肩甲骨の関節窩が骨折していると思います。反復性脱臼と化膿性関節炎が怖いので、関節内の浄化と骨折の修復が必要だと思います」
ジェレマイアは取り出した手帳にメモを取りながら、先を促す。
「ふむふむ。右は?」
「三角筋がごっそり欠損しているのと、外転運動が麻痺しているので、腋窩神経も断裂していると思います。治癒魔法って、組織再生できますよね?」
ジェレマイアは手元に目を落としたまま、うなずく。
「リョーコさんが教えてくれて、イメージできれば。ところどころわからない部分もありますし、特に、固有名詞がこちらとはかなり違うので。しかし、あなたのその知識、すごいですねえ。ユークロニアの人々は、みんなこのような知識を持ち合わせているのですか?」
リョーコは、笑って首を振った。
「まさか。私、医師でしたから。しかも、外傷が専門なので」
「いし?」
「魔法の使えない治癒師みたいなもんです」
「……魔法を使わずに、怪我や病気を治す。「不死」の件といい、やはりユークロニアは危険な存在ですね」
ジェレマイアはリョーコの傷口に手をかざして「浄化」の魔法をかけながら、顔を上げずにつぶやく。
その声の暗さに、リョーコはジェレマイアのもう一つの顔を見たような気がした。
「理事長さん……」
「自分の同族である治癒師を守るために、異世界転生者を排除する。この点において、私の考えは変わっていないのですよ。あなたも、ヒルダさんも、そしてエリアス王子も、私にとっては受け入れることができない存在なのです。時代錯誤とお笑いになるかもしれませんが、私にも譲れないものはあるのです」
それきり二人は、時々専門的な会話を重ねるのみで、ただ傷の治療に集中し続けた。




