第八二話 好敵手
カレンが短い警告を発した。
「殿下、きます!」
瞳のない、今や下級天使へと変貌した一人の兵士が踏み込んでくると、左右それぞれの手に構えたショートソードをカレンに繰り出してくる。
王宮近衛隊は、王国軍の中でもえりすぐりの兵士たちの集まりである。
人間としての理性を失っている今でも、その太刀筋は全く衰えていない。
カレンは左手の小さな円形の盾、バックラーを前方に突き出すと、曲面で相手の刃を流し、その勢いで天使の顔面を殴打した。
そのまま盾をハンマーのように横に振るって吹き飛ばし、後方にいた数人の天使たちを巻き込んで転倒させる。
すぐさま、地面に転がったその天使たちを乗り越え踏みつけるようにして、別の天使が飛び出してくる。
カレンは素早くバックラーを手元に引き戻すと、それを前方に突き出して相手の胸に押し当てた。
動きを止めたところで、盾の陰から繰り出した剣先を天使ののどに突き入れ、脳天まで切り上げる。
薄闇の中にも、飛び散る脳漿がはっきりと見えた。
カレンは後方へ軽くステップして元の位置に戻ると、エリアスと背中合わせになって次の攻撃に備える。
リョーコは、カレンの一連の剣技に見入るほかなかった。
あの小さな盾、防御に使うんじゃないんだ。
盾単独で、あるいは長剣と連携させて、トリッキーな攻撃を繰り出す。
いわば、剣と盾の二刀流だ。
彼女の尋常ではないスピードと相まって、初見では絶対に対応できないだろう。
カレンさん、強い。
だが、その彼女の口から漏れたわずかなため息を、リョーコは聞き逃さなかった。
「殿下。彼ら、もう人間じゃありませんね?」
エリアスが、感情を殺した声で答える。
「ああ、奴らは天使だ。悪魔と同じで、肉体強化とある程度の自己再生能力を獲得している。通常攻撃で殺すことはできない」
実際、カレンに顔面を砕かれた天使は、その動きこそ鈍らせているものの、もぞもぞと再び立ち上がろうとしている。
天使、という言葉に、カレンは衝撃を受けていた。
私が見たことのある悪魔は、ヒルダさんと戦って左腕を失い気絶していた若い女の悪魔、その一柱のみだが。
彼女の方が、今眼前にしている兵士達よりも、はるかに人間的に見えた。
いや、天使的ですらあった。
カレンの唇は、白くなるほどにきつくかみしめられている。
下級天使と化した彼らの中には、彼女直属の見慣れた顔の兵士も複数混じっていた。
寝食も、生死も共にしてきた同僚。
「……どうすれば、倒せます?」
「現状では、リョーコの『破瑠那』かフリッツの『スプリッツェ』、それにヒルダの『核撃』のみだ」
エリオットは「破瑠那」の黒いさやを素早く拾うと、肩が動かないリョーコに代わって刀を納めてやった。
青く光る刀身は、夜の戦いでは格好の的になる。
リョーコは後悔した。
怒りに任せてミカエルに突っ込んで、奴の撃破と引き換えに戦闘不能に陥ってしまった。
治癒師のフリッツ君がいない今、傷を負うような戦い方をしてはならなかったのに。
挙句の果てに、エリオット君とカレンさんの足手まといになっている。
「ごめんね、カレンさん。役に立たなくて」
踏み込んできた一人の天使をけさ斬りにしてから、リョーコに謝られたカレンが、むしろ自分を責めるように答えた。
「何をおっしゃいます。リョーコ様はそんなお身体になってまで、殿下を守ってくださいました。本来なら、私の役目であるはずなのに」
エリアスが手甲をクロスさせて、振り下ろされたウォーハンマーを受け止める。
ぎりぎりと戦槌を押し返すと、拳で柄を折り、相手の首の根元にハイキックを叩き込んだ。
「リョーコ、お前はミカエルを倒しただけで十分だ。あのいけ好かない野郎をお前が居合で叩き落したときなんざ、実にすかっとしたぜ。いいから少し、そこで休んでな」
エリアスとカレンは確かな連携で、絶望的な防戦を続けていた。
「殿下、右!」
カレンが悲鳴に似た声を発した直後、エリアスの右の上腕に焼けるような痛みが走った。
ジャケットの上から腕に突き立っている、黒光りする尾羽。
短弓の矢か。
飛んできた方角を振り返ると、天使たちの壁の一角が空いて、そこから数名のアーチャーが次の矢をつがえているのが見えた。
そうか。
当然、弓兵もいなきゃおかしいよな。
それにしても、こんな夜でも矢を射れるとは、厄介に強化されてやがる。
いつもは冷静沈着なカレンが、狼狽して駆け寄る。
「殿下、矢を抜かなければ」
「大丈夫だ、多分毒は塗られちゃいない。もともと、近衛兵には毒矢の使用は許可されていなかったし、その備蓄もないはずだからな。それよりもカレン、リョーコを連れて俺から離れろ。次の矢が来るぞ」
カレンの怒りに燃えた青い瞳が、天使たちの群れに向けられた。
「絶対に、させません」
カレンはぐるりと旋回すると、脱兎のごとく弓兵へと駆け出した。
「ばか、戻れ!」
カレンの肩をつかもうとしたエリオットの手甲が、むなしく空を切る。
ぶるん、という数条の弓のうなりと共に、カレンの身体に矢が殺到する。
彼女は右足でだん、と跳躍すると、そのまま前方に回転して、弓兵たちの眼前に着地した。
そして裂ぱくの気合とともに、カレンはロングソードを横凪ぎに大振りする。
夜に描かれた銀色の弧の軌道上にいた下級天使の射手たちは、その弓ごと上体を真っ二つにされていた。
切断されてなおもうめき声をあげる顔を踏みつけて、カレンが次の標的を探す。
その時彼女は、暗がりの奥で何かがひゅんひゅんと回転する音を聞いた。
まずい。
とっさに剣を引こうとした彼女の右手首に、強い衝撃が走った。
彼女の家系に代々伝えられ、片時も離さずにいた銘剣が、はじかれて遠くの地面に落ちる。
手首に絡みついた強靭な縄のそれぞれの端には、一つずつおもりがつけられている。
ボーラと呼ばれる投てき武器だった。
遠心力を利用して相手に投げつけ、からめとる。
主に敵の指揮官をとらえることを目的として、兵の幾人かがこの武器に習熟していたことを、カレンは思い出した。
剣を拾うために駆け寄ろうとしたカレンの足元を、さらに数個のボーラが襲う。
そのうちの一つがついに彼女の足首をとらえ、カレンは派手に転倒した。
すかさず槍兵の群れが、蟻のはい出る隙もないほどにびっしりと彼女を囲んで、槍の穂先を向ける。
カレンは、エリオットたちがいた方角を見た。
彼女を囲んでいる兵士たちの向こうで彼の声が聞こえたようにも思えたが、それは無情なほどに遠い。
騎士はその命が尽きるまで、主君に忠誠をささげる。
だが、そんな誓いなどなくても。
私の命は最後の瞬間まで、殿下のものだ。
うつぶせに倒れこんだま地面を這うカレンの左手の甲を、天使の一人が繰り出した槍が貫通し、彼女を地面に縫い付けた。
カレンは地面を見つめながら、はあっと息を吐き出す。
「まだ、死ねない。殿下の無事を確かめるまでは」
「死なせないわよ、私のライバルさん」
頭上から、柔らかな女性の声と、鳥のような羽音が降ってくる。
わずかに顔を上げて夜空を見上げたカレンは、満月を背にしてゆっくりと羽ばたいている人影を見た。
天使。
は、私の敵か。
じゃあ、あれは。
「其、転冠矩撒核!」
人影の右手が前方に差し上げられると、その先端から、ちりちりとした粒子をまとった十本の赤い光が、後光のように放射状にほとばしる。
それぞれの光条は不規則に曲がると、カレンを囲んでいた天使たちの胸をひとつとして外すことなく貫いた。
一瞬の後、天使たちの胴に開いた穴からぐつぐつと沸騰するような音がしたかと思うと、その肉体が急速に崩壊を始める。
地面に落ちていく彼らの武具に交じって、人影はカレンの目の前にばさりと降り立つと、彼女の左手を貫いている槍を引き抜いた。
それをがらんと放り投げると、純白の翼をたたんで背中に隠す。
痛みも忘れて、カレンはその女性を見上げた。
年齢は、私ぐらいか。
やや垂れた目が柔和な印象を与えるが、魔導士が見た目通りであることは極めてまれであるし、先ほどの魔法の威力を目の当たりにした今となっては、その純朴さを真に受けるわけにはいかない。
肩まである栗色の髪は、同系統のブラウンヘアーであるカレンのそれよりも、濃い目の茶。
黒のノースリーブのカットソーに、長いベージュのフレアスカート。
空を飛んで来たのにスカートとは、おっとりした雰囲気とは裏腹に大胆だな、とカレンは妙なことを考えた。
「初めまして、カレンさん。もっとも、あなたの方は私を見たことがあるんでしたよね」
その女性はかがんで右手を差し出すと、カレンを引き上げて立ち上がらせる。
彼女の左腕が肩口からまるまる失われていることに気づいて、カレンははっとした。
女性はスカートの裾が地面につかないように、右手だけで軽くつかんで器用に持ち上げると、片足を浅く後ろに引いて膝を曲げて、優雅に会釈した。
「メリッサ・フォティア・グリッチリボルバーです。メリッサと呼んでくださいな、カレンさん」




