第八話 情報交換会への招待
左肩から右腰にかけて斜めに背負った長刀をおろし、左腰に引き付ける。
左手で鍔元をつかみ下方へ引き下げると、反対側にある鞘の先が天を向く。
リョーコは呼吸を静めると、半眼で体の力を抜いた。
瞬間。
右手で刀のつかをつかむと、目にもとまらぬ速さで鯉口を切った。
腕を大きく前方に伸ばしながら、左下から右上へと切り上げる。
少し遅れて、目の前の小木が斜めに断たれてざざっと落ちた。
途方もなく、軽い。
刀身の細さのなせる業でもあろうが、それを差し引いても、通常の鍛鉄であるとは思えない。
こんなにも長い「大太刀」であるのに、片手で抜き付けて、居合斬りすらも可能だ。
まあ、これだけ目立つ長さだ。
護身や奇襲が目的の居合には、全く不向きな武器ではあるが。
リョーコはふうっと息を吐くと、長刀を鞘に戻した。
私が転生して来る前の、この身体の元の持ち主さん。
彼女、そうとうな腕だったんだろうなあ。
身体が、すべての剣術動作を覚えているよ。
一年前。
森の中でリョーコが意識を取り戻したとき、数少ない携帯品の中に、簡素だが堅牢なつくりの一本の小太刀があった。
その刀はまだ真新しい血に濡れており、それがただの護身用ではなく、直前まで実際に戦闘に用いられていたことが知れた。
この子、剣士だったんだ。
リョーコは、自分の肉体を改めて確かめてみた。
上腕二頭筋から大胸筋、腹直筋、下腿三頭筋など、体幹から四肢に至るまで。
鍛え上げられた筋肉が一年前のままで、今でも維持されている。
リョーコはこの世界に転生してから、朝の剣の鍛錬を一日として欠かさなかった。
今まで続けてきた彼女の努力を無駄にするのは、失礼な気がしたからだ。
きっと、ストイックないい子だったんだろうなあ。
どうして死んじゃったんだろう。
弱い私なんかより、ずっとたくさんの人に必要とされたはずなのに。
長刀を背負って店に帰ってきたリョーコに、レイラが声をかけた。
レイラは、いつの間にかリョーコが常に身に帯びるようになった刀に関して、特に触れることはなかった。
何故か、リョーコには刀がしっくりくる、とでも思っている節があった。
「おかえりなさい、リョーコ。お客さん、来てるわよ」
「え? 私に?」
カウンターの内に刀を立てかけてエプロンをつけたリョーコは、カフェの方をのぞいた。
テーブルに座っていたのは。
「あ。……フリッツ君」
黒いショートコートをハンガーにかけ、白いハイネックのセーターだけのフリッツは、姿勢正しく椅子に腰掛けると、目の前のクロワッサンをちぎっては口に運んでいる。
驚いた表情のリョーコに気付くと、軽く片手を上げて、少し照れたように微笑んだ。
その笑顔の破壊力ときたら。
美少女かよ。
「お邪魔してます、リョーコさん。このクロワッサン、本当においしいですね。もう五個目なんだけれど、全然飽きないなあ」
ぼうっと突っ立っていたリョーコを、レイラが笑いながら小突いた。
「ほらほら、リョーコ。お店の方は私一人で大丈夫だから、ゆっくりとお話ししてきなさいな」
レイラはリョーコのエプロンを無理やりに脱がせると、さっさとカウンターの方に戻っていく。
今の彼は、お客さんなんだ。
ここは、開き直って接客するっきゃない。
平常心よ、私。
リョーコはおずおずとテーブルに近づいて、困ったようにうつむくと、顔を赤らめて小さくつぶやいた。
「あ、あの。いらっしゃいませ」
フリッツはきょとんとすると、ぷっと噴き出した。
「やだなあ、リョーコさん。お仕事中はそんな感じなんですか? キャラ設定、間違ってますよ」
そういって笑い転げるフリッツ。
リョーコは、別の意味で顔を赤くして怒鳴った。
「どういう意味よ。この前は悪かったなあって、これでも反省してるのに。何よ、心配して損しちゃった」
フリッツは笑うのをやめると、リョーコの顔を下からのぞき込んだ。
「心配? ぼくの事を?」
「失言。いまの、忘れて」
からかいすぎたと思ったのか、フリッツは素直に謝った。
「ごめんなさい、リョーコさん。とりあえず、ここ座りませんか? 店長のお姉さんも、ああ言ってくださったことですし」
むう。
悔しいけれど、うれしい。
「し、仕方ないわね。フリッツ君が、そこまで言うんなら」
気が進まないふりをしながらフリッツの対面に座ろうとするリョーコを、彼が引き止めた。
「あの。となりの席が、空いてますよ?」
「え」
「隣の方が、一緒にクロワッサンが食べやすいし」
「そ、そうか。うん、そうよね」
言われるがままに、隣の椅子に座る。
うーん。
我ながら、ちょろすぎる。
恐る恐るリョーコがフリッツの隣の席に座ったところで、レイラが二人分のティーカップを運んできた。
フリッツが、丁寧にお辞儀を返す。
「ありがとうございます、お姉さん。リョーコさんから、こちらのクロワッサンのうわさを聞きました。来てみて、本当に良かったです」
「まあ、こんな可愛い子からお姉さんだなんて。ありがとう、ゆっくりしていってね」
フリッツ君、うまい。
まあ、レイラさんもまだ三十歳そこそこだけど。
レイラは頬をわずかに染めて、弾むような足取りで戻っていった。
こいつ。
天性の女たらしか。
あるいは、天然の。
ふん、その手は食わんぞ。
このリョーコ様を甘く見てもらっちゃあ、困るわね。
リョーコは紅茶を口に運びながら、横目でフリッツをちらりと見た。
「ところで私に用って、なにかな?」
「あの。明日の夜、空いてます?」
リョーコのカップが、ガチャンと大きな音を立てた。
「は。いや、あの、仕事が」
「あるんですか?」
「ないけれど」
フリッツは、にっこりと笑った。
「本当ですか、よかった。ここから二区画先にある『ティッキング』っていうレストラン、知ってますか?」
「ん。『ティッキング』って、魚料理で有名なお店じゃない? 私は行ったことないけれど、友達が、凄くおいしいって」
たしか、ヒルダから聞いたんだっけ。
でも、なんだかムードのある勝負店だって、ヒルダが言ってたような……
「そうです、そこですよ。明日の夜、一緒に行きませんか?」
「え、私と? 二人で?」
「もちろんです。二人だけで、ゆっくり食事したいなーなんて」
待て待て。
こいつは、何かの罠に決まっている。
彼、吸血鬼じゃない。
私を誘いだして、今度こそ始末する気じゃ。
でもそのつもりなら、最初の時にとっくに殺してるよね。
うーん。
彼の意図が、読めないなあ。
「そこって、結構おしゃれな店なんでしょ? フリッツ君、そういうお店によく行くの?」
「おしゃれとかはどうでもいいですけれど、本当においしいんですってば。それにほら、この前自警団員さんにも言ったとおり、僕って路上生活者だから。外食する機会も多いので、お気に入りの店もいくつかあるってわけです」
レストランに通う路上生活者という構図が、そもそもおかしいが。
「そういうわけで、僕の名前で予約しておきますから。ただし、夜道には気を付けてくださいよ」
フリッツは、リョーコの顔を心配そうに見た。
「リョーコさん。この前、鈴の音が聞こえたって言ってましたよね。もし今度また鈴の音が聞こえたら、すぐにその場を離れてください。理由は、分かりますよね?」
悪魔。
襲われた子供。
「それよ、あの鈴の音はいったい何なの? レイラさんたちには聞こえていなかったみたいだし。他にも、聞きたいことは山ほど……」
「だからそういう事も含めて、明日、情報交換しましょう。僕、リョーコさんのことをもっとよく知りたいんです」
リョーコの顔が、我知らず赤くなった。
その表情を見て、フリッツが不思議そうに尋ねる。
「? 何なら、明日の夕方迎えに来ましょうか?」
リョーコは両手を広げて、慌てて遮った。
「いい、いい! ちゃんと一人で行けるから!」
フリッツは立ち上がると、二人分の代金をテーブルの上に置いた。
「そうですか。じゃあまた明日。僕、楽しみにしてます」
フリッツはにっこりと笑うと、扉をからんと開けて店を後にした。
あとに残されたリョーコは、呆然と座り続けていた。
これは、情報交換会。
これは、あくまでも情報交換会。
そう心の中で唱え続けていても、彼女の動悸が治まることはなかった。
居合の練習なんか、してる場合じゃなかった。
こんなことなら。
デートの練習、しとけばよかった。