第七八話 天使来たれり
夜の街道は、満月に薄青く照らされて、長く先へと伸びていた。
馬の首にかけられた「永遠の光」の魔法を付与されたカンテラも、今夜に限っては不要であるほどに、彼らの往く道は明るく浮かび上がって見えている。
鮮やかな薄雲の下、かすかに王城の尖塔が見えてくる頃。
リョーコとランディを乗せたそれぞれの馬たちは、ほとんど同時にその歩みを止めた。
折しも、二騎は灌木の間を抜けて、眼前にはただ平野が開けている。
王宮の城門はもはや、ひと駆けすれば容易に到達できる距離にあった。
春であっても夜も更ければ、やや冷えを感じる。
リョーコは、アルコールで火照った息をはあっと手に吹きかけた。
「ねえ、エリオット君」
彼女の視線は、道のはるか先にすえられている。
その瞳には、酔いの色は全く浮かんでいない。
「何ですか、リョーコさん」
隣からかけられる、ぽややんとした声。
丸眼鏡をかけたエリオットは、ランディとしての彼が放っていたような野性を、完全に覆い隠している。
リョーコは眉根を寄せると、困惑した表情で言った。
「もう、調子狂っちゃうな。どうしてわざわざ、またエリオット君にチェンジするのよ」
「早めに交替しないと、慣れるまで時間がかかりますからね。カレンは鋭いから、ちょっとした言葉使いで疑われてしまうし」
悪びれない調子でうそぶくエリオットに、リョーコが忠告する。
「……私が言うのもなんだけれど、隠し事って良くないと思うなあ。あなたとカレンさんって、距離感近いじゃない。絶対に、どこかでばれる時が来るよ。だったら、早い方がいいと思うんだけれど」
エリオットはくすりと笑うと、眼鏡を押し上げた。
「それって、リョーコさんの経験談ですよね」
「そうよ。悪い?」
「いいえ、全然。それよりも、こんなところで立ち止まって。他に何か、言いたいことがあるんじゃないですか?」
リョーコは真顔に返ると、声の調子を落とした。
「あなたと私がお忍びで出かけてることを知ってる人って、誰?」
「カレンだけですね」
リョーコは親指で、くいっと前方を指さした。
「じゃあ。堀にかかる橋の上で出迎えてるあの人たちは、一体誰かな?」
それはもちろん、最前からエリオットにも見えていた。
城を囲む幅広い堀にかかっている、つり上げ式の大きな木製の跳ね橋。
それがこのような深夜に降りているのも奇妙であったが、さらにその上に立ちふさがるようにして、かなりの人数が整列しているのも、実におかしな話であった。
ざっと見て、二、三十人は下らない。
「出迎えって、いろいろな意味がありますよね。歓迎とか、待ち伏せとか」
「どう考えても後者でしょ。しかも待ち伏せしているような奴らが、どうして揃いもそろって王宮近衛隊の正式装備なのよ」
彼らの鋼鉄製の胸当てが満月の光を照り返して、巨大な一匹の魚のうろこのように、銀色に光って波打っている。
こしらえこそやや簡素だが、そのいでたちはカレンのものと大きくは違わない。
エリオットにはもちろん見慣れた王宮近衛隊の装束に、間違いはなかった。
「待ち伏せで裏切りかあ。確かに、穏やかじゃありませんねえ」
のんびりとつぶやきながらも、エリオットのとび色の瞳には、わずかに怒りの炎が揺らめいている。
リョーコは、内心驚いた。
つかみどころがないようでいて、こんな表情もするんだ。
なんだかんだ言って、王宮に誇りも愛着もあるのよね、彼。
まあ、そういう奴じゃなきゃ、異世界を守ろうなんて思わないか。
「ねえ、エリオット君。あなたがお父様やご兄弟から排除されるような理由、何かない?」
前を向いたままのエリオットの口元に、冷たい笑いが浮かぶ。
「僕は、引きこもりの王位継承権第四位ですよ。父王や兄上、姉上たちにとっては、僕がいてもいなくても何の影響もありません。僕が彼らの地位を脅かせるような存在じゃないことは、先ほどバーで話した通りです。もっとも、僕の頼りなさが王家にふさわしくないから排除する、という線なら別ですが」
「なるほど、それがあったか」
「あるわけないでしょう」
エリオットが平手で、びしっとリョーコの胸に突っ込みを入れた。
こいつ今、胸触りやがったな。
リョーコはお返しに、固めた拳でエリオットの腹にボディブローを叩き込む。
ぐふっと腰を折り曲げたエリオットは、ずり落ちた丸眼鏡を押し上げながら素早く立ち直った。
「だ、だから。彼らが僕たちを襲撃する理由があるとすれば、王位がらみではありません」
エリオットの指摘は正鵠を射ている。
とすれば、答えはただ一つ。
「やっぱりあいつら、異世界の」
「おそらく、そうでしょう」
ついに、本腰を入れて狙ってきたか。
ヒルダが心配していた通りに。
「で。私たち二人のうち、どちらがターゲットなのかしら」
「まあ、優先順位から言えばリョーコさんでしょう。『不死』狙いですね。ですがどうやら、僕を生かしておく気もなさそうですよ」
「あら、どうして?」
「二人でいるところを襲ってきたということは、まとめて目的を達成したいということでしょうから。そうでなければ、個別に襲撃してくるはずです」
「不死」を手に入れて、異世界の事情に通じている裏切り者を始末する。
リョーコは唇をかんだ。
それじゃあいずれ、フリッツ君やヒルダも狙われる可能性が高い。
「よし。さっそく、せん滅しよう」
はやるリョーコの胸を触らないように、エリオットが慎重な動作で彼女を押しとどめた。
「ここで雑魚を相手にしても、何の益もありません。奴らの正体も目的も、わからないんですから。しかもなぜか、王国の近衛兵が関与している。この状況なら、当然迂回して戦いは避けるべき……」
その時、彼らが出てきたばかりの灌木のはずれから、唐突に声をかけてきたものがあった。
わざとらしく、ぱちぱちと拍手の音まで聞こえてくる。
「いやいや、正体も目的も、ほぼご明察だよ。異世界がらみってのも、『不死』が目的だってのも、正解さ」
茂みを割って出てきたそれを目の当たりにしたリョーコとエリオットは、思わず息をのんだ。
白い、巨人。
それから放たれる威圧感は、二人の倍近い巨躯のせいだけではない。
チェインメイルの上に白いチュニックを羽織った、一点の曇りもない光の騎士。
満月にぎらりと輝く金属製のサレットの中の顔は、バイザーで黒く隠されている。
そしてそこからわずかに露出した口元は、唇と周囲の皮膚を含め純白だった。
完璧で静謐な、美しき人外。
それがなぜ、リョーコとエリオットの目にはこれほど禍々しく映るのか。
彼ら自身にも、その理由をうまく説明することはできなかった。
巨大な騎士は、唇を曲げた。
笑って、いる。
昔、教科書にいたずらで書いた、ぱらぱら漫画のこま送りのようだな。
その唇の動きを見て、リョーコは漠然と、そんなことを思った。
発せられる声も、どこか合成音、あるいは電子音をほうふつとさせる。
そうした異質感とは裏腹に、巨人が伝える言葉の内容は、ひどくくだけたものだった。
「もっとも異世界がらみといっても、俺たちは向こうの世界の奴らのことなどどうでもいいし、こちら側にいる転生者についても知ったことではない。俺たちの『ミストレス』を女神へと昇天させるためにのみ、二つの世界はその存在価値を認められているに過ぎないんだからなあ」
うん。
敵だ。
この傲慢さとは、分かり合えない。
というか、初対面でのたった数行のせりふでこれだけの嫌悪感を与えることができるのは、一周回って才能ですらある。
リョーコとエリオットは、ゆっくりと馬を降りた。
「私たちのことは、とっくにご存じのようね。あまりお近づきにはなりたくないけれど、一応お名前、教えていただけるかしら?」
リョーコは「破瑠那」を覆っていた白い布を、さっと引きはがす。
満月の光を照り返すその長刀を見た巨人の、バイザー越しの瞳がわずかに光ったように、彼女には感じられた。
白く輝く巨人は、鷹揚にうなずいた。
「お前たちのことはもちろん知識としては十二分に知っているが、対面するのは確かにこれが初めてだな。俺の名は、ミカエル。そう名乗りゃあ、おおかた想像つくだろ?」
その名を聞いたエリオットは、深く息を吐いた。
来るべきものが来たよ。
ジェレマイア、いや、ルシファー。
君には聞こえるかい?
黙示録に記されている、あのラッパの音が。