第七七話 想いは潮騒のように
週末の夜はかなり更けていたが、いつまでも変わらないバーの喧騒が、時間の感覚を失わせる。
ランディはグラスを置くと、息をついた。
かなり杯を重ねたはずだが、頭の芯は冷たく冴えている。
それはリョーコも同じようで、焼酎のグラスを傾けながらも、遠くを見つめて何かを考え続けている。
「まあとにかく、俺とお前たちは、もう戦う理由はなさそうだな。結局は、俺たちの元の世界の組織、『インテグラル』の奴らが諸悪の根源ってわけだ」
リョーコは焦点を現実に合わせると、柔らかく笑って同意を示した。
「そう、そうなのよね。だけど今のところ、彼らとの全面戦争ってのは現実的じゃないんでしょう?」
「ああ。ゲートとなる治癒師の絶対的な数が少ないからな。だから当面は、治癒師アカデミーの閉鎖的な管理が役に立っている。ジェレマイア理事長の思惑通りに」
エリアスことランディが、治癒師アカデミーの長であるジェレマイア理事長と知り合いだったことを、リョーコは思い出した。
金髪の総髪。白いベストを着た、物腰柔らかな紳士。
この王国に百五十人程度しか存在しない治癒師の、ほぼ全員を組織化し、管理している人物。
「ジェレマイアさんの? じゃあ、彼が治癒師アカデミーを主宰している目的ってのは」
「むろん、異世界に対抗するためだ。彼は、治癒魔法が異世界に対抗する切り札の一つだと考えているし、実際にその通りだからな」
うん、納得。
あの理事長さん、食えない感じだったもんね。
フリッツ君だって、明らかに警戒していたし。
「まったく、裏の顔を持った人たちばかりねえ。じゃあ彼がレイラさんのお店にわざわざやってきたのは、フリッツ君を監視下に置きたかったからだったんだ。強制連行されなかっただけでも、温情だったのね。まあ実際に、そんな話も少し出たんだけれど」
あの時ジェレマイアは、自分の味方になれといった。
彼の敵とはすなわち、この世界を侵略する異世界転生者だったわけだ。
「お前はおしゃべりが嫌いなタイプだから、話してもいいだろう。彼は悪魔であり、しかもその代表だ。いや、だった、というべきかな。もはや、彼に従う悪魔は一柱もいないんだからな」
ランディのその言葉は、別段リョーコに何の驚きももたらさなかった。
彼もまた、そのような彼女の反応を、当然だというように受け止めている。
理事長自身が悪魔であるというその事実は、もちろんリョーコにとっては想定外だったが、考えてみれば理屈に合わない話ではない。
この世界における悪魔とは、異世界転生者に対抗しようという志を持った者が、自らの身体を変性させた姿であるからだ。
まあ、最初に戦って斬ったバフォメットは、ただの戦闘狂という感じだったが。
そんな奴すら利用せざるを得ないジェレマイア理事長の苦労が、リョーコには思いやられた。
バフォメットの奴、俺の子を産めなんて言ってくれちゃって。
失礼しちゃうわ。
「ほんと、悪魔ってどこにいるかわからないわね。でも理事長さん、どうして異世界転生者と戦おうなんて考えたのかしら」
「治癒魔法の異世界への流出を憂えた先代の理事長が、王族に訴えて設立したのが、かのアカデミーなのさ。彼は、その遺志を継いだのだな。そして更にこの世界を守る力を求めて、自らの身体を悪魔へと変えた」
なるほど。
やはり、人にはそれぞれの正義がある。
問題は、それを自分の内だけに秘めたまま、肥大化させ暴走させてしまうことだ。
それに歯止めをかけるためには、理解しつつも客観的に検証し修正してくれるような、誰かが必要になる。
私は、フリッツ君にとっての誰かにはなれなかった。
そしてランディもまた、理事長さんにとっての誰かにはなれなかった。
つかもうとしても、想いは指をこぼれていく。
すり抜けすれ違う、潮騒のように。
リョーコははつかの間、途方に暮れた。
分かり合いたい。
分け合いたい。
そう思うのは、一方的なエゴに過ぎないのか。
「……そう。理事長さんとあなた、同志だったんだ」
友人に、なれたかもしれなかった。
ランディは、そんな自分の気持ちをもみ消した。
なりたかったなら、どんなことをしてもなっている。
結局お互いに、その気がなかったということさ。
ランディは吹っ切るように笑うと、人差し指をリョーコに突き付けた。
「王になるっていうのは、悪くはない。が、それはやるべきことを先にやってからだ。何よりまず俺は、フリッツを探す。ポリーナと、そう約束したからな」
リョーコはランディを胡散臭そうににらんだ。
「あなた、やたらとポリーナちゃんに義理堅いわね。まさか、ひょっとして」
ランディはふっと薄く笑うと、観念したかのように言い放つ。
「まあロリコンってのも、存外悪くはないか」
「何ですって!?」
「冗談に決まってるだろ。彼女は、俺の友達で先輩なんだよ。それ以上の理由が必要あるか?」
ない。
それ以上の理由が本当にないのなら、文句はない。
「なら、いいけれど。マジだったら、今ここであなたを斬っといた方が、すべての女の子のためね」
リョーコが壁の「破瑠那」をわきに引き付け、脅しをかける。
ランディは、降参だというように両手を軽く上げてみせた。
「まあ、俺がフリッツを探し出すのは、お前さんのためにもなるんだろう? その刀で斬って治すためには、もう一度奴に会わなきゃならないんだからな」
毒気を抜かれたリョーコは、困ったように肩をすくめた。
「うーん、そうなのよねえ。さよならしちゃった後で、ばつが悪いなあ」
リョーコは自分に言い聞かせた。
医師が、患者としての彼に会うんだもの。
再診したって、何の問題もないはず。
だが、もし再び会えたとして。
今でも彼は、治りたいと思っているのだろうか。
不死のまま、永遠に異世界転生者への復讐を続けたいと思っているのではないだろうか。
「自分から治ろうとしない患者は、どんなに優れた治癒師でも治すことはできないわよ」
以前彼にかけた言葉を思い出したリョーコの思考は、再び堂々巡りに陥った。
「さて、そろそろ帰るか。あまり遅くなると、カレンが心配するからな」
普段は冷静沈着なランディが見せるわずかな焦りに、リョーコは微笑ましくなった。
「彼女、出かける時から、すでに心配のし通しだと思うけれど。あなた、もう少しはっきりした方がいいんじゃないの」
フリッツ君のこと、ずっと突っ込まれぱなしだったし。
ここらで挽回しておかなければ、彼との今後の力関係に影響する。
「何のことだ?」
リョーコがにやにやと意地悪な笑いを浮かべる。
「あなた、ヒルダの先輩っていう魔導士さんが怪我したとき、珍しく狼狽してたじゃない。もしかして、あの娘のことが好きだったりするの? だんまりして二股なんかかけていると、後で修羅場を招くわよー。カレンさんって、この王国では最強騎士の一人なんじゃないの?」
メリッサのことを、悪魔とは呼ばないのか。
何にも考えちゃいないんだろうが、そういうところが、こいつの信頼できるところだ。
「余計なお世話だ。俺が王になれば、お前は不敬罪で真っ先にギロチンだな」
「あら。王ともなれば、側室なんか持てちゃうんじゃないの? もっとも、どちらが正室になるかで戦争になりそうだけれど。まあいずれにしても、まずは王にならなきゃね。期待してるわよ、下克上を」
ランディはリョーコを苦々しくにらみつけると、片手をあげてマスターに声をかけた。
店主のマーヴィンが、楽しげに近寄ってくる。
「いつもありがとうございます、ランディ様。リョーコ様も、お楽しみいただけましたか?」
リョーコは立ち上がると、優雅に会釈を返した。
「最高でした、マーヴィンさん。懐かしいものを飲めて、本当に満足です」
「どういたしまして。お一人の大切な時間、あるいは大切な人との時間に、いつでもご利用いただければ幸いです。またお待ちしていますよ」
そうね。
ランディもなんだかんだ言って、私に相談事をしてくれたわけだし。
それなりに、気にかけてくれていたんだよね。
そんなリョーコのひそかな感謝に気づくことなく、けっとランディはぶっきらぼうに答えた。
「今日は例外だ。俺は本来、一人が好きなんでな。これは、ただのビジネスさ」
リョーコは腕を組むと、わざとよく通る声で言った。
「マスター。この人、一見孤独なハードボイルドを気取ってますけれど。実はガールフレンドが二人もいて、それに加えて本命は十歳の女の子なんですよ」
リョーコの言葉に、マーヴィンの顔が引きつった。
周囲の客もぴたっと会話をやめると、静まり返って耳をそばだてている。
「じ、十歳。本当ですか、ランディ様。いくらごひいきにして下さるからって、犯罪者をかばい立てする事はできません。憲兵さんを呼んできましょうか、リョーコ様」
狼狽して周囲を見回したランディは、顔を赤くしてわめいた。
「てめえリョーコ、適当なこと言ってんじゃねえ。マスター、勘定だ!」