第七二話 アーク・ウィッチーズ
気を使うのが馬鹿らしくなってきたヒルダは、行儀悪く頬杖を突きながら尋ねた。
「先輩、もう遠慮なく、突っ込んだ話させてもらいます。異世界転生者の件って、もう吹っ切れたんですか? 先輩の人生を、かなり左右していると思うんですけれど」
「人生を左右? そんなこと、死に際に振り返ってみるまで分からないじゃない。刹那的なヒルダさんらしくない考え方ね」
ヒルダの率直な意見を、メリッサは気にかける様子もない。
「じゃあ、もう」
「かっこいい男の人を見つけたと思ったら、その人が異世界転生者だったんだもの。もう、気にしないことにしたわ」
「……素晴らしい。フリッツ君に聞かせてあげたいわ」
ヒルダは、かすかなため息をついた。
もっとも、先輩とフリッツ君では、かなり事情が異なっているのではあるが。
フリッツ君ね、異世界由来の実験で、お姉さんを殺されているらしいの。
そうぽつりと話したリョーコの横顔が、今も脳裏から離れない。
自分の事なら呑み込むことができても、他人の事には納得がいかない。
そういうフリッツの優しさがリョーコを拒絶しているとは、なんという皮肉か。
「え、何か言った? ヒルダさん」
ヒルダは我に返ると、目の前できょとんと座っているメリッサをまぶしそうに見た。
彼女のあり方はきっと、いずれ来るべき異世界同士のミクスチャーに際して、貴重な道標となるだろう。
「いえ、こちらの話です。今の先輩の話、とても素敵だと思います。だから」
生まれ変わった今の彼女なら、正しく使ってくれるに違いない。
「お礼に、『核撃』をお伝えさせていただきます」
メリッサはごくりと息をのむと、居住まいを正した。
「え、本当にいいの? 実はもちろん、ダメ元で言ってみたんだけれど」
魔導士が自分のオリジナル・スペルを他の魔導士に教えることなど、まずありえない。
ヒルダやメリッサのような頂点に近い魔導士は、一般的に知られている魔法というものはほぼ完全にマスターしており、そこで差がつくことはほとんどない。
そういった場合、相手の知らない呪文を一つでも知っていれば、それだけで絶大なアドバンテージがある。
彼女たちがオリジナル・スペルを求めるのも、実にその点にあるといってよい。
誰も知らない魔法。
唱えられている方は何が起きるのか分からない、初見殺し。
もちろん、他人の手あかのついていない新しい原理など、そうそう発見できるはずもない。
習得難度が最高なのではなく、創造難度が最高なのだ。
そういった意味では、異世界の遺伝子知識を持つヒルダが魔導士に転生したのは、本人も驚くほどの偶然であり幸運だった。
何しろ、この世界にないはずの理論なのだから。
それをヒルダは出し惜しみすることなく、あっさり教えると言ってのけた。
「もちろん、いいですよ。多分、先輩にしか理解できないと思いますし。ただし、遺伝子って概念、学ぶのにちょっと時間がかかりますよ」
「全然オーケーよ。それにしても異世界の知識かあ、もう最高」
メリッサは両手を組んで小躍りする。
そんな彼女に、短めのスカートのヒルダがにじり寄った。
「ほかにもいろいろ、先輩の知らないことを教えてあげれますけれど」
「あ、必要なことだけでいいです」
つれない返事とともに、ずず、とメリッサは半歩下がって、我が身の安全を確保した。
ダメ元と言っていた割には、準備よくバッグからノートを取り出し始めたメリッサを、ヒルダはかなわないという顔で見た。
さすが、先輩。
私がオーケーすることも、予測済みって訳か。
「それで、誰がターゲットなんです? ルシファーって人ですか、それともアバドンって人の方」
そこまで言って、ヒルダははっとした。
「もしかして、フリッツ君ですか?」
メリッサはだるそうに、首を横に振った。
「ううん、その誰でもないわ。ランディならフリッツ君を狙うんでしょうけれど、私はパス」
「え。でも、ほかの誰に使うんです?」
「わからない」
「わからないって。じゃあ一体、何のために『核撃』を」
ヒルダの方に身を乗り出すと、メリッサは声を落とした。
「何かね、嫌な予感がするのよ。ヒルダさん、異世界の組織の人って、この世界に何人くらいいるの?」
ヒルダは、急に矛先の変わった話題に戸惑った。
「それこそ、わかりません。組織の人間は、基本的に単独行動していますから。転生するときに顔も変わっちゃうから、ランディみたいに、基本名前しか知らないんです」
「それって、普通の人間?」
ヒルダは拗ねて見せた。
ランディもそうだし、なんなら目の前に、異世界転生者の実例がいるではないか。
「無論です。転生前の知識がある以外には、この世界の人間と区別することはできません。ある、特殊な魔法を除いて」
フリッツ君の剣に宿る、付与魔法。
「ディテクト・フォーリン・ジェネ」だったかな?
「いえ、ね。私達が異世界転生者と戦うために悪魔になったように、あなたたちの世界の人たちがこの世界で戦うにあたって、同じような戦闘態になったとしても、不思議じゃないかなあって」
メリッサは、背中に格納していた白い翼をヒルダに小さく振って見せた。
そういうありのままの姿を隠さないメリッサを、ヒルダは改めて好ましいと思った。
「戦闘態。それって、人間の遺伝子を改変して戦闘能力を獲得するってことですか」
「原理は私たち悪魔とまるっきり同じだから、知識さえあれば可能なはずだわ。あと、もう一つのものさえあればね」
「……治癒魔法」
「そう。治癒魔法がないと、悪魔は生成できない。変性遺伝子を組み込めないからね。例えば、私を悪魔にしてくれたルシファー様は、治癒師なのよ」
彼女のその情報は、ヒルダには衝撃的であった。
頭の中では理解していたが、いざ治癒師が異世界戦争に絡んでいるとなると、やはり治癒魔法というものが禁忌に近い危険性を持つことが、肌で感じられてくる。
「それでね、ヒルダさん。あなた達がそれぞれ何らかの任務を与えられていたってことは、いずれは向こうの世界に帰還するはずだったんでしょ」
「もちろん、そうです。私の主任務は悪魔を倒すことでしたが、可能であれば何らかの魔法を持ち帰ることも、タスクの一つでした」
「じゃあ、どうやって戻るの」
「任務を達成したときに、連絡が来る手はずになっていたんです。どこかで、ユークロニアっていう私たちの世界に戻るための転生遺伝子を組み込まないといけないので」
メリッサは顎に指をあてて、ふむ、とうなずいた。
「ということは、少なくともそのユークロニアに協力している治癒師が、この世界のどこかにいるわけだ。それに、あなた達を監視する手下も」
「まあ、そういう事になりますね」
「それじゃあ、彼らが果たして、裏切者の転生者たちを野放しにしておくかしら。あなたとランディ。間違いなく、消しにかかってくると思うわ」
ヒルダはメリッサの意見に賛意を示しつつも、自分の見解を述べた。
「それは、組織を離れる時に私も考えました。『核撃』を編み出したのも、一つには自己防衛が必要だという危機感があったからです。しかし、私が十二歳でこの世界に転生してからもう十二年になりますが、今まで何の干渉もありませんでした。組織は結局私の事を、処分する価値もないと判断したのでは?」
「何、甘いこと言ってるのよ。ヒルダさんらしくもない。彼ら、あなたたちを利用して、何かを待っていたんじゃないの?」
ああ、そうか。
この前リョーコに、私自身が言ったばかりじゃないか。
そいつらは、フリッツ君がいるこの世界にリョーコが出現することを、待っていたんだ。
目的は、「完全なる不死」か。
そして、リョーコが現れた今。
私とランディは、もう用済みってわけね。
「……なるほど。先輩の読みでは、ここ最近で何かが動き始めていると」
「だから、『核撃』なのよ。悪魔みたいな何かが襲ってきたら、通常の攻撃では対応できない」
悪魔みたいな、何か。
あれか。
「さすが先輩、よく分かりました。そういうことなら、なおさら断る理由などありません」
メリッサは嬉しそうに目を輝かせると、ヒルダの顔をのぞき込んだ。
「ありがとう。でも貴重な呪文のお礼が、マンゴーシェイクだけじゃ釣り合わないわね。お返しに、私が手を加えた付与魔法、覚えてみない? ヒルダさん、付与魔法はあまり得意じゃないでしょう?」
うーん。
前回の戦いの時点で、私の事はすっかり調査済みか。
「付与魔法、ですか。まあ、今まであまり必要性を感じませんでしたから」
物質に一時的、あるいは永続的に魔法効果を付与する付与魔法は、一般に流布されることは極めて少なく、アカデミーでも生徒に伝授することは行われていない。
一般人が道具を介して魔法を使えるようになることで予想外のトラブルが増えるため、というのが建前だが、当然そこには、魔法というものを独占したままでいたい、という魔導士アカデミーの思惑も働いている。
そのため、いわゆる魔法の剣や思考伝達のためのマジックアイテムといったものは、王国軍の一部の特殊部隊くらいしかその保持を許されていないのが現状である。
また、付与した魔法はオリジナルに比してどうしても威力や効果などが劣ってしまうため、直接唱えた方が強くて速い、というヒルダのような考えの持ち主は、付与魔法に大して重要性を認めていなかった。
「でも、どうして私に付与魔法を」
「私たちが自分の身を守るだけならば、別段不要だけれど。信頼できる人たちには、『核撃』を付与した武具を持っていてもらってもいいんじゃないかしら。強敵には効かなくても、雑魚ちらしには使える」
雑魚、ときたか。
先輩は、異世界の戦闘態が多数で襲撃してくることを、想定しているのか。
そのような大規模な軍隊を隠蔽できる可能性は低いと思っていたが、もちろんゼロではない。
恐ろしいまでの未来予測と、危機管理だ。
なるほど、私もかりそめの平和に、少々なまっていたかな。
リョーコのためだもの、気合入れ直すか。
「先輩のご慧眼、恐れ入りました。付与魔法、是非教えてください」
「よかった。ヒルダさんなら、すぐにマスターできるはずよ」
窓から差す午後の陽光が、徐々に傾いてきた。
静かな教室に、二人の影が長く尾を引いていく。
「それではさっそく、先輩。ですが『核撃』は、変異遺伝子の自己崩壊を励起させる呪文です。私はともかく、暴発すれば、先輩の身体には崩壊の危険が及びます」
ヒルダの言葉が終わるや否や、メリッサの持っていたカップが小さな火花とともに爆ぜ、それは破片も残さずに消えた。
顔だけが笑っている彼女の目は、青に冷たく燃えている。
「呪文を暴発させる? この、メリッサ・フォティア・グリッチリボルバーが?」
ヒルダは立ち上がると、腰を折って非礼を詫びた。
彼女は、自分と五分に戦える魔導士なのだ。
「大変失礼いたしました。私、ヒルデガルト・フォーゲル・ストームゲイザーが、謹んで『核撃』をご指南させていただきます」
メリッサは満足そうにうなずいた。
「よしなに、嵐を見つめる者よ」
二人は顔を突き合わせると、放課後の教室で魔法の修得に没頭し始めた。