第六二話 キング・オブ・ペイン
断崖の狭い桟道を駆け上がっていたフリッツは、突然の熱風を背中に感じた。
振り返るまでもない。
姉の、最期の付与魔法の発動。
巻き起こる炎に背中を押されながら、フリッツは頭上に向かって一度だけ吠えた。
このままでは終わらせない。
やがて崖の頂上に出たフリッツは、狭い台地にひっそりと建っている、灌木に囲まれた塔の正門に出た。
通称「研究棟」、フリッツの世界のほぼすべてだったといってもいい場所。
そして門扉の前には、男女一組の王宮騎士の姿があった。
二人のそのいずれも、フリッツが慣れ親しんできた顔である。
そのうちの一人、短い金髪の精悍な青年騎士が、努めて陽気な調子でフリッツに声をかけてきた。
「フリッツ、心配したぜ。カタリナちゃんと一緒に、突然飛び出したりなんかしたからさ」
緊張した面持ちで隣に立っていた女騎士も、黒いセミロングの髪を後ろにはね上げると、笑顔を作って男に口添えをする。
「そうよ。心配事があったのなら、私に相談してくれればよかったのに。今までずっと、そうしてきたじゃない」
武術師範のクロッグと、教育係のアレサだった。
物心ついた時から、フリッツたち孤児を親身になって世話してくれていた二人。
だが皮肉なことに、共に過ごした時間の長さに比例して、フリッツの憎悪は跳ね上がっていた。
「……そう。今までずっと、あなたたちは僕らを監視してきた。そのほとんどが、実験に耐えられずに崩壊していく運命だと知りながら」
クロッグは隣のアレサを困ったようにちらっと見やってから、フリッツに笑顔を戻した。
「おいおい、待ってくれ。フリッツ、君は誤解している。君たち全員が、僕たちの希望だったんだ。たぶん、カタリナちゃんからいろいろ聞いているんだろう? 君たちが命をかけた実験の成果は、この世界を守るためにとても大切なものなんだよ」
そう話しながらフリッツの方へと一歩踏み出したクロッグに、フリッツは人差し指を突きつけた。
「まず、大前提として。二度と僕の姉の名を呼ぶな」
騎士たちの動作がぴたりと止まる。
白い拘束衣とは対照的に、フリッツの声は暗黒の呪詛として騎士たちの耳に届いた。
「この世界を守る? 本末転倒でしょう。あなた達のやっていることは、タコが生き延びるために自分の足を食っていることと変わらない」
クロッグは、自分の背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
従順な生徒だと思っていたこれまでのフリッツからは考えられない、冷徹で無慈悲な指摘。
「知っていますか? タコが自分の足を食べるのは、腹が減って仕方がないからじゃありません。強迫観念、ストレスから自分の足を食べずにはいられないんですよ。どうです? 異世界からの侵略におびえて自分たちの世界の人間を犠牲にする、今のあなた達の心境とそっくりでしょう?」
フリッツは、姉から託された銀色の長剣をゆっくりと抜いた。
「ここを通せば命だけは助けてやる、などと言うつもりはありません。あなたたち全員を殺して、実験のすべてを抹消してやる」
女教師のアレサは口に手を当てて、フリッツを呆然と見つめている。
その本物の驚愕すらも、彼には受け入れがたいものであった。
いかに彼らが、自分たちの行ってきたことに対して無邪気であったか。
そんな奴らに、僕は姉を奪われたのか。
アレサが、ようやく口を開いた。
「フリッツ君。ずっと寝食を共にしてきた私たちを殺すって、冗談よね?」
「白々しいですね、アレサ先生。僕たちの仲間を見殺しにしてきたあなたが、今更どの口で」
「見殺しだなんて、そんな……」
立ちすくむアレサを押しのけるように、クロッグが前に出た。
「何を言っても無駄なようだな。アレサ、フリッツを拘束する!」
フリッツが口の端を曲げて嘲笑する。
「拘束、ですか。そんな甘いことで、よくも人を殺すような実験ができたものだ。覚悟が足りていないんじゃないですか、先生」
フリッツの秀麗な横顔が、凄惨な色を帯びた。
クロッグは、腰から革の鞭を引き抜いた。
彼の手首がごくわずか動いたかに見えた刹那、フリッツの左頬は、鞭の鋭い先端で切り裂かれていた。
赤い血が、涙のように頬を伝う。
「悪いことは言わない、フリッツ。俺たちと、教導師様のところへ戻るんだ」
クロッグは鞭を引き寄せながら、じりじりと距離を詰める。
「君の戦闘パターンは、すべて知っている。十年以上も指導してきたんだからな」
フリッツが、さもおかしそうに笑った。
「甘く見ないでください。鞭なんかで、僕は殺せない」
フリッツは表情を消すと、「スプリッツェ」を正面から無造作に打ち込んだ。
クロッグはためらうことなく鞭を投げ捨てると、素早くショートソードを抜き放ち、フリッツの斬撃をがっしりと受け止める。
「やはり体重がない分、君の剣は軽い。短剣でも、充分受けきれ……」
「ご託は沢山だ」
フリッツは剣を交差させたまま、身体を左回りに回転させて、クロッグに背を向けた。
そのまま遠心力を乗せて、左手で渾身の裏拳を放つ。
「君が良く使うコンビネーションだな。そいつも、織り込み済みだ!」
クロッグは余裕をもって、左腕を顔の横に上げてガードした。
彼の手甲を直撃したフリッツの腕は、しかしそのまま不自然に折れ曲がりながら、なおも回転をやめない。
そして彼の長く伸びた鋭い爪はクロッグの後頭部を貫通すると、そのまま顔面へと飛び出した。
自分の方へとまき散らされる脳漿を、フリッツは軽く首をひねってかわす。
からん、とクロッグの短剣が煉瓦造りの地面に落ちる乾いた音が響く。
少し遅れて、金属鎧が地面にぶつかる耳障りな音がそれに続くと、それきり辺りは静かになった。
一部始終を見守るしかなかったアレサは、真っ青な顔で立ちすくむ。
「な、何が」
一人残され棒立ちになった彼女を、フリッツは冷ややかに見つめた。
「解説が必要ですか、先生?」
「今の、まさか。治癒魔法」
フリッツは左手を振って、付着したクロッグの肉片を払い落とした。
「その通りです。僕は姉と二人で、ずっとお互いの魔法について研究していたんですよ。治癒魔法を、いかに戦闘に応用するか。もちろん、先生たちには一度も見せたことはありませんがね。いわゆる、初見殺しってやつです」
「ガードされることを見越して、肘の関節を外し、裏拳が後頭部まで達するように腕を曲げた」
「それだけではありません。爪を骨化させ伸延し、刺突武器として使用しました。クロッグ先生も、鉄製のサレット兜くらいはかぶってくるべきでしたね」
アレサは、鞭に切り裂かれたフリッツの左頬の傷が、いつの間にか消えていることに気付いた。
彼は、自分の長所を研究し尽くしている。
十数年もの間ずっと、私たちに復讐する方法を考えていたのか。
「待って、フリッツ君。私、あなたと戦いたくない」
「抜かなきゃ死にますよ。せめて、戦わないと」
アレサは呼吸を乱しながら、腰からレイピアを抜いた。
喉に貼りつくような、恐怖と後悔。
フリッツは満足そうな微笑を浮かべた。
「先生、その意気です。これで僕も、遠慮なくやれる」
「お願い、フリッツ君。考え直して」
「考え直す? 僕の方が? まだ自分たちが正しいと思っているんですか」
フリッツは「スプリッツェ」を下段に構えると、そのままアレサの方へと跳躍した。
だが、さすがはアレサも王宮騎士である。
しかも座学を担当してはいるものの、その腕は騎士団中でも屈指であった。
彼女はステップしてフェイントをかけると、猛烈な突きを繰り出した。
アレサのレイピアの剣先は、正確にフリッツの右大腿部へと吸い込まれていく。
足を止めれば、あるいは。
もっとも、切断くらいはしないと止められそうにはないが。
「アレサ先生、クロッグ先生よりも攻撃が正確ですね。先生が武術師範でなかったのは、その性格ゆえというわけですか」
フリッツの声とともに感じた手ごたえは、硬質なそれ。
アレサのレイピアの刃は、その根元から折れて空中を舞い、地面に垂直に突き立った。
手元に残されたレイピアの柄を、彼女は信じられないという目で見つめる。
「な……」
「レイピアでは、骨を断つことはできません。僕との戦いでは実に相性の悪い武器ですよ、それ」
フリッツの裂けた拘束衣からは、白く骨化した大腿部がのぞいていた。
彼は大股に近づくと、アレサの身体を左腕で羽交い絞めにした。
治癒魔法で強化した筋肉群が、アレサの肺から空気を絞り出す。
「! フリッツ君!」
フリッツの美しい顔が、彼女に近づいてくる。
アレサは残った力を振り絞ると、彼の顔を引っかいた。
フリッツはそのまま、彼女の首筋に伸びた犬歯を突き立てる。
頸動脈から勢いよく噴き出した血潮が、フリッツの白い拘束衣をとめどなく赤く濡らした。
アレサの身体は数度痙攣すると、やがて動かなくなった。
フリッツは腕の力を抜いて彼女の身体を振り落とすと、赤く染まった口元を袖でぬぐう。
彼はかつての師だった二つの屍を振り返ることもなく、塔の扉をゆっくりと押し開けた。