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第六一話 誓い結ばるる時、修羅生まれ出づる

 ミルクを溶かしたような朝もやの流れ込む、暗い洞窟。

 洞窟といえば聞こえはいいが、それは崖の側面に開いたちょっとした横穴とでもいうような、ごくごく浅いものである。

 行き止まりの狭いその空間は、少年と少女が二人で入ってしまえば、それでもうどこにも身の置き場もなかった。


「これからどうするの、姉さん」


 白い拘束衣を着た黒い髪の少年は、白い息をはあっと吐いた。

 冷たい陶器のような透き通った肌も、今はほこりと泥にくすんでいる。


 姉さんと呼ばれた同じく黒い髪の少女は、汗で額に張り付いたその髪を鬱陶(うっとう)し気に払うと、目を閉じて息を整えた。

 隠しようのない疲労の影すら、彼女の横顔を弟に負けず劣らず美しくみせている。


 これから、か。

 私にはもう、これからなんてないけれど。

 弟にはそれがある。

 たとえそれが、死より残酷な道のりだとしても。


 彼女は迷いを振り切って目を開けると、隣に座っている弟を見た。

 彼の黒い髪もまた朝露と汗に濡れ、先端から光の雫を垂らしている。


「いい、フリッツ。あなたは一人で、ここから脱出しなさい。私が話した通り、あなたには治癒魔法と、この『スプリッツェ』がある」


 少女は、その細身の身体に帯びるには不釣り合いな、銀色の鞘に覆われたブロードソードを取り出した。


「そんなこと、できるわけないだろ。弱音を吐くな、カタリナ」


 フリッツと呼ばれた彼女の弟は、自分の姉をわざと呼び捨てた。

 彼女に対する彼なりの、最大限の鼓舞なのだろう。


 カタリナは、首を横に振った。


「断崖と無数の王国兵に囲まれて、しかも今の私の体では、逃げるのは無理。それにたとえ逃げきれたとしても、あまり大した意味はないわ」


 フリッツは歯ぎしりした。

 望んでもいないのに降りかかる理不尽と、自分たちの無力さに。


「僕、死なないんだろ? だったら、死ぬまで戦って、また生き返って。それを繰り返して、やつらを皆殺しに」


 瞳から凶暴な輝きを放つフリッツをなだめるように、カタリナは彼の頬にそっと触れた。


「馬鹿ね。私が心配しているのは、あなたが捕らえられて、再び実験台として扱われることよ。あなたの『不死』は不完全、だからそれを補完するためにさらに実験が繰り返されることになる。私たちみたいな犠牲者を増やしながら」


 わかってる。

 奴らが必要としているのは、姉さんではなく僕一人だ。

 だから僕だけが逃げきれたとしても、残された姉さんは、きっと処分される。


「……一緒に逃げなきゃ、だめだ」


 それを聞いたカタリナは、フリッツの拘束衣の胸倉をわざと乱暴につかんだ。

 時間がない。


「わからないの? 私がいたら足手まといだから、一人で逃げなさいって言ってるのよ。あなた一人なら、死ぬ気で逃げれば、逃げられる」


 あるいは、死と引き換えに、逃げられる。


 カタリナは一息に言うと、フリッツをどんと突き飛ばした。

 洞窟の壁に背中をぶつけながらも、フリッツは精いっぱいの抵抗を見せた。


「足手まといとか、そういう問題じゃないだろ。姉さんの付与魔法があれば、逃げるのも有利に」


 カタリナは、自分の白い拘束衣の裾をそっとまくってみせる。

 フリッツの目にさらされた彼女の足は紫色に腫れてふやけ、あり得ない方向に曲がっていた。


「目をそらさずに、しっかりと見なさい。私の両足はこのとおり、もう人としての形を保ってはいないわ。ここ半日くらいで、急激に崩壊が進んでいるの」


 フリッツは言葉を失った。

 弟の自分にすら眩しかった姉の健康的な足は、もうそこには無かった。


「そんな」


「所詮、私は失敗作だったからね。脱出を急いだのは、こういうわけなの」


 一度拒絶反応が発現すれば、その進行はあっという間だ。

 あと数時間持つか。

 数分か。


「お願い、フリッツ。私、あなたに自分が崩れていくところを見られたくない」


 フリッツにもわかっていた。

 毎日のように、彼らの周囲で崩壊していく友人たちを見てきたのだ。


 ばかな。

 姉、カタリナは、今もこんなに美しいのに。


 カタリナは寂しく笑うと、魔剣「スプリッツェ」をフリッツの胸に押し付けた。


「あなたの『不死』は、誰にも奪われてはならない。異世界転生者なんかに、悪用させるわけにはいかない」


 カタリナの吐く白い息はその笑顔とは裏腹に、怒りに震える赤竜のブレスのように熱かった。


「こんな地獄だけれど。それでも私はあなたが、あなたが生きるこの世界が、大好きよ。だから」


 カタリナは、はあっと最期のため息をついた。


「この世界を守って。そして、あなたを傷つけようとする侵略者たちを、消して」


 彼女は自分のそばにかがむようにフリッツに頼むと、彼の頬にキスをした。

 彼女の腕はもはや微動だにせず、彼を抱きしめることすらもかなわかった。






「いるぞ。あの崖のくぼみに、魔力の反応ありだ」


 王国軍の探索兵の声が、次第に近づいてくる。


「行きなさい、フリッツ。行って、あなたの務めを果たしなさい」


 フリッツはうつむいたまま黙ってうなずくと、立ち上がって彼女に背を向けた。

 彼は、二度と姉を振り返ることはなかった。

 彼女がそれを望んでいないことが、分かっていたから。


 洞窟の入り口にじりじりと近づいた兵士は、別の兵士に目配せをすると、入口のヘリからそっと内部をのぞき込む。

 その顔面の真ん中を、銀色の長剣が貫通した。


 音もなく倒れ伏した兵士を前蹴りで吹き飛ばすと、フリッツはわき目も振らず突進する。

 彼は自分が元居た研究棟へと続く、断崖の細いのぼり道へと疾駆した。


 ふもとの方角へ逃げると予想していた追手の王国兵は、一瞬虚を突かれたが、慌ててフリッツを囲もうと回り込む。

 フリッツは右手の「スプリッツェ」を大きく振りかぶると、前方の三人に横なぎにたたきつけた。


 剣と金属鎧がぶつかる反動で、フリッツの肘の靭帯が切れかかる。

 外側に折れ曲がりかけた自分の肘を、フリッツは無意識のうちに治癒魔法で硬化させた。

 腸腰筋を肥大させて腰の回転速度を倍加させると、彼はその長刀を左側へと振り切る。

 フリッツの前方をさえぎった三人の兵士たちは、驚くべきことにその金属製のブレスト・プレートごと、その胴体を上下に両断されていた。


 そのまま崖路を駆け上る彼を、戦意を失った兵士たちは呆然と見送るほかはなかった。

 彼らは青ざめさせた顔を見合わせると、フリッツが飛び出してきた洞窟を振り返る。


「くそっ。洞窟の、洞窟の中だ。姉を人質にすれば、奴もおとなしくなるだろう」


 剣を振りかざして虚勢を張る隊長に促され、恐る恐る洞窟に踏み込んだ兵卒は、奥の突き当りに浮かぶ白い影を認めてぎょっして立ち止まる。

 徐々に暗闇に目が慣れてくると、それは白い拘束着を着た黒髪の少女だとわかった。


「おい、お前。手を挙げて、ゆっくり出てこい」


 少女は、さもおかしそうに笑った。


「あら、ごめんなさい。私、出て行こうにも、もう歩けないんです。さらに手も挙げれないってんだから。本当、ご期待に沿えなくて申し訳ないわね」


 そう言ってまた、ころころと笑う。

 遺伝子実験の詳細など、もちろん知らされていないその兵士は、少女に馬鹿にされたように感じた。

 恐怖と怒りでパニックに陥っていた反動で、野卑な本性をあらわにする。


「出てこねえってんなら、力づくで引き出してやる。女ってのは、色々役に立つからなあ。てめえの弟の罪も、お前の身体でつぐなわせてやるぜ」


 突然、カタリナの黒い髪が逆立った。

 狭い洞窟が、濃密な魔力で満たされる。


「罪。私の弟に、罪があるというのか。良かろう。私の弟に罪を負わせたお前ら全員に、私が罰を与える」


 カタリナの圧力にがたがたと震え出した兵士の後ろから、他の兵士が集まってくる。


「おい、何やってる。たかが小娘一人に」


 カタリナは洞窟の壁にもたれたたまま、目だけを横に動かして兵士たちを睥睨(へいげい)した。


「お前らは馬鹿だな。外で待っているだけで、私は勝手に死体になっていたというのに。私の口は、まだ動くのだぞ」


「なん、だと」


「私が付与魔術師であることも知らされていないのか。お前らが私を辱め、(さいな)んだ象徴であるところのこの忌まわしい拘束衣が、お前らを焼き尽くす。皮肉なことだな」


「行け! ただのはったりだ」


「……ヴァッハ・アウフ・ホーレン・フレーメン!」


 カタリナの呪言と共に、彼女の拘束衣の表面に複雑な紋様が浮き上がる。

 彼女はすでに、自分の拘束衣に魔法を付与していた。


 フリッツ、さよなら。


 彼女の拘束衣から巻き起こった紅蓮の炎の嵐が、もはや動かす力を失った彼女の唇ごと、洞窟を満たした。

 そのまま外へと吐き出された巨大な烈火の柱は、ヒドラの首のように枝分かれし分散すると、逃げ惑う王国兵たちを追尾して一人残らず呑み込んでいく。


 終わりのない浄化に、朝焼けが冷たい輝きを添えた。


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