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第六十話 戻れない二人

 夕暮れの郊外のあぜ道を、リョーコとフリッツは連れ立って歩いていた。


 リョーコのいでたちは、袖を折ったグレーのジャケットに白いインナーシャツ、黒いスリムパンツ。

 足元は、仕事中の彼女には珍しく、細身の黒いパンプス。


 普段は歩きにくさを嫌って、カジュアルなシューズが多い彼女だけれど。

 二人で歩くのは久しぶりだから、軽いデート気分なのかな。

 背中の長刀「破瑠那」だけがあまりに浮いているのは、ご愛敬だが。


 自らはいつもの黒いショートコート姿のフリッツは、漠然とそんなことを考えた。


 冬はもうその峠を過ぎ、風に含まれる冷たさも、早足で歩く二人には幾分の心地よさすら感じさせる。


「フリッツ君。身体の方は、もう大丈夫なの?」


 ヒルダと悪魔ヴォラクの戦いから、二カ月。

 それを境に悪魔の活動はすっかり鳴りを潜め、子供を狙った連続殺人事件もぱったりと止んでいた。

 もっとも事情を知っているごく少数の人間は、これで異世界との軋轢(あつれき)が終焉したわけではもちろんなく、今が嵐の前の静けさであることを漠然とした不安とともに理解していた。


 フリッツは横目でリョーコを見ると、元気よく胸を叩いてみせた。


「ええ、この通りです。でも、ヒルダさんの治療であそこまで消耗するなんて、自分でも思いもしませんでした。治癒師として働くには、まだまだですね」


 確かに。

 剣を振るっての戦闘ではあれだけの耐久力を見せるフリッツ君が、二晩寝込むほどの消耗とは。


「私は魔法が使えないから、よくわからないんだけれど。あれって、かなり疲れるんでしょ?」


「そうですね。でも、ライフ・フォースを鍛えるってどうやるんですかね。今度、ヒルダさんに訊いてみようかな」


 リョーコは、以前ヒルダと魔法について雑談した時のことを思い出していた。


 彼女いわく。


 いわゆる魔力、ライフ・フォースの限界というものは、ある程度先天的に決定されている。

 鍛錬するとしたら、ライフ・フォースそれ自体を増大させるのではなく、限られたライフ・フォースを効率よく使うために行うのだと。

 それはつまり、呪文の詠唱時間の短縮化だとか、魔力を物理エネルギーに変換する際の効率化だとか。


 まあ、貯蔵量が増大することと消費が減少することは、結果的に大した違いはないのかもしれないが。

 しかしそれは、究極まで突き詰めれば、最後は才能が努力に勝ることを意味する。


 そう解説したヒルダの自信に満ちた表情を、さすが天才の言うことは一味違うものだと、リョーコは憧憬をもって見つめたものだ。


 そしてそうであれば、訓練されていないフリッツの治癒魔法の消耗が激しいことについては、まったく無理もなかった。

 治療で疲れ切った彼に膝枕をしたあの桟橋での記憶が、その時握った彼の手のぬくもりとともに、はっきりとリョーコの脳裏に思い出された。






「でも、悪いわね。パンの配達に付き合ってもらっちゃって」


「いいんですよ。今日は、かなり件数が多かったですからね。それにこういう時間って、最近あまりなかったような気がしますよ」


 それは。

 私が忙しいふりをして、君と二人になることを避けていたせいもある。

 リョーコは前を向いたまま、ついでのような軽い調子で言った。


「あのね、フリッツ君。ちょっと寄り道してもいいかな」


 彼女はあぜ道から脇へとそれると、森の中へ向かう小道へと彼をいざなった。

 

 フリッツはいぶかしく思った。

 いつもの帰り道と違うなと思ったら、どうやら最初から、リョーコさんは僕をここに連れてきたかったらしい。

 だけど、こんな小さな森の中に何があるのだろう。


 リョーコはそれ以上何も語らず、暗い森の間道を、迷うことなくずんずんと進み続けていく。

 やがて二人は、木々に囲まれた、やや開けた広場に出た。

 リョーコは広場の入り口であたりを見回していたが、やがてある一点、大きな木の根元の方へと歩いていく。


「そうそう、ここだわ。懐かしいわね」


 リョーコは木のそばにかがみこむと、一見何の変哲もない草地の上に手を当てて、じっと見つめ続けている。

 後を追ってきたフリッツが、怪訝な顔で尋ねた。


「懐かしいって、何がですか?」


 彼女の緑色の瞳は、この世界を映してはいなかった。

 リョーコはうつむいたまま、ぽつりぽつりと語りだす。


「……私ね。一年前に、この場所で倒れていたの。それを、たまたま通りがかったレイラさんとポリーナちゃんが見つけてくれてね」


 その声色に、フリッツはぎくりとした。

 何かを思いつめているような、わずかにこわばったリョーコの表情に気付いて、愕然とする。

 この先に踏み込んではいけない。

 自分の深奥から湧き出てくる警告とは裏腹に、彼はリョーコに問いたださずにはいられなかった。


「倒れていた? どうしてですか」


 リョーコは顔を上げると、寂しそうに笑った。


「どうしてだと思う?」


 フリッツは、リョーコがもう後戻りする気がないことを悟った。

 彼女は、ついに覚悟を決めた。


 それに引き換え僕の、なんと情けないことか。

 僕は一体、彼女とどうなりたかったのだろう。

 しかしそもそも、彼女の気持ちを知りながら見ないふりをしてきた自分に、それを選択する自由など与えられるはずもなかった。


「……リョーコさん、忘れることができないんでしたよね。倒れたその前の記憶って、もちろんあるんでしょう?」


「うん。でもそれは、この世界の記憶じゃない」


 リョーコはそれきり黙ると、フリッツの黒い瞳を見つめた。

 その言葉だけで、二人がお互いの立場を理解するには十分だった。


「リョーコさん。それ以上言い続けるつもりですか」


「なぜ?」


「それを聞いたら、僕はあなたを斬らなければならなくなる」


 リョーコは薄く笑ったまま目を閉じると、首を軽く横に振った。


「知り合ってもう半年になるんだから、私の性格、分かってるわよね。私、君に嘘はつけない」


「やめてください!」


 フリッツの絶叫に近い声に、リョーコの肩がびくっと震えた。

 黒い前髪にさえぎられて、彼の目線は追えない。


「もう、何も言わないでください。……自分で、確かめられますから」


 フリッツは、「スプリッツェ」を静かに抜いた。

 鈍く光る長剣を、眼前に水平に構える。

 一瞬ためらった後、フリッツは左のこぶしで刀身を強く殴打した。


「……ディテクト・フォーリン・ジェネ」


 フリッツの詠唱に反応して、複雑な紋様が刀身の表面に浮かび上がり、「スプリッツェ」はその全体が音叉のように細かく震え始めた。

 彼を中心とした周囲の空間が震え、波動が伝播していく。


 リョーコは息をのんで立ち尽くした。

 ブーンという耳鳴りのようなざわめきが、彼女の脳内に反響する。

 やがて唐突にすべてが終わり、二人の間に元の静寂が訪れた。


 リョーコはフリッツが、アップにした自分の髪を凝視していることに気付いた。

 彼女は恐る恐る髪をほどくと、長いそれを右手ですくいとる。

 それはいまやサーモンピンクではなく、まっさらな銀の流れへと変わっていた。






 フリッツは、「スプリッツェ」を鞘に収めることはなかった。


「この剣には、今見た魔法が付与されています。それが発動すると、この世界に本来は存在しないはずの遺伝子を持っている相手の体毛を、銀色に変えることができるんです」


 淡々と話し続けるフリッツ。

 話し終わることを極度に恐れているのに違いない、とリョーコは思った。


 そして、体毛を銀色にするあの魔法。

 それは、あの悪魔たちが「鈴」で異世界転生のポテンシャルを持つ子供たちを探していたのと、同じ手法ではないか。


「フリッツ君、遺伝子についての知識があるんだ。それって、七百年前から持っている君のオリジナルの記憶ね?」


「そうです。その知識がなければ、あなたたちとは戦えない」


 フリッツはリョーコを、よそ行きの言葉で呼んだ。

 銀色に変化した自分の長い髪をポニーテールにまとめて、リョーコはやれやれと首を振る。


「あななたち、か。じゃあ、これで完全にばれちゃったわね」


 彼女は両手をジャケットのポケットに無造作に突っ込むと、背後の大木に体を預けた。


「私が、異世界転生者だってこと」


 リョーコの口から異世界転生者という言葉が出た瞬間、フリッツの黒い瞳は、瞬時に暗く光る赤へとその色を変えた。

 唇を強く嚙みしめる、二本の犬歯。


「……もちろん、分かってはいたんだ。治癒師ですら持ち得ない、あの人体に関しての高度な知識。あれは、この世界のものなんかじゃないと」


 フリッツの声は、苦渋に満ちていた。


「でも僕は、それを認めるのが怖かった。なぜ、よりによってあなたが」


 それに、リョーコさん。

 どうしてあなたは、そんなに落ち着いていられるんだ。

 ポケットに手を入れたまま、「破瑠那」も抜かずに。


 アンデッドへと変貌したフリッツを、リョーコは悲しげに見つめた。


「ごめん、言えなくて。私も、怖かったんだ。君を失うことが」






「フリッツ君。君が異世界転生者を殺すのは、この世界を守りたいから?」


 意地悪な質問だとわかってはいるけれど、それは彼の口から、はっきりと聞いておかなければならない。

 果たしてリョーコの予想通り、フリッツはきっぱりと否定した。


「軽蔑してくれてかまいませんよ。僕が異世界転生者を殺して回っているのは、まったくの私怨なんですから。僕は実際のところ、この世界のことなんか、どうでもよかったんです」


 リョーコには、彼の悲鳴が聞こえるようだった。


「ヒルダが言ってた。君を七百年前に不死に改変したのは、異世界転生者がこちらの世界で独自に研究した遺伝子技術だって」


「……そんなことを。そうですか、彼女もまた異世界転生者なんですね」


 別段の驚きも感慨も、リョーコは彼の表情から見て取ることはできなかった。


「あまり意外そうじゃないわね」


 フリッツは虚ろな笑い声をたてた。


「『核撃』なんか使える時点で、そうじゃないかって。変性遺伝子を破壊しないと、悪魔を倒すことはできない。だったら、彼女は遺伝子について完全に理解していなければならない道理ですから」


 やはり。

 悪魔を倒せるようなものは、すべてこの世のものならざる存在だってことが、彼には分っていたんだ。


「でも私には、遺伝子についての知識なんてないわよ。私が悪魔を破壊できるのは、このもらい物の『破瑠那』のおかげだし」


「だとしても、あなたがその刀を持っていること自体が、異世界転生者とかかわりのある証拠に他ならない」


 あのグラム・ロックの男は、転生者ではなく転移者だ、っていってたけれど。

 そんなことをここで彼に指摘したところで、何の意味もない。


「ごめん、話を戻すけれど。君が異世界転生者を殺しているのは、自分を改変した彼らに復讐をしたいからなの?」


「復讐。そうなるのかな。僕にとっては、誓約ですかね」


 氷のように冷たい言葉を吐き出してくるフリッツが、リョーコには恐ろしく感じられた。

 つい先ほどまですぐ隣にいた彼が、今はあまりにも遠い。


「誓約。自分自身に誓約したの?」


 リョーコのその質問があまりに的外れに感じられたのだろう、フリッツは天を仰いだ。


「ばかな。僕は、誰よりも自分を信用していません。誓いを立てることができるような芯も核も、僕の中にはありません。何もない、空っぽなんです」


「じゃあ、誰に誓ってるっていうの」


 最後にその名を口にしたのは、いつのことだっただろう。

 何度も死に、そのたびに記憶を失ってきたフリッツには、確かなことなどわかるはずもなかった。

 しかし彼には、七百年前に最初に死んでからその後、ただの一度も、誰にも、その名を話したことはないという確信があった。

 古い記憶の中の、面影。


「……カタリナ。僕の、ただ一人の姉です」


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