第五一話 丸眼鏡とゴーグルと平手打ち
街道はすでに海辺を離れ、砂利道は徐々に幅の広さを増してきていた。
少しずつ王都が近づいてくる。
エリアスの口調は、今ではその落ち着きを幾分取り戻していた。
「リョーコさん、あなたの言いたいこともわかります。しかし、じゃあ一体どうしたらいいんです? 別に僕は、自分が救世主だなんて思っちゃいません。だけど、治癒師を一人残らず粛正するなんてことを、他の誰かにさせるわけにはいかない」
リョーコはただ肩をすくめただけだった。
「わからないわ」
何らかの対案なり反論なりを期待していたのであろう、エリアスは落胆の色をあらわにした。
「わからない、って」
リョーコはぶらぶらと空を見ながら、言葉を選ぶように言った。
「けれどね、エリオット君。こういう時は、誰かに相談すればいいと思うの。自分一人で考えていると、こう、がーっと視野が狭くなっちゃうじゃない。いろいろな人の目線で考える、ってのは大切なことだと思うけれど」
エリアスは歯がゆさを感じた。
理想論だ。
「何を悠長な、すでにこの世界は浸食されているんですよ? それに、異世界からの侵略なんて話をしても、この世界でいったいどれだけの人が信じ、理解できるか。誰かが方向性を決めてやらないと、何も進まない」
リョーコは、柔らかな視線で彼を見つめた。
「エリオット君、二十四だったわよね。私と同い年なのに、ちょっと生き急ぎ過ぎなんじゃない? 君は自分のしていることが正義だと信じて疑っていないんでしょうけれど、唯一絶対の正義なんて存在しない」
理想論の次は、一般論か。
不満げなエリアスを軽く片手で制しながら、リョーコは言葉を継いだ。
「だから、『正しい』選択ではなく、『より良い』選択を探していくべきなのよ。少なくとも君の考え方は、その過程が正しくない。過程が正しくないのに、結果が正しくなるとは私には思えないわ」
きっと、理屈っぽい女の子だなあって思われているんだろうな。
まあ、転生したくらいじゃ、可愛くなるなんて無理よね。
エリアスは唇をかんで黙っていたが、ふっとため息をついた。
やれやれと首を振る彼の口元には、いつもの微笑が戻っている。
「リョーコ。ほんの少しだが、見直したぜ。もしかしてお前、けっこう頭いいのか?」
「失礼ね。ドクターを何だと思ってるのよ、まったく」
反射的に答えて、リョーコはびくっとした。
彼の口調を変えてしまうほどに、怒らせてしまったのだろうか。
「忠告は受けておく。今のところ俺の方向性に変更はないが、少し考えてはみよう」
やばい。
王子をここまでやさぐれさせてしまうとは。
カレンさんに何と言い訳すればいいのか。
「ごめん、エリオット君。私ってほら、デリカシーってやつが欠落してるから。お願いだから、そんなに嫌わないで」
「どうやらお前の協力は得られないようだが、有意義な会話にはなった。二人きりになった甲斐はあったというものだな」
エリアスは丸眼鏡をゆっくりと外すと、軍用コートの内ポケットにしまう。
遠くを見る彼は、少し眩しそうに目を細めた。
うーん。
やっぱりエリオット君ってよくみると、格好いいんだよね。
ふわふわしているようで、たまに大人だーって思うことがある。
だけど、眼鏡を外したってことは。
言いたい放題の私と、殴り合いでもやろうというのか。
まさかキスするつもりなのでは、なんて可能性をこの期に及んで考えている私の頭の中は、もう救いようのないレベルまで腐ってしまっているに違いないが。
そんなとりとめもないリョーコの妄想は、エリオットがバックパックから取り出したものによって跡形もなく吹き飛ばされた。
エリオットはそれを慣れた手つきで装着すると、銀髪を後ろになでつける。
雲の隙間から差し込んできた西日が、スモークのかかったゴーグルを鈍く光らせた。
「……あ、あなた」
「自己紹介は済ませていたな」
「確か、ランディ、とか」
「元の世界での俺の名前だ」
ほんの少し前まで王子を演じていた男は、無愛想な表情でバックパックを担ぎ直すと、黙って歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あいつの髪は、確か真っ赤な」
「特殊な染料がある。一定時間で脱色する奴がな」
嘘でしょ。
俺、とか言っちゃって。
こいつ、口調だけじゃなくて性格まで変わってるんじゃない?
「信じられない。せめて、コスプレだって言ってよ」
「くだらないことを言うな。何なら、ここで手合わせしてやっても良いが」
ランディは皮肉な調子で笑うと、バックパックの中から黒光りする手甲をちらつかせて見せた。
本物かよ。
自宅警備員の彼から王族であることを種明かしされたのも、つい午前中の事なのに。
そこへ異世界転生者ときて、さらに。
「じゃあ、さっきの戦いは」
気色ばむリョーコに、ランディは悪びれずに答える。
「自作自演、とまではいかないが。俺の仲間の悪魔が君の友人を攻撃するのを、事前に止めることができなかった。二人とも、俺の計画には必要なんでな。いい頃合いだ、俺はボスを裏切ってここに来たというわけさ」
「……許せない。二度も素性を隠して。本当は王子ですなんてのはまだ笑えるけれど、今度はしゃれにならないわ」
「そう怒るな。それに、どれが本当の俺かなんて、俺自身もとっくにわからなくなっている有様でな。まあ、それぞれに役割があるとは思っているが」
柔らかな微笑を絶えずたたえていたエリアスとは真逆の、ランディの仏頂面。
しかしリョーコにしてみれば、心中穏やかでいられるはずもない。
「これが怒らずにいられるわけないでしょ。あんた、自分が何してるかわかってるの。悪魔に助力なんてして」
「それは、お前が現れた時点で終わりだ。もはや悪魔には利用価値はない」
「何を偉そうに!」
「お察しの通り、悪魔を創り出しているのは、人間の身体を突然変異させる遺伝子だ。だから、いつかフリッツを消滅させることができる遺伝子特性を持った悪魔が誕生するかもと考え、内部調査をしていた」
ランディは淡々と続ける。
「結局そいつは出現しなかった。だがそこへ、タイミングよくお前がやってきた。お前がフリッツを滅ぼしてくれれば、悪魔などに頼らずとも、ことは解決する」
違う。
問題はそこじゃない。
自分の身勝手さを、フリッツ君のせいにするな。
「そんな理屈、どうでもいい。何を言っても、あなたが子供たちを殺すことに協力していた事実は消えない。そこのところどう思ってるの、答えて!」
ランディは、無表情のままだ。
リョーコは確信した。
彼がゴーグルで顔を隠している目的は、その正体ではなく、感情を隠すためだ。
ランディの声色もまた、変わることはなかった。
「それは本当にそうだ。お前にとっては、つまらない理屈をこねて、子供や治癒師を殺すことを正当化しやがってという事なのだろう。言ってくれてもいいんだぜ、お前は最低のクズだってな」
リョーコの右手が、抜く手も見せずにランディの左ほおを張った。
ずれ上がったゴーグルの下から、とび色の瞳が驚きの色を帯びる。
「自分を憐れむのもたいがいにしなさいよ。最低なんて言葉、私は自分に数えきれないくらい言ってきたわ。それこそ、元の世界にいた時からずっと」
当直室の硬いベッドの上で、膝を抱えてうずくまっていた、かつての自分。
「だけどね。弱くてもいいじゃないか、って言ってくれた人がいるの。許せなかった自分を、許してくれた人がいるの」
雲が赤く焼け落ちていく、黄昏の空の下で。
魔法灯の夜景がガラス越しににじむ、レストランの窓辺で。
例え、「忘れられない」能力なんてなくったって。
私は彼が言ってくれた言葉を、決して忘れたりしない。
「だから、エリオット君。いいえ、ランディ。最低なんて言葉で、自分をごまかさないで。もう悪魔たちには協力しないって、約束して」
ランディはしばらく黙っていたが、ややあってゴーグルを元の位置に戻すと、銀髪を後ろに撫でつけた。
「ふん、フリッツか。まったく、きざな野郎だ。そんな言葉にたやすくころっとまいっちまうとは、お前さん、恋愛経験が不足しているんじゃないのか?」
「余計なお世話よ!」
そんな軽口をたたくランディの口元からは、先ほどまでの皮肉な微笑は消えていた。
「分かった。子供たちに手を出そうとする悪魔には、今後一切加担はしない。約束しよう」
彼には彼なりの矜持があるはず。
私の事なんてどうでもいいから。
自分に、誓え。
「いいわ、信じてあげる」
「だが、治癒魔法を根絶するべきだという俺の考えは変わらん。止めたいのなら、俺を論破してみることだ。誰かに相談して決めろ、とお前がいうのであればな」
「ふん。じゃあ、そのうち改めてディスカッションしましょ。私、戦闘でも議論でもあなたには負けないから」
ランディはゴーグルを外すとバックパックにしまい込み、代わりに例の丸眼鏡をかける。
いつものエリアスの笑顔がそこにはあった。
「それじゃあ、みんなのところに帰るとしましょうか。もうじき日も暮れます、レイラ殿とカレンが何か暖かいものでも用意してくれているといいんですが」
ぽややんとした顔で帰路を促す。
もうここまでくると、二重人格、あるいは三重人格と言ってもいいのではないか。
「……エリオット君。君、疲れない?」
「ははは、ご心配なく。ところでリョーコさん。僕の変わり身のことは、あなたと、さきほど僕が一緒にいた悪魔アバドンしか知りません。どうかくれぐれも、ご内密に」
また、フリッツ君に隠し事か。
しかし、エリオット君が私に正体を明かしたのはチャンスでもある。
彼がフリッツ君と衝突する前に、私が止めればいいんだから。
それにしても。
「誰にも言ってないって、それはちょっとどうかと思うけれど。せめて、カレンさんには言っておいた方がいいんじゃない?」
ほんの老婆心のつもりで言ったリョーコの言葉に不意打ちを食らったように、エリアスの足が一瞬止まった。
「何言ってるんですか」
彼がわずかに寂しそうな顔をしたように、リョーコには見えた。
「彼女にこそ、一番知られたくない」
だまされるな、私。
こいつは、決していい奴なんかじゃないんだから。