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第五話 弱虫で泣き虫な黄昏

「あー。買い出し、遅くなっちゃったなあ」


 秋の夕暮れは早い。

 黄昏れていく街路を、少し冷たい風が吹きぬけていく。


 こういうの、確か、つるべ落としっていうんだっけ。

 秋の日がたちまち暮れてしまうことを、井戸水を汲むためのつるべ桶が早く落ちるさまに例えたものだとか。


 でもつるべ落としには、もう一つの意味もある。

 大木から落ちてくる、妖怪。

 諸説あるが、生首やつるべ桶、あるいは怪火などが木の上から落ちてきて、人間を襲うという。


 私、妙なことまで覚えてるなあ。

 どうにかして、忘れることはできないものかねえ。


 リョーコは苦笑しながら頭を一つ振ると、食材の入った紙袋を抱えてレンガ道を小走りに急いだ。


 リン。

 リリン。


 リョーコはぎくりとして立ち止まった。

 いつか聞いたものと同じその鈴の音は、前方で枝分かれした暗い裏道の方から響いてくる。


 きっといる。

 あの、悪魔が。


 リョーコは、じりじりと後ずさった。

 

 私、何の関係もないじゃない。

 人の生き死になんて、もうたくさん。


 その時、鈴の音が聞こえてきた裏道から、足音もなく出てきた人影があった。

 紫のローブを頭まですっぽりかぶっており、その表情はまったくうかがい知ることができない。

 しかしその全身から放射されているのは、まごうことなき瘴気。


 その人影はリョーコの方へ近づいてくると、特段何をするでもなく、彼女の横をただすっと通り過ぎた。

 その瞬間、フードの端から見えた口元が笑ったのを、彼女は確かに見た。

 人間の口と、山羊の口で。

 そしてそれは表通りに出ると、雑踏に紛れてあっという間に姿を消した。

 

 リョーコは、ただ立ちすくんでいた。

 そして、影が出てきた暗い裏道を凝視していた。

 あそこに子供がいる。

 賭けてもいい。


 行かなきゃ。


 しかし自分の意思に反して、リョーコは動けなかった。


 どうして、足がすくんでるの。

 私、ドクターじゃない。

 目の前に、死にそうな子がいるのよ。


 私、何やってるのよ。






 どのくらい、そうしていただろう。

 リョーコには、(またた)きする瞬間にも、永遠の長さにも思えた。

 その時、後ろから駆けてくる足音が聞こえ、リョーコは現実に引き戻された。


「お姉さん! この辺で、鈴の音を聞きませんでしたか?」


 澄んだ、まっすぐな声。

 今の私とはまるで正反対の。


 やだ。

 こんなところ、見られたくない。


 リョーコの願いもむなしく、駆けつけてきたのは果たして、あの吸血鬼の美少年だった。

 少年は、正面からリョーコの両肩を優しく抱いた。


「大丈夫ですか? 悪魔に、会いましたか?」


「……鈴の音が聞こえて、会った。そして、もう行ってしまった」


 少年はリョーコの目をのぞき込んだ。

 彼女の目は、暗い淵に沈んでいる。


「私、何もできなかった」


 その声のかぼそさに、少年は一瞬言葉に詰まった。


「まだ、できることがあるかもしれません。お姉さんは、ここにいてください」


 少年はリョーコをそっと座らせると、裏道の中へと踏み込んでいく。

 そしてすぐに、一人の男の子を抱えて出てきた。


 リョーコの視線は、なぜかその子の髪に吸い寄せられていた。

 それは予想していた銀色ではなく、金髪だった。


 少年は男の子を横たえると、赤く染まっている上着を脱がせた。

 胸の左側に、深い刺し傷。


 リョーコには分かる。

 心臓を、一突きされている。


 彼女はいてもたってもいられず、男の子ににじり寄ると、首筋と右手首に指をあてた。

 脈は、すでになかった。

 そのリョーコの所作を、少年はそばに立ったまま、いぶかしげに見つめていた。






 二人の背後で、中年の女性の悲鳴が上がった。


「サミー!」


 その女性は、もはや動くことない子供に駆け寄ると、泣きながら抱き上げる。


「ちょっといなくなったと思ったら、こんなことに…… 返事をしてちょうだい、サミー」


 女性はぐちゃぐちゃになった顔で、男の子をゆすり続けている。

 少年は、ためらいがちに彼女に声をかけた。


「彼の、お母さんですか?」


 救いを求めて周囲を見回していた女性は、少年の方を振り向いた。

 放心状態のまま、壊れた人形のように頭を縦に振る。


「あなたがサミーを見つけてくれたの?」


 少年はうなずいた。


「あの裏道で、何者かに襲われたんだと思います。僕が駆け付けた時にはすでに……残念です」


 そしてかたわらにしゃがみこむと、男の子の胸に手を当てた。


「僕、治癒師なんです。せめて、この傷だけでも治させてください」


 男の子の左胸の小さな、しかし深いその傷跡が、ぼんやりと薄く光ったように、リョーコには見えた。

 そして一瞬後には、無残な刺し傷は周囲の皮膚に溶け込んで、跡形もなくなっていた。


 彼、治癒師だったんだ。

 噂には聞いたことがあったけれど。

 王国中を探しても、一年に数人しか現れないという、治癒魔法の使い手。


 女性は驚きと喜びに飛び上がると、少年にすがりついた。


「あなた、治癒師なの? じゃあ、サミーの命を助けてやってちょうだい。蘇生の呪文だとか何とか、あるんでしょ? 早く!」


 少年は、唇を強く咬んでうつむいた。

 母親の表情が不安から、やがて絶望と怒りに変わる。


「どうしたっていうのよ、治癒師なんでしょ? 傷を治すだけしか能がないの? 何よ、この役立たず!」


 それを聞いたリョーコは、胸がずしんと重くなるのを感じた。


 彼じゃ、ないんです。

 役立たずは、私。


 少年は眠ったように安らかな少年の顔から、視線をそらさずに言った。


「……一度死んだ者は、治癒魔法でも生き返らせることはできません。僕は、間に合いませんでした」


 女性は呆然とすると、二度、三度と少年の胸を叩く。

 少年はただ、彼女のなすがままに任せていた。






 後方から、どやどやと声が聞こえてきた。

 騒ぎを聞きつけた、この街の自警団の団員たちだった。

 母親は彼らに手を引かれて、よろめきながら現場を離れていく。


 団員の一人が男の子の身体を手早く検分すると、少年に話しかけた。


「君が、第一発見者?」


「そうです。傷は左胸にありました。深い刺し傷でした。傷跡が見当たらないのは、僕が治したからです」


 少年の言葉に団員は、意外なことを聞いたというように眉を上げた。

 打って変った丁寧な口調で、少年に質問する。


「治した。あなた、治癒師殿でしたか。失礼ですが、お名前は?」


「……フリッツと言います。あの、住所はありません」


 メモを取っていた団員が、驚いたように顔を上げた。


「治癒師殿は、路上生活者なのですか。確かにこの下町には多いですが、それにしたって。まさか、あなたのような方が」


「仕事上、この方が都合がよいのです。それより犯人の方ですが、例の」


 団員は小さくうなずいた。


「ええ。最近話題になっていますから、ご存じかもしれませんがね。ここひと月で、もう三人の犠牲者が出ています。それも、すべて十歳未満の少年少女たちです。同一人物、変質者のしわざだと我々はにらんでいますが」


「変質者、僕も同意見です。不幸なことに、僕が駆け付けた時には、犯人は逃げ去った後でした。お役に立てず、申し訳ありません」


 少年は、リョーコだけにわかる嘘を、団員についた。


「とんでもない、大変参考になりました。治癒師殿、ご協力感謝致します。なにか気付いたことがあれば、自警団の詰め所までお知らせいただければ幸いです。それでは」


 団員はちょっと会釈をすると、野次馬を整理するために歩み去って行った。






 少年はしばらく黙って立っていたが、やがてコートについたほこりを払うと、リョーコに背を向けて立ち去ろうとした。


「待って! あの……フリッツ君って言ったわよね?」


 自警団員にフリッツと名乗った美少年は、足を止めた。


「どうして、あの女の人に言い返さなかったの?」


 リョーコは、少年に呼びかけ続けた。

 誰かを責める資格なんて、今の私には、あるはずもないのに。

 何か言わなければ、情けない今の自分がバラバラになりそうだった。


「あの子の傷を治してあげたのも、せめてきれいな体でお母さんに返してあげたかったからなんでしょ? それなのに、あそこまでひどいこと言われて。感謝されこそすれ、責められる筋合いなんてないじゃない!」


 少年はうつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。


「僕は、あの子を助けられなかった」


「でもあの子が死んだのは、あなたのせいじゃないわ。あの悪魔が……」


 リョーコの言葉を、振り返ったフリッツが強くさえぎった。

 その瞳は暗く閉ざされ、何も映さない。


「頑張ったとか、最善を尽くしたとか、そんなの何の意味もありません。結果が、現実が、すべてなんです。僕は果たすべき誓いを、いつも裏切り続けている……」






 違うよ。

 そんなことない。

 君は、自分にできることをしようとした。


 それなのに、私は。


 リョーコの頬を、涙が伝った。


 私、最低だ。

 無様で、卑怯だ。

 みじめだ。






 フリッツは顔を上げると、静かに泣いているリョーコに気付いた。


 そうか。

 彼女もきっと、僕と同じで。

 自分自身に、押しつぶされようとしているのか。


 フリッツはリョーコに歩み寄ると、細い指で彼女の涙を優しくぬぐった。


「ほら、お姉さん。目、赤くなってますよ。あなたは、僕みたいな吸血鬼なんかじゃないんだから」


 そして再び踵を返すと、今度こそ街路の向こうに去っていく。

 その背中が、たまらなく寂しそうで。


「私、リョーコっていうの」


 彼に聞こえていなくても、構わなかった。


 黄昏が、二人を赤く染めていく。

 それぞれの悲しみを、焼き尽くすように。


「またパンを買いに来てね、フリッツ君。私のお勧めは、クロワッサンだから。きっとよ」


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