第四六話 これはただの応召義務
燃えるような赤い髪に、顔を大きく覆うゴーグル。
黒いボディスーツの拳闘士は、リョーコたちをレンズ越しに静かに見据えていた。
しかし、前回戦った時に見せていたような嘲笑は、今はその口元からは消えている。
リョーコとフリッツは、それぞれの武器を抜いた。
長刀「破瑠那」が、昼なお薄く輝く青い微粒子を、その刀身から散らせる。
女騎士カレンも、腰に吊った小型円形盾バックラーを左手にかまえて、戦闘態勢をとった。
あれが、悪魔と行動を共にしているという人間の格闘家か。
確かに、その所作の一つ一つに隙がない。
だが、悪魔ではなく人間ならば、私にも勝機はある。
それにしても。
今までの報告になかった、隣のフルアーマーの巨漢は一体何者なのだろう。
短い二本の角が存在することから、悪魔の一柱なのではあろうが。
にもかかわらずその風格が、われら王宮騎士に勝るとも劣らぬものに感じられるのは何故なのか。
カレンは頭を軽く振った。
ばかな。
子供までもその手にかけるという悪魔に、何の誇りがあろうか。
こんな奴に気圧されるなんて、エリアス様に笑われちゃうわ。
短い沈黙を先に破ったのは、ゴーグルの男の方だった。
「言いたいことはあるだろうが、ここは黙って俺たちについてきてもらいたい。この先で起きている戦いは、ここにいる誰の利益にもならない」
機先を制しようと手ぐすねを引いていたリョーコは、出鼻をくじかれた格好となった。
有無を言わせない素早い指示。
この男は、命令することに慣れている。
そしてこの場合、その指示は恐らく的確なものだという予感があった。
でも、理由もなく従えるはずもない。
リョーコは長刀を正眼に構えた。
「現れたわね。このふ頭に悪魔が現れるって情報、間違ってなかったみたい」
男は小さく舌打ちした。
「残念ながら、そいつは俺たちの事じゃない。だが、それを説明している時間もない」
リョーコは、ゴーグルの男の声にわずかないらだちが含まれていることに内心驚いた。
ひょっとしてこいつ、焦ってる?
そんな余裕のない奴じゃなさそうだったけれど。
リョーコの隣から、フリッツが前へ進み出た。
「僕は、悪魔に貸すべき耳など持たない。お前達とは、今すぐ決着を」
フリッツの言葉を男は遮った。
今度は、明らかに怒気を含んでいる。
「耳を貸せなどとは言ってない。従えと言っているんだ、フリッツ。さっきの爆発音をお前も聞いたことがあるだろう? あれは『核撃』、お前らの友人のヒルダとかいう女のオリジナル・スペルだ」
フリッツには、確かに聞き覚えがあった。
前回の戦いで耳にしたものと同じ爆裂音。
悪魔アドラメレクの腹部を吹き飛ばした、ヒルダさんの近接魔法。
だしぬけにヒルダの名前が男の口から出たことに、リョーコは動揺した。
どうして、ヒルダがここにいるの。
なぜ、悪魔がヒルダを狙うの。
「あなたのいう事が本当なら、ヒルダはあなた達とは別の悪魔と戦っているってことよね? やっぱり、あなたたちがヒルダを罠にはめたんじゃない!」
「できれば止めたかったといっても、お前はどうせ信じないだろう。出遅れたのは、確かに俺のミスだが」
淡々と話す男の口調が、かえってリョーコにそれが真実であることを感じさせた。
だが、ヒルダが今危機にあることには変わりがない。
「何、他人事みたいに言ってんのよ!」
「他人事などではない。お前の友人が戦っている俺たちの仲間は、凄腕の魔導士でもある。魔導士同士が正面から戦うのだ、恐らく二人ともただではすむまい。だが、お前とフリッツなら。医師と治癒師なら」
男は、ゴーグルの位置を右手で直した。
「傷ついたお前の大切な友人を、救えるかもしれない」
リョーコはぎょっとした。
この男は、確かに「医師」と言った。
私がドクターだって知っている。
こいつも私と同じ、異世界転生者なのか。
それがなぜ、悪魔に手を貸したりしているのか。
更に加えて、ヒルダを救えなどと。
何がしたいのか、さっぱりわからない。
「どうしてあなたがヒルダの心配をするのよ。筋が通っていないじゃない」
男は険しい表情でフリッツをちらりと見た。
「俺の敵はフリッツ、貴様だけだ。だが、今は貴様と戦っている場合ではない。それに」
一呼吸おいて、男は続けた。
「俺も、仲間は放ってはおけない。悪魔だからという理由だけで許せないというのなら、もう俺には何も言うことはないが。そこのところはどうなんだ、リョーコ?」
わかってる。
悪魔を殺すために戦っているのに、恐らく深手を負っているであろう悪魔を見逃すなんて。
そんなの、ただの感傷に過ぎない。
だけど。
私に斬られたバフォメットも、フリッツ君に斬られたアドラメレクも、きっとそれぞれの思いはあったのだろう。
絶対的な正義なんてどこにもない。
そこにはただ、お互いに譲れないものがあるだけだ。
私は、子供たちを殺すことは間違っているという私の意志を、悪魔に伝えたい。
それを伝えずに、ただ悪魔を消滅させたって意味がない。
なにより私は、存在自体を憎むのではなく、行為そのものだけを憎む自分でありたい。
「……私の名前、気安く呼ばないでよね。しかも呼び捨てで。フリッツ君でさえ、さん付けなんだから」
ゴーグルの男は、その言葉を了解の意だと受け取ったようであった。
フリッツは唇を噛んだまま、リョーコを見つめている。
彼女は心の中でフリッツに謝った。
もちろん彼は、この成り行きに納得していないのだろう。
それはそうだ。
何度も悪魔を殺し、自らも幾度となく殺されながら、何百年と戦い続けてきたのだから。
リョーコへの絶対的な信頼がなければ、果たして自制心を保てたかどうか。
ゴーグルの男は背を向けると、短くリョーコに言った。
「ランディだ」
「え」
「俺の名前だ。もういいだろう、急ぐぞ」
何よ。
そんないきなりな自己紹介で懐柔されるような、安い女じゃないわよ。
「勘違いしないで。あなたを信じたわけじゃないわ、ヒルダの事が心配なだけ」
「分かっている」
かえってツンデレみたいになってしまった、と頭を抱えるリョーコを残して、ランディと従者の悪魔は前方へと駆け出した。
残された三人は、彼らの後を慌てて追いかけ始める。
ふ頭の桟橋は所々が黒く炭化しており、周囲に散在した木製のコンテナも多くは外板を破壊されて、中の荷が周囲に散乱していた。
そこで発生した爆発の威力がうかがい知れる。
そして路上には、重なり合うように倒れている二つの人影。
リョーコは遠目にも、仰向けに倒れている黒い短髪の女性がヒルダであると確信した。
私を想ってくれている人だ、間違えようがない。
そのそばにうつぶせに倒れているもう一人、栗色だがこれも短髪の女性。
背中に白い羽が生えている、あれは悪魔?
むしろ天使って感じだけれど。
確か悪魔って、天使が堕ちた者だったっけ。
先行していたゴーグルの男ランディは更に速度を増して駆け寄ると、悪魔ヴォラクを抱き起こした。
水色のワンピースは無残にも焼け焦げており、彼女の白い肌を大きくさらしている。
吹き飛ばされた左の上腕はほとんど残っておらず、その創縁はぐずぐずと泡立っていた。
「ヴォラク。お前、また左腕を」
確かヴォラクは、いつも自嘲気味に話す「元カレ」とやらにも、一度左腕を斬り落とされたと言っていた。
ランディには、目を閉じているヴォラクの上を向いた細い顎が、今にも折れそうなひどく頼りないものに見えた。
その一方で、ヒルダのそばにしゃがみこんだリョーコは、彼女の受けた傷の深刻さに眉をひそめていた。
右の首筋の皮膚が大きく裂けており、そこからじわじわと沸き上がってくる赤い流れが彼女の鎖骨部を伝い落ちて、そばの地面に小さな血だまりを作っている。
「ヒルダ、私よ。リョーコよ。わかる?」
呼びかけにも返事はない。
ヒルダの顔には苦痛の表情はなく、まるで眠っているように見える。
左手の甲を軽くつねると、ヒルダがわずかに眉をしかめたようにリョーコには思えた。
辛うじて、意識はある。
「フリッツ君、やるわよ。自発呼吸は何とかあるけれど、首周りの筋と神経がごっそり削られてる。意識レベルは落ちているけれど、念のため『鎮痛』からお願い」
私、専門が整形外科だから、耳鼻咽喉科のドクターみたいに頸部の構造に詳しいわけじゃないけれど。
今まであれほど忌まわしかった「忘れることができない」能力が、医学生時代に学んだ解剖学の知識を鮮明に思い出させてくれる。
人生、何が幸いするか分からないわね。
隣からランディの声が聞こえてくる。
「アバドン。ヴォラクの傷、どうだ」
かがんで女悪魔の傷を調べていた巨漢の悪魔の返答は、幾分かの意外さを含んでいた。
「やはり『核撃』でやられています。ですが、ランディ様。妙なことに、細胞の崩壊が創縁で停止しています」
「どういう事だ?」
「あのヒルダという魔導士、左腕のみの破壊にとどめたのかと」
手加減、したというのか。
ヒルダという女にとって、ヴォラクは先輩だという話だったが。
愚かな。
手心を加えるくらいならば、最初から戦わなければいいではないか。
戦う事自体に意味があるなどと言うセンチメンタリズムは、この弱肉強食の異世界戦争においては何の役にも立たない。
そこまで考えてランディは、首筋をえぐり取られたヒルダの息がまだあることに思い至った。
まさか、ヴォラクも。
俺は、あきれているのか。
それともまさか、嬉しいと思っているのか。
こういうところが、俺のだめな部分だ。
アバドンの声が、ランディの思考を現実に引き戻した。
「しかしこれからどうなるかは、予断を許しません。万が一細胞の崩壊が中枢に進み、心臓か脳に回れば手遅れです。そうなる前に、傷の周囲は切除しなくてはなりません」
ゴーグルの男は戦闘時と同様、やはり即断即決だった。
「分かった。俺がやる」
ランディは手甲の裏から短いナイフを取り出すと、それを逆手に持ち替えて、小さく唇をかむ。
ヴォラクの左肩にナイフを突き立てようと振り上げた彼の手を、誰かが隣からつかんだ。
リョーコだった。
「フリッツ君。彼女に『鎮痛』、お願い」
ヒルダに「浄化」をかけようとしていたフリッツが、驚いた顔で振り返った。
「でも、リョーコさん」
リョーコはランディから離れると、下を向いてヒルダの傷の観察を再開しながら、淡々と言った。
「悪魔だって、痛いのは嫌でしょ。それに痛みが無くなれば、このお兄さんも処置がやりやすくなるでしょうし」
ランディはナイフを持ったまま、黙って立ち尽くしている。
あるいは彼は、その表情を隠してくれるゴーグルに感謝しているのかもしれなかった。
フリッツは小さなため息をついた。
「……わかりました」
医師法第十九条第一項、応召義務。
「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」
私じゃなくても、医師ならだれもが忘れられない条項。
この場合、別に求められてもいないし、私にだって正当な事由がないわけでもないけれど。
ごめんね、フリッツ君。
私、やっぱりドクターなんだもの。