第四五話 雲の向こう
ヒルダは額の傷を袖で拭うと、ヴォラクに一瞥をくれることもなく、すぐそばにあるコンテナとコンテナの隙間に飛び込んだ。
甘かった。
あんな連射を全て防御するなんて、できっこない。
どうする。
ヒルダは額の出血が止まっていることを確認すると、小声で呪文を紡いだ。
「君、異影を撒きて凝結の塊をなせ」
ヒルダの眼前に、鏡にでも映したように、彼女と全く同じ像が二つ現れる。
ヒルダはそれぞれの自分と手のひらを合わせると、にっこりと笑った。
アバター、分身の呪文。
それに、もう一つ。
「君、虚なる声もて現を凝らせ」
こちらは、一見周囲に何の変化も現れない。
さて、うまくいくか。
後は、飛び出すタイミングだが。
ヒルダがコンテナの陰からちらりと顔を出した瞬間。
「其、条硬鋭拝針!」
ヒルダの頭上でコンテナが砕け、木片が飛び散った。
破片から目を守りながら、彼女は慌てて首を引っ込める。
ヴォラクが放ったニードル・バレットの呪文もまた。規格外のスピードだ。
熟練のアーチャーが矢をつがえて射るよりも、数段素早いのではないか。
こつこつと足音が近づいてくる。
ヴォラクののんびりとした声が、周囲のコンテナに反響してヒルダの耳に届いた。
「ごめんなさいね、一対一なんて条件つけちゃって。私たち魔導士って本来、チームでしか戦わないからね。あなたの一撃って重いから、集団戦では本当に脅威だと思うわ」
それは逆説的に、個々人の戦いでは決して負けないとの宣言でもある。
「それにしても、楽しいわね。私も異世界転生者とは数えきれないくらい戦ってきたけれど、魔導士相手は初めてだから。もしかして、あなたって魔導士を狙って転生してきたの?」
ヴォラクが呼び掛けたコンテナの陰から、ヒルダの声がはっきりと聞こえた。
「まさか。私が魔導士に転生したのは、本当に偶然です。転生相手を指定することは、私の知っている限り不可能なはず」
その偶然には、かつてのヒルダ自身が一番驚いていた。
元の世界で学んだ遺伝子工学の知識を、まさか自分自身が魔法として利用することができようとは。
「もし私が魔導士でなかったならば、誰か他の魔導士の協力者に、私の異世界の知識を伝えるつもりでした。あなたたち悪魔を倒すために」
もう私は、元の世界のために働くことは放棄したけれど。
だからといって、悪魔を許すつもりもない。
ヴォラクはぴたりと立ち止まると、すらりとした右腕を前に伸ばした。
ヒルダが隠れているであろうコンテナの影から、ひと時も目を離すことなく。
「そうだったの。我々悪魔にとって、あなたが魔導士だということは何と不運なことでしょうね。なおさらあなたは、生かしてはおけないわ」
足音と声が途切れた。
呪文がくる。
狙い撃ちされる前に。
コンテナの陰からヒルダが飛び出した。
それも、同時に二人。
そしてまったく同じ動作で呪文を唱え始める。
「君、核を解きて螺旋の理を……」
前方の二人が、同じ声でハーモニーを奏でる。
ヴォラクは、二人のヒルダが現れたことにも、全く動じる様子はなかった。
分身なんて、使い古された手だわ。
彼女は聴覚に神経を集中して、ヒルダが紡いでいる呪文を頭の中で咀嚼する。
「へえ、それが『核撃』か。アドレメレクさんは密着して撃ち込まれたみたいだけれど、その距離でも撃てるように改良したんだね。先ほどはごめんなさい、あなたも努力してたんだ」
考えられ得る幾通りもの戦闘パターンを、頭の中で数瞬で組み立てて比較したヴォラクは、自分の勝利を確信した。
どちらのあなたが本物だろうと、私には問題ない。
しかも攻撃魔法を唱えている今のあなたは、私の呪文を防御することができない。
加えてその「核撃」、詠唱時間が長い。
その場でくるりとターンする間に、ヴォラクはすでに呪文を唱え終えていた。
「其、鳴雲光誅雷!」
「其、鳴雲光誅雷!」
悪魔から放たれた二条の電撃が、二人のヒルダのそれぞれの胸を正確に貫く。
終わりかけていた呪文の詠唱がぴたりと止まり、一瞬遅れて二つの炎が立ち上った。
「分身の魔法で迷わせる。発想としては、決して悪くはなかったけどね。悪かったとしたら、ヒルダさんと私との相性かしら」
右腕を下ろして踏み出しかけたヴォラクの足が、ぴたりと止まった。
地に伏してもなお前方で燃え続けている二つの物体から、再び詠唱が聞こえてきたからだ。
「君、核を解きて」
ばかな。
何が起きている。
燃えているということは、私のライトニング・ボルトの直撃は受けているはず。
まさか、不死の魔法?
ありえない。
第一、呪文の行使には詠唱と動作の両方が必要だ。
前方に横たわった燃えかすからは、詠唱こそ続いてはいるが、何の動きも見て取れない。
ヴォラクは突然、背後にぞっとする気配を感じた。
振り向いた彼女の眼前には、ヒルダの怜悧な黒い瞳が光っていた。
ヒルダはヴォラクに組み付くと、そのまま地面に押し倒す。
彼女は右の手のひらを、ヴォラクの左肩、人間と緑竜の境目の部分へと押し付けた。
「そんな。声は、確かに前方から……」
ヴォラクは、はっと気付いた。
そうか。
「エコー」、こだまの呪文。
声だけは分身から発するように設定しておいて。
本体は私の背後に回って、すでに呪文を唱え始めていたという事か。
しかも、アバターを二体も同時に操れる魔導士が存在するとは。
彼女もまた、規格外。
そして、どちらか一体が本物だと思い込んでいた私のミス。
ヴォラクが、初めて怒りの感情を爆発させた。
「この汚らわしい異世界転生者が。イアニスも、あなたも、絶対に許さない。どこまでも、憎んでやる」
ヒルダは右の首筋に、ジーンとした熱い痛みを感じた。
ヴォラクの左腕の緑竜が、自らの意思をもってヒルダの首筋に牙を立てている。
私の「核撃」って、まだ接近戦特化型のままなんだよなあ。
悪魔相手だもの、叩きこもうと思ったらこうなっちゃうわよね。
まあ、分かってはいたんだけれど。
緑竜がヒルダの頸骨を噛み砕くより一瞬早く、彼女は呪文の詠唱を終えた。
「……螺旋の、理を断て!」
爆裂。
ヴォラクの左肩は跡形もなく吹き飛び、豊かな左の乳房からわき腹に至るまでが、深い熱傷のようにただれていた。
ヴォラクの左腕の緑竜は、本体からもぎ取られた断末魔の衝撃で、そのあごを深くかみ合わせた。
そのままヒルダの首筋を食い破ると、ぼとりと地面に落ちる。
それはすぐにしゅうしゅうと嫌な音を立てながら、緑色のしみへと溶解していった。
仰向けに倒れたヒルダは、自分が声を出せないことに気付いた。
気道そのものを損傷したのか。
右の反回神経をやられたのか。
あるいは、激痛による心因性失語なのか。
首を向けることもできず、わずかに目だけを動かして、そばでうつぶせに倒れているヴォラクを見る。
眠ったような彼女の横顔は、安らかで優しかった。
先輩。
あなたはさっき、私を憎いといった。
それでも、いいんです。
憎しみでもなんでも、感情がまだ残っているのならば。
それが、あなたが生き続ける動機になるのなら。
いくらでも私を憎んでください。
そりゃあ生きてれば、つまらないこともありますよ。
だけどたまに、凄く晴れてて気持ちのいい日があるんです。
それこそ、リョーコとデートしたくなるような。
決して、曇りの日ばかりじゃありませんよ、先輩。
ああ。
声さえ出れば、あなたに伝えられるのに。
「何、いまの爆発音?」
思わず歩みを止めたリョーコに、フリッツが険しい顔を向けた。
「行きましょう、リョーコさん。すでに誰かが、戦いを始めています」
すでに終わっているかも、とは、同行していた王宮騎士カレンもさすがに口には出さなかった。
若くして多くの戦いに参加してきた彼女には、今の轟音が魔法に由来するものだと想像がついていた。
とすれば、向こうで戦っている者たちの中に魔導士がいる。
魔導士は、大抵初撃で決着をつける。
魔力すなわちライフ・フォースに限界があるのと、魔導士自身の防御力に難があるために、長期戦では不利だからだ。
とにかく、急ごう。
踏み出しかけた一行の後方から、足音が聞こえた。
何者かが駆けてくる。
複数。
そして曲がり角から飛び出してきたのは、黒いボディスーツの豹のような男。
高速で疾走してきた男の燃えるような赤い髪が、たいまつのようになびく。
それに続いて駆けてきたのは、鎖かたびらに増加装甲を張り付けたいわゆるコンポジット・アーマーを装着した、騎士然とした大男である。
兜をかぶっていないその頭には、牛のような短い角が、黒い髪の間からのぞいている。
二人の男は目にもとまらぬ速さで一行の脇をすり抜けると、彼らの前方で急停止して振り向いた。
アドラメレクとの戦いでまみえた、赤髪ゴーグルの男ランディ。
そして彼に仕える悪魔、アバドン。
お互いをよく知らぬが故の皮肉な成り行きが、四人と一柱をこの場で引き合わせていた。