第四四話 キャスターズ・バウト
「お友達が異世界転生者だって教えてくれてありがとう、ヒルダさん。これで心置きなく」
ヴォラクは、かつては左手であったところの緑竜の頭を、白く伸びやかな右手でゆっくりと撫でた。
「殺せるわね」
悪魔の標的は。
特定の子供たちと、異世界転生者。
おぼろげながら、見えてきた。
「先輩、あなたはどうして異世界転生者を殺しているんですか? 元カレだったっていう人と、何か関係があるようにも思えるんですけれど」
ヒルダは、あえてヴォラクとは呼ばなかった。
もう昔に戻れる望みはないと、分かってはいたが。
「話せば長くなるんだけれどね。私、彼に殺されそうになっちゃったから。それでまあ、最初は復讐の意味もあったのよ」
ヴォラクはそう言って自嘲気味に笑った。
「でも今は正直、どうでもよくなっちゃった。私を助けてくれた人が殺せっていうから、そうしているだけで。他に別段、やることもないしね」
「そんな理由で」
ヒルダはヴォラクに暗鬱なまなざしを向けた。
どんな目に合えば、ここまで心が折れてしまうのだろう。
「でもね、異世界転生者って確かにひどい連中よ。この世界の人たちの事を、部品か何かのようにしか考えていない。女を道具としか見ていない男が許せないみたいな感覚、女のあなたにならわかるでしょう?」
同意を求めるヴォラクの言葉を、ヒルダは完全に否定することはできなかった。
他人を利用して、自分の虚栄心を満足させる。
そしてそういう奴らに限って、自分が悪を行っていることを全く自覚していない。
この世界でも、いやというほど味わされ続けてきた。
孤児として生きてきた私の周囲は、奪われ、捨てられ、虐げられた子供たちばかり。
自己中心的な強者に振り回される弱者。
でも。
そんな掃きだめのような毎日の繰り返しの中で、私は彼女に出会った。
頼れるものもない冷たい世界の中に、たった独りで転生してきたリョーコ。
きっと数えきれないほどの夜を、暗い部屋の中で膝を抱えてうつむいていたのだろう。
それでも彼女は、フリッツ君のために戦うという。
彼の事を、好きだという。
私はリョーコの、そんな馬鹿正直な純情さを信じてみようと決めた。
先輩。
あなたはきっと、まだそういう人に出会えていないだけ。
「先輩、厳しい言い方をさせていただきます。たまたま悪い男に引っかかったからって、すべての男がそうだとは思わないでください。先輩の言っていることは、つまるところそういう事でしょう?」
ヴォラクは笑みを消すと、目をすうっと細める。
「あら。やけに異世界転生者を擁護するじゃない、ヒルダさん。じゃあ、あなた自身はどうなの?」
「……私、ですか」
「とぼけなくてもいいわよ。あなたも悪魔を傷つけることができるんでしょう? それって、そういうことじゃない」
そう。そういうことだ。
「別の角度から説明してもいいわよ。あなたはそのリョーコさんが異世界転生者だって、どうして分かったの? 彼女が自分から話してくれた?」
「いえ。彼女は、誰にもそれを話していないはずです」
「それじゃあ、あなたは彼女の言葉のはしばしから、彼女が異世界転生者だってことを類推することができたのね。ということは、あなたは異世界の知識をその子が持っているということを識別できたことになる。それはすなわち、あなた自身が異世界の知識を持っていることの証明になる」
さすが、総代さん。
おっとりした顔して、学生の頃よりもさらに数段冴えている。
これではっきりした。
先輩は、私とリョーコを殺しに来ている。
上等じゃない。
リョーコは、私が守る。
悪魔からも、フリッツ君からも。
「その通りです、ヴォラク。私もまた、あなたが殺すべき異世界転生者」
ヒルダは悪魔を、ついにその名前で呼んだ。
「やっとその気になってくれたか。そうでなくっちゃ」
ヴォラクはにっこりと笑って、その呪われた名を受け止めた。
「ところであなたの悪魔を破壊できる呪文、前代未聞の代物ね。その知識、誰かに教えてもらったの?」
「いえ。異世界からの持ち込みですよ」
「核撃」。
体組織を悪魔のそれに変化させる改変遺伝子の構造を破壊し、自然界ではありえない速度で、細胞の自己崩壊すなわちアポトーシスを励起する。
「……そうなんだ。じゃああなたも、何らか使命をもってこの世界に送り込まれたの? 私の、元カレのように」
異世界転生者の中に少なくない数の侵略者がいるというヴォラクの認識は、間違っていない。
そして、その侵略者たちを守るボディガードという、最低の任務。
「かつてはそうでした。でも、今は」
「今は?」
「その使命は捨てました。元カレに裏切られたという先輩には、とうてい信じてもらえないとは思いますが」
ヒルダの言葉を聞いてもヴォラクは疑念や怒りを口にすることもなく、ただ、ぼうっと冬の海を眺めていた。
「……そっか。ううん、いいのよ。自分から聞いといてなんだけれど、実はもうあまり興味がなくて」
ヴォラクはこりをほぐすように、首筋を右手でさすった。
「異世界の侵略からこの世界を守るだとか、そういうのってやる気でないんだよね。元々私、郷土愛や母校愛なんていう共同体に対する愛着って薄かったし。あ、これは家族もか」
ヴォラクは我に返ったように、視線をヒルダに戻した。
「でもね。私、仕事に対しては忠実よ。理屈だけ並べて仕事ができない人って、格好悪すぎるよね。不言実行、いい言葉だわ」
ヴォラクは地面に置いたストロベリー・シェイクの水筒を、ぐしゃりと踏みつぶした。
ヒルダも、ゆっくりとマフラーを外す。
「どうやら、話はここまでのようですね」
「ええ。可愛い後輩が異世界転生者だったなんて、ちょっとびっくりだったなあ。申し訳ないけれど、後輩だからってえこひいきはしないわよ」
「もちろんです。総代なんて役目は、公明正大でなければ務まりませんものね」
ヴォラクがゆっくりと右手を差し出した。
呪文が来る。
学生時代の先輩の模擬戦は、下級生である私たちの講義でも例題に使われたほどの語り草になっている。
圧倒的な威力の攻撃魔法を連続で繰り出し、相手に攻撃する隙を与えない。
攻撃は最大の防御。
先手必勝。
言葉にすれば単純だが、それを達成するためには、相手をはるかに上回る魔力、知識、技術、センスが必要であるのは言うまでもない。
先輩は、初撃で決めてくる。
対する私は。
防御して、カウンターだ。
攻撃に絶対の自信を持つ彼女は、それが無効化されれば必ず動揺する。
私には、それが出来るはず。
先に口を開いたのは、ヒルダだった。
「君、角なる晶もて光折り散らせ!」
魔力で形成された力場が、ヒルダの周囲の景色をゆがめる。
ヴォラクはひゅうと口笛を吹いた。
「フォースフィールドか、速いわね。けれど!」
ヴォラクは舞うように一回転しながら、呪文を詠唱した。
「其、激粒気尖裂!」
「其、激粒気尖裂!」
一瞬遅れて。
「其、塵破脈岩昇!」
ヒルダは、自分の判断の誤りを悟った。
ごおん、という分厚い金属板を叩くような鈍い音とともに、ヒルダの左右の空間が水面の波紋のように波打つ。
直後。
ヒルダの目の前の地面が破裂し、飛来した礫岩が彼女の額を直撃した。
ヴォラクが静かに唇を湿す。
血潮を引きながら、ヒルダは仰向けにどうと倒れた。
痛みと動揺から、自分を必死に取り戻そうとする。
何という予想外。
規格外といってもいい。
私が一つ詠唱する時間で、三つの呪文を。
しかし驚愕を実際に言葉にしたのは、ヴォラクの方だった。
「凄いわ、ヒルダさん。単独の呪文で左右同時に防壁を展開できる人なんて、初めて見た。私が連続で攻撃魔法を唱えることを、予測していたんだ」
予測はしていた。
二撃までは。
だから、左右から同時に襲ってきたエアカッターは防御できた。
だが最後の一撃、グラウンドアッパーまでは読めなかった。
「しかも、本命の呪文も威力が減弱されている。詠唱時間が長い分、一つ一つの呪文の威力については、私より上か」
ヒルダはようやく起き上がった。
鼻筋から顎にかけて流れる血が生暖かく、気持ち悪い。
「……めちゃくちゃ速いですね。アカデミーで誰も勝てなかったわけだ」
「あら、学校にいた時はもっと遅かったわよ。私はあなたみたいな天才じゃないから、努力で補っただけ」
鋭い言葉とは裏腹に、ヴォラクはやはり麦わら帽子が似合いそうな純朴な笑顔を絶やさない。
「言ったでしょ、私は仕事には妥協しないって。しょせん、学生は遊び。社会人になってから、ようやく自己研鑽の自覚が芽生えたってところかしら」
才能と努力に裏打ちされた、絶対の自信。
「ヒルダさんも、もうすぐ卒業でしょ。先輩風吹かせるのもなんだけれど、あなたもそろそろ、社会人として気を引き締めなくっちゃあね。もっとも、この場を生き残って卒業できたら、の話だけれど」
空を覆っていた雲が少し裂け、差してきた光の帯がヴォラクを明るく照らした。
白い翼を軽く広げた彼女は、緑竜の左腕を除けば、天使そのものに見えた。