第四話 追加注文はお好き?
「いらっしゃいませー」
店の扉に取りつけられたベルが、からんと乾いた音を立てた。
はっきりとした目鼻立ちに顎のラインがすっきりとした、端正な顔立ちの女性だ。
生気にあふれてきらきらと輝いている、大きな黒い瞳。
マッシュショートにした黒い髪が、クールでキュートである。
その女性はボーイッシュな外見に違わず、闊達な足取りで店の中に入ってくると、カウンターに向けて片手を挙げた。
「おっはよー、リョーコ。聞いたわよ、昨日のこと。大丈夫?」
「さんきゅ、ヒルダ。この通り、ピンピンしてますよーだ」
二人は、顔を見合わせて笑った。
ヒルダと呼ばれた若い女性はつかつかと歩み寄ってくると、いたずらっぽくリョーコの顔をのぞき込む。
「夜中に抜け出して、気絶してたんだって? どっかのいい男と、あいびきでもしてたんじゃないの?」
まあ、たしかに。
美少年と会ってはいたけれど。
あれは断じて、あいびきなんかじゃない。
「何言ってるのよ、ヒルダ。アンナちゃんていう、小さな女の子も一緒だったし。最近物騒な事件多いでしょ、怖かったんだから」
ヒルダは手を合わせて、笑いながら謝った。
「冗談、冗談。でも真面目な話、リョーコは誰かと付き合った方がいいと思うんだけれどなあ。そんなに美人なんだし、もったいないよ。いい人、紹介しよっか?」
「ご遠慮しときます。ヒルダみたいにたくさんの人とお付き合いするなんて、多重人格者じゃなきゃやっていけないわ」
ヒルダは、その抜群の容姿に加えて開放的な性格から、同性異性を問わず人気が高い。
それ故、その手のうわさにも事欠かない。
「あら、私は自分を相手に合わせたことなんてないわよ。相手が私に、勝手に合わせてくれるんだから。それに第一、私は付き合ってるつもりなんてないし。みんな、いいお友達よ」
すまし顔で答えるヒルダを見て、リョーコはため息をついた。
ヒルダ本人はそのつもりでも、言い寄る男女たちは、たまったものじゃないだろうなあ。
まあ、自業自得ともいえるが。
「はいはい。それでヒルダ、今朝はいつものホットドッグ?」
「うん、一つお願い。あと、ミックスフルーツジュースももらおうかな。ここのホットドッグ、本当に飽きないのよね。さすが、レイラさんだわ」
まったくもって同意見。
レイラさんのパンは、それだけでおかずになるレベル。
「了解。今日は朝から、アカデミーの授業?」
「うん。もうすぐ卒業でしょ、単位がぎりぎりなんだよねー」
リョーコはホットドッグとジュースを紙袋に詰めながら、ヒルダを軽くにらんだ。
「もう、ヒルダったら。魔導士アカデミー始まって以来の秀才のくせして、素行不良で落第寸前なんだもんね。ちょっとは自重しなさいよ」
アカデミーとは、王立の教育機関である。
魔法や冶金、芸術などの多岐にわたる専門的な素養を持った者を、幼少期から集めて訓練を行い、卒業後は王国の各機関に編入することを意図して設立されている。
その中でも特に魔導士アカデミーと治癒師アカデミーは、素養を持つ者自体も少なく、卒業もまた狭き門であった。
そして落第しなければ、通常は二十四歳で卒業である。
ヒルダはだるそうに、あくびをかみ殺した。
「ふぁい。昨日もバイトで深夜まで踊ってたから、眠くて眠くて」
「ヒルダ、またデッカーズクラブで踊ってたの? もしかして、例のあんな格好で……」
リョーコは、一度だけヒルダに連れて行ってもらったそのクラブでの、彼女の官能的な踊りを思い出していた。
あれって、ほぼ下着だけみたいな衣装だったよね……
でも、ヒルダのダンスは本当に最高だったけれど。
ヒルダは、にっこりと笑った。
「リョーコもやってみる? あんたスタイル抜群だから、お客さん喜ぶわよー」
「じょ、冗談。あんなにたくさんの好奇の目にさらされたら、私死ぬ」
ヒルダは、少し真顔になった。
彼女なりのプライドを、わずかに傷つけられたのかもしれない。
「そうかなあ。私の身体を見て元気になってくれるんだったら、それはいいことなんじゃないかなあと私は思うけれど。これも、一種の魔法だよ」
そう言ってヒルダは、リョーコにウィンクした。
「リョーコも疲れたら、いつでも私に連絡して。思いっきり、慰めちゃうから。リョーコって、私のタイプなんだよねー」
リョーコは真っ赤になった。
こいつは、危険だ。
思わず、頼みそうになったじゃないか。
リョーコは、ホットドッグの入った紙袋をヒルダに押し付けた。
「もう。馬鹿言ってないで、早くアカデミーに行きなさい。遅刻しちゃうわよ」
「へいへいっと」
その時、再び店の扉がからんと開いた。
「あ、いらっしゃ……」
リョーコの声は、そこでぴたりと止まった。
店の中に入ってきたのは。
白いハイネックのセーターに、黒いショートコート。
針金のような細い脚に、ぴったりと合った革製のスラックス。
きちんと磨かれた、黒い革靴。
あの時との違いがあるとすれば、赤く光っていた瞳は今は深い黒であり、その二本の犬歯も伸びていないことであった。
「うっそ……可愛い」
先に声を上げたのは、ヒルダの方だった。
なんと。
向こうからやってくるとは。
その美少年はショーケースの中をのぞき込みながらカウンターの方へと歩いてくると、何気ない口調で言った。
「こんにちは。シナモンロールを三つ、お願いします」
無表情の少年に、リョーコはたまらずに言った。
「き、君。一体、何しに来たの」
少年は、本心から驚いたようだった。
「……まさか。お姉さん、僕の事を覚えているんですか?」
リョーコはそばにヒルダがいることも忘れて、少年にまくしたてた。
「忘れるわけないじゃない。いきなりキスなんかしといて!」
少年は困惑した表情で、顎に手を当てて考え込んだ。
「こんなケースは初めてだけれど……何らかの、操作が? 果たして、そんなことが」
「何ぶつぶつ言ってんのよ! あのアンナちゃんって子、本当に大丈夫なんでしょうね!?」
少年は顔を上げると、リョーコにシナモンロールとは別の注文をした。
「お姉さん。もう一度、キスさせてくれませんか?」
リョーコの顔が、完全に凍り付いた。
「な、な……」
少年は店内を見回すと、一人合点にうなずいた。
「そうですね。人目につくところでは、ちょっとはばかられますよね。それじゃまた、いずれ。まあ、特に急いではいませんので」
少年は踵を返すと、扉へと向かった。
「そうそう、シナモンロールはまた買いに来ますね。こちらのパン、美味しいって評判ですから」
そしてからんという乾いた音とともに、少年は屋外に消えた。
固まったままのリョーコは、ようやく我に返った。
びしびしと痛いほどの視線を背後から感じた彼女は、恐る恐る振り返る。
「ちょっと。リョーコ」
「あ、あはは……」
「あんなとんでもない美少年と知り合いだなんて、どういう事? いきなりキス? もう一度キスをさせてくれ? 一度じっくりと、説明してもらう必要があるわね」
「ヒルダ、落ち着いて。目、据わってるよ」
「これが落ち着いていられるかっつーの! もう私、うれしいやら、くやしいやら。おめでとう、マイ・ハニー!」
発狂し始めたヒルダを、懸命になだめるリョーコ。
「ほ、ほら、ヒルダ。急がないと、授業に遅れちゃうよ?」
その一言で、ヒルダははっと正気を取り戻した。
「あーそうだった。単位ね、単位。じゃあ続きは後日、絶対に語っていただきますからね」
ヒルダは代金をカウンターの上に置くと、ホットドッグをほおばりながら、疾風のように店の外に飛び出していった。
からんという音とともに、扉が閉まる。
「あ、ありがとうございましたー」
ベーカリー兼カフェ「トランジット」の店内に、ようやく静けさが訪れた。