第三七話 はりついた笑顔のままで
その石造りの地下室は、密談程度を行うには十分以上の広さがあった。
壁に吊り下げられた複数のランプをもってしても、部屋の隅々はなお薄暗い。
中央にはマホガニー製の大きな丸テーブルが据え付けられていたが、その他の調度といっては三脚の椅子のほかには何もない。
テーブルの上質さがなければ、地下牢といってもいいほどに殺風景な部屋である。
そしてテーブルを囲んで座っているのは、三つの人影。
その一人、白い法衣で頭の先から足元までをすっぽりと覆った人物が、部屋の空気より重い沈黙を破った。
「同志ヴォラク、同志ランディ。日頃のあなたたちの働き、感謝しています」
若い男の声だった。
静かだが、確固たる意思を宿した声。
その声に呼応して、もう一人の男が立ち上がった。
炎のような赤い髪を後ろに撫でつけ、表情を大きなゴーグルで隠している。
男は口を強く引き結ぶと、深々と頭を下げた。
「ルシファー様。このランディ、まずはお詫びを申し上げなければなりません。先日の、アドラメレク様をお守りできなかった件」
ルシファーと呼ばれた法衣の男はそれを片手で軽く遮ると、残念そうに首を振った。
「彼女は我々の任務に忠実でしたが、同時に野心家でもありました。仲間内での序列といった些事に敏感で、私の事もあるいは、うとましく思っていたのかも知れません。それでも私は、彼女を失ったことを深く悼みます」
ランディは、悪魔アドラメレクとの会話を思い返した。
確かに彼女には、権勢欲があった。
悪魔を滅ぼせる力を独占して、他の悪魔より優位に立とうとしていたのだ。
白い法衣の男はランディに着座を促すと、言葉を続けた。
「しかし、彼女は我々に貴重な情報をもたらしてくれました。この世界に、フリッツ以外に悪魔を消滅させる力を持つ者が現れたという事実をです。それも、二人も」
そうだ、あの二人。
バフォメットの肉体を破壊した、長刀を振るう剣士リョーコ。
アドレメレクの腹部を吹き飛ばした、魔導士ヒルダ。
「我々悪魔は、この世界の力では滅ぼされることはありません。ゆえにその二人は、異世界からもたらされた力を使用している、あるいは異世界転生者そのものだと考えられます」
自らを悪魔と名乗ったルシファーは、話題に上った二人の女性をそう断じた。
「……異世界転生者」
それまで沈黙していたもう一人の人影が、初めて反応をみせた。
軽く目を閉じた、まるで居眠りでもしているかのような若い女性。
深緑のローブに身を包み、両ひざを立てて椅子の上にうずくまっている。
かつては腰まで長かった栗色の髪は今や短く、彼女の白磁のような横顔を、ともすると少年のように見せていた。
「そうです、同志ヴォラク。我々悪魔がこの世界から根絶すべき、異世界転生者です」
ヴォラクと呼ばれた女性は、静かに眼を開いた。
「……奴らは、殺しても殺してもわいてくる。害虫を根絶するには、巣をつぶすのが一番だと思うのですけれど。全面戦争さえできれば話が早いのですが、ルシファー様」
「それができればどんなに良いことかと思います、同志ヴォラク。ですが、まだお互いに軍隊を送り込めるだけの技術は持ち合わせていない。ですから」
白い法衣のフードの陰から、わずかに紫色の眼光がきらめいた。
「いかに相手の力をそぎ、こちらの力を蓄えるか。こちらに侵入してくる異世界転生者を殺す。異世界へと流出することになるこちら側の潜在的転生者を、子供のうちに殺す。それらの積み重ねが、いずれ必ず起きる異世界間戦争の行方を左右することになるでしょう」
ふわあ、とヴォラクはあくびをかみ殺した。
「この世界を守る、ですか。私、元気のある前向きな人って、昔から苦手で」
間延びした反応のヴォラクに、ルシファーは辛抱強く言葉を続けた。
「元気などありはしませんよ。はるか昔から続く異世界との終わりなきパワー・ゲームに、私も正直疲れています。しかし、それを放棄するということは、この世界を異世界に明け渡すことです」
ランディは思った。
この世界を守る方法。
もちろん、入ってくる奴と出て行く奴をすべて殺せばいい。
しかしそんなことは、どだいできるはずがない。ルシファーが言うとおり、エンドレスだ。
ならば、どうするか。
簡単さ。
ドアを閉じればいい。
彼の思惑をよそに、ルシファーが力強く宣言する。
「この世界を守ることが、唯一の正義であり大義です。たとえ転生が人為的であってもなくても、それが女子供であっても、この世界にとっての異物はすべて排除します。悪魔の名にかけて」
ヴォラクは、幾度となく繰り返されてきた議論に退屈していた。
別に、異世界なんかどうでもいい。
もっと言えば、この世界もどうでもいい。
つぶし合って、どちらも無くなっちゃえばいい。
「それで、ルシファー様。その異世界の力を持つ二人、どう対処いたしますか」
ランディの問いに、ルシファーは即答した。
「むろん、排除します。例外はありません」
その返事をあらかじめ予期していたのであろう、ランディはすぐに一つの議案を提出した。
「ルシファー様。ここに、一つの可能性があります」
ゴーグルの向こうにあるはずのランディの視線は、分厚いレンズに遮光されて見えない。
「何でしょう、同志ランディ」
「その二人、もしかするとフリッツを滅ぼすことが可能なのでは?」
ルシファーも失念していたわけではなかった。
フリッツ、か。
アンデッド・ヒーラー。
我ら悪魔の邪魔をする、不確定要素。
「フリッツ。まったく、彼こそは我々と志を同じくしているというのに。異世界転生者はためらいもなく殺すのに、潜在的転生者である子供たちを殺すのは許せないなどと。片手落ちにも、ほどがあります」
それは、ランディも腑に落ちない点であった。
ルシファーの失望交じりの声に同調する。
「奴が最初に死ぬ直前に、何を記憶に刷り込まれたのかは分かりませんが。私情で動いているだけに、頑固で厄介な存在です」
フリッツの名前には、さすがのヴォラクも反応せずにはいられなかった。
彼女の脳裏に、赤く燃える暗い瞳と二本の犬歯が浮かび上がる。
私の元カレを殺した少年。
でも今では、フリッツみたいな人間も、ありだと思うようになった。
正義とか大義とか、そんなあやふやなものを振りかざして人を殺すっていうあんたたちの方が、どうかしている。
フリッツなる少年は、あの時私に言った。
「憎かったから殺した、それだけです」と。
まさしくその通りだわ。
憎しみとか嫌悪とか、そういう確かなものがなきゃ、人を殺しちゃいけないでしょ。
なおも議論を続ける二人に、ヴォラクは心の中で冷笑を送った。
そんな彼女の心中も知らないまま、ランディはゴーグルを押し上げると、ルシファーに疑問を呈した。
「しかしルシファー様。奇妙なことに、リョーコとヒルダという二人は、フリッツとはきわめて近しい関係にあるようですが」
ルシファーはふんと鼻を鳴らした。
「その答えは簡単です。フリッツは、その二人が異世界転生者であることを知らない」
ランディは大きくうなずいた。
「ご明察です。だとすれば、私がフリッツにそのことを教えてやればどうなるか。奴は、勝手にその二人の女と殺し合うでしょう」
フリッツのこれまでの行動原理からして。
奴が、異世界転生者を生かしておくことはないだろう。
「ひょっとすると、フリッツの方が滅ぼされるかもしれません。そうなれば、不死でもないただの異世界転生者の女二人などは、いつでも処理できます」
ルシファーはしばし沈思黙考していたが、かすかにうなずいて同意を示した。
「なるほど、うまい手ですね。そうなれば、労せずして」
言いかけたルシファーの言葉を、緑衣の女性がさえぎった。
「だめよ、そんなの」
珍しく強い口調で抗議する女悪魔に、ランディが驚いて問い返す。
「何故ですか、ヴォラク様。悪くない考えだと思ったのですが」
「あなたたちには結果が全てでしょうけれど、私には過程が全てだから。手段が目的、といってもいい。私から任務を奪ったら、何が残るっていうの」
両膝ごしにのぞく彼女の鋭い眼光に、他の二人は黙るほかはなかった。
やがて、ルシファーがゆっくりと立ち上がる。
「わかりました、同志ヴォラク。それでは、異世界転生者の女の処分、あなたにお任せしてもよいのですね?」
ヴォラクは椅子からぽんと飛び降りると、満足の笑みを浮かべた。
「ええ、ご命令承りました。それに、私自身にも少々因縁がありますので」
ルシファーはフードをかぶった頭をわずかに上げた。
「ほう、どのような」
栗色の髪の魔導士は、含み笑いで答えた。
「ヒルダさんって娘。私の、かわいい後輩なんですよ」
ルシファーが地下室を出て行った後で、残っていたランディがためらいがちに口を開いた。
「ヴォラク様、せめて私も助力しましょう。アバドンもおりますし」
ヴォラクは横を向いたまま、面倒くさそうに右手を振った。
「ヴォラクでいいわ、ランディ。あなたって、私と同い年くらいでしょ」
ランディは、栗色短髪の女悪魔を見つめた。
あんなことがなければ。
彼女は、本来なら二年前に魔導士アカデミーを卒業していたはずだった。
在学中は、総代を務めるほど優秀であったとも聞いている。
ということは、今は二十六歳か。
悪魔の年齢などに意味があるとすればだが。
「ええ、ヴォラク様。正確には、あなたが私より二つ年上ですが」
ヴォラクはそっぽを向くのをやめて、ランディの顔を上目づかいに仰ぎ見た。
思わず、視線を逸らすランディ。
一瞬彼は、自分のゴーグルが黒く遮蔽されていることすら忘れていた。
「たった二つ違いか。だったらお互いに敬語なんてやめようよ、ランディ。私、戦い以外で疲れたくない」
そう言ったヴォラクの目は、意外にも真剣みを帯びていた。
そしてランディはランディで、彼女の言葉に安堵を覚える自分に戸惑っていた。
赤髪の男は頭を一つ振ると、背筋を伸ばした。
「わかった、そうさせてもらう。じゃあ改めて言うが、俺に君の助勢をさせてくれないか」
ヴォラクはやや不機嫌そうに口を尖らせた。
「どうして。私が負けるから?」
ランディは石造りの天井を見上げた。
「わからない、なぜだろうな。ただ、君には一人で戦って欲しくない」
ヴォラクはきょとんとし、次に腕を組んでにやりとした。
「なあに、それ。あなたも私をだまそうとしているの? 男の人って、いやあね」
言葉とは裏腹に、ヴォラクの表情は明るい。
「そんな風に聞こえたか」
仏頂面で答えたランディに、ヴォラクは挑むような視線を送る。
「ふふ。私が悪魔になったいきさつ、ルシファー様から聞いているんでしょ?」
「ああ。最低の異世界野郎の話をな」
ヴォラクは微笑みながら、右の拳でランディの胸をぽんと叩いた。
「気を使ってくれなくてもいいのよ、ランディ。私、壊れてはいるけれど冷静よ。わかってる、だまされた方が悪いんだもん」
この馬鹿野郎が。
「君は何一つ悪くない。俺が言えるのは、それだけだ」
「ありがとう、ランディって優しいのね。いままであまり話したことなかったから、分からなかったけれど」
無邪気に喜んでいるように見えるヴォラクが、ランディのゴーグル越しに痛みとして映った。
「優しい、か。そんなわけないだろうが。偉そうなお題目唱えてたって、しょせん俺はただの人殺しだ」
「あら、人殺しと優しさは矛盾しないわ。それは全く別の要素よ」
「よしてくれ。そんな風だからだまされちまうんだよ、お前さんは」
言ってしまって、ランディは後悔した。
あまりのもどかしさに、つい余計なことを。
しかし、ヴォラクの笑顔は崩れることなくそこにあった。
退屈な午後の一瞬を切り取った油絵のように、動かなかった。
「大丈夫よ、ランディ。もう私は誰にも期待しないし、約束もしないわ。だから、これ以上傷つくこともない。そりゃあ泣いていたときもあったけれど、もう涙なんてとっくに枯れちゃったわ」
そうさ。
異世界転生者の男なんて、例外なく最低な奴らさ。
ランディは気持ちを切り替えるように、燃えるような赤い髪を後方へと撫でつけた。
「いらないおせっかい、すまなかったな。任務の成功、祈ってる」
ヴォラクは深緑のローブから右手だけを出して、彼にピースサインを送った。
「了解。成功したらうんとほめてね、ランディ」