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第三六話 帰らない時間

 扉のベルが、からんと乾いた音を立てた。

 朝の繁忙時間が過ぎてようやく休憩を取ろうとしていたレイラが、バンダナをつけ直しながら慌てて立ち上がる。


「あ、いらっしゃいませ……」


 店に入ってきたのは、革製のベストを着た剽悍な戦士だ。

 左胸には、この街の自警団員であることを示す双頭の蛇の紋章。

 男は無精ひげの生えた口元をほころばせながら、軽く片手をあげた。


「よっ、レイラさん。久しぶり」


 緊張を解いたレイラも、微笑みながら片手を小さくあげて、それに応えた。


「あら、リカルドじゃない。久しぶりねえ、仕事帰り?」


 リカルドは白い歯を見せて、右の親指を立てた。


「ああ、夜勤明けでさ。美味いパンでも食べてから、帰って寝ようと思って」


 夜勤明けか。

 レイラはつかの間、王国軍に所属していた昔の自分を振り返った。

 臨戦態勢の交替勤務、不規則で大変だったなあ。

 寝不足って、てきめんに肌に現れるのよね。


「そうだったんだ、お疲れさま。空いてるところ、適当に座ってて。コーヒーは……、寝る前だからやめとこうか。リカルド、ミルクティーでいい?」


「ああ、助かる。俺、実は甘党だからな」


「なによ、今更。そんな事、とっくに知ってるわよ」


 リカルドは空いた席のひとつに座ると、担いでいたバックパックを机の上に下ろした。


「なあに、それ」


「いやな、この前悪魔が出た『緑竜寮』って施設の先生が、助けてくれたお礼に皆さんで、って。あそこの生徒たちがみんなで栽培しているんだと」


 リカルドが開けたバックパックの中から、真っ赤に熟れたリンゴがごろごろと転がり出てきた。


「まあ、すごい」


 目を丸くするレイラ。


「リョーコちゃんと少年くんの分、預かってきたのさ。あの時の二人の、悪魔との戦いっぷりといったら、それは凄かったぜ。もしかしてレイラさん、リョーコちゃんたちに戦い方を教えてやってるのかい?」


 レイラは肩をすくめた。

 リョーコとフリッツ君、一緒に出掛けるかと思ったら、デートもせずに剣撃の練習ばかりで。

 これはこれで、若い二人には不健康な状況だと思うんだけれど。


「まさか。彼ら、独学よ。しかも、二人とも一年前より昔の記憶がないってんだから。まったく、記憶喪失になる前は何やってたのかしらねえ」


「え。リョーコちゃんだけじゃなくて、あの少年くんも記憶喪失なのかよ。そんなにしょっちゅうあるもんかねえ、記憶喪失ってやつは」


「さあて、どうかしら」


 ただの病気じゃなさそうだとは、何となくわかるけれど。

 たとえ訳ありだとしても、彼らが話したいと思うまでは、あえて尋ねる必要もあるまい。

 彼女たちがそばにいてくれるという現実に、今の私は救われているのだから。

 

「そういえば『緑竜寮』って、たしかリョーコの友達のヒルダさんって女の子がいたところよね」


 レイラの口からヒルダの名前が出たことに、リカルドは年甲斐もなくどぎまぎした。


「レイラさん、よく知ってるな」


「あの子、うちのホットドッグをいつも買いに来てくれるから。リョーコとの立ち話も、自然と耳に入っちゃうのよ。危険なくらい仲がいいわよ、あの二人」


「なんだよ、危険って。でもそうか、ヒルダちゃんはここの常連なのか。そいつはいいことを聞いたぜ。俺、あの子の追っかけなんだ」


 レイラはぷっと噴き出した。


「やあだ。リカルドったら、いい年して」


「何言ってんだ。レイラさん、俺とたったの二つしか違わねえじゃねえか。まあ、君の方がかろうじて年下ではあるが」


 リカルドは現在三十二歳、レイラは三十歳である。

 付け加えるなら、レイラの夫レオニートはリカルドと同い年であった。


「ふふ。じゃあ、レイラさんなんてかしこまった言い方、よしたら? それこそ昔の王国軍時代みたいに、レイラって呼び捨てでいいじゃない」


「はは、そうだなあ」


 そいつはなかなかむずかしいぜ、レイラさん。

 君は、レオニートの奥さんなんだから。

 いつまでも、昔のままじゃいられないさ。


 ああ、くそう。

 レオニート、いい加減早く戻ってきやがれ。


「リョーコとフリッツ君、今お使いに行ってて留守なのよ。だから二人には、後で承諾を得るとして」


 レイラは舌を出して、いたずらっぽく笑った。


「せっかくのリンゴ、お言葉に甘えて少し頂いてもいいかしら。アップルパン、出来たら後で家に届けてあげるから」


「お、いいねえ。ほら、好きなだけ持っていってくれよ」


 王国軍時代か。

 あの頃の君は、今よりもずっと長い金髪だったよな。

 リンゴを抱えて厨房へと向かうレイラの背中を、リカルドはまぶしそうに見送った。






「リカルド。私ね、最近殿下とお会いしたのよ」


 ミルクティーのカップを両手で包みこんだまま、思い出したようにレイラが言った。

 口に運びかけた自分のカップをテーブルにおいて、リカルドが眉をひそめながらたずね返す。


「殿下って、エリアス殿下のことか?」


 レイラが微笑しながらうなずいた。


「ええ。五年ぶりだったけれど、お元気そうだったわ」


 リカルドは懐かしそうに目を細めた。

 彼自身はエリアスとの直接の接点はほとんどなかったが、親友であったレオニートは、ことあるごとにエリアスの自慢話をしていた。

 リカルドが軍を辞めたすぐ後で、レオニートは志願して、エリアス直属の近衛隊に転属となったのだ。

 お前も軍に戻って殿下に命を捧げろ、などと酔って絡むレオニートの姿が思い浮かび、リカルドは思わず笑みがこぼれる。


「お会いしたって、そりゃあ何でまた」


「それがね。この前軍の資材部にパンの納入に行ったら、殿下自らが納入物品の確認をしておられたのよ。もうびっくりしちゃって」


 ふうむ、とリカルドは唸った。


「あの仕事嫌いで有名な殿下が、ちょうど君が来た時に限って事務仕事か。それは、もちろん口実さ。殿下、君に会いたかったんだろう」


「ん、どうしてかな」


 すでに分かっているような口調で、確認するようにたずね返すレイラ。


「皆まで言わせるなよ、もちろんレオニートの事さ。殿下、奴のことで責任を感じてる」


 レイラは、ゆっくりと頭を左右に振った。

 柔らかな金髪が流れる。


「レオニートが行方不明になったのは、別に殿下の責任じゃないわ。いなくなったその理由だって、家族の私にすら全く分からないのよ」


「だがな、レイラさん。レオニートは、エリアス殿下のことを誰よりも心配していた。そんな奴が、殿下を置いていなくなったりするか?」


 それは、レイラもずっと考えていたことだった。

 殿下を守ることを、生きがいとしていた夫。

 その殿下を捨てるなんて、ありえない。


「……そうね。やっぱりどこかで死んじゃったのかな、あの人」


 寂しく微笑みながらうそぶくレイラを見て、リカルドはやり切れない気持ちになった。

 つい、声が大きくなる。


「馬鹿なこと言うんじゃないよ、レイラさん。俺はね」


 リカルドは、テーブル越しにレイラの方へと身を乗り出した。


「奴が誰にも言えないような、極秘の任務を今も抱えてるんじゃないかって思うんだ」


 レイラは腑に落ちないように、首をかしげた。


「極秘任務。じゃあそれって、殿下と何か関係があるような? 例えば、王位継承権がらみとか」


「分からん。だが今の王室には、別段表立って波風は立っていない。現ゴダール王にはご兄弟はいないし、第一王子のオラシオ殿下と第二王子のレイナルド殿下は、ともに穏やかなお人柄だ。第一王女のロザリンダ殿下は研究肌で、政治にはご興味のないお方だし」


 ん。

 レイラは何か引っかかるものを感じた。

 ロザリンダ殿下。

 この前、話題になったばかりのお名前ね。


「そういえばリカルド、そのロザリンダ王女の事なんだけれど。殿下が治癒師だったって、あなた知ってた?」


 初耳だった。


「ロザリンダ王女が治癒師? いったい、誰がそんなことを」


「先日ここに、治癒師アカデミーの理事長のジェレマイア様が、フリッツ君を訪ねてきてね。その席上で、彼がリョーコとフリッツ君に話したらしいのよ」


 リカルドは腕組みをしながら考えこんだ。


「マジか、王族に治癒師が……。君や俺みたいな特務部隊員にも知らされてなかった情報だな、そいつは」


 横道にそれだした話を、レイラが引き戻す。


「でも、リカルド。王族同士の継承権争いなんて、とても考えられない。みんなオラシオ第一王子が次期王だって疑わないし、私だってそうよ。こと王位継承権第四位のエリアス殿下については、申し訳ないけれど誰も眼中にないわ」


 ふむん、と鼻を鳴らすリカルド。


「そうだな。殿下が陰謀に巻き込まれるような理由は、全くないな」


「そうよ。それに万が一そうだとしても、エリアス殿下が私に隠すような理由もないし。だから、レオニートが殿下がらみの極秘任務にあたっているなんてのは、あなたの思い過ごしよ」


「そう、かな」


 レイラは組んだ両手の上に形のいい顎をのせて、リカルドを優しく見つめた。


「リカルド、ありがとう。なんだかんだ理由をつけて、あの人が生きているって私を励ましてくれてるんでしょ?」


 リカルドは視線を合わせないままで、そっけなく返事を返す。


「よせよ。『レイラ・ザ・ウィンドミル』に励ましが必要かい?」


 レイラは陽だまりのように笑って目を細めた。


「あら。私だって弱気になるときがあるのよ、『リカルド・ザ・アイアンフィスト』」






「フリッツ君。こういう大人の会話の時って、お邪魔しちゃだめだよね?」


 カフェと売り場を隔てたドアの陰にぴたりと張り付きながら、リョーコがフリッツに意見を求めた。


「お邪魔どころか、本来盗み聞きしちゃだめな場面だと思いますが」


 そうたしなめているフリッツも自身も、リョーコと一枚の板のように密着して聞き耳を立てている。


 むむ。フリッツ君、近い。

 こんな手足が絡み合うスキンシップゲーム、あったわね。

 確か、ツイスターゲームとかいうやつ。

 異世界くんだりまで来て、美少年とこんな不謹慎なゲームが出来るとは。


 いや、ゲームを楽しんでいる場合じゃない。


「何よ、フリッツ君だって盗み聞きしてるじゃない。同罪よ」


「僕はただ、あのお二人のことが心配で」


「大人の微妙な関係を、十八歳の君がどう心配するっていうのよ」


 まあ、恋愛経験皆無の私には、なおさら心配のしようもないのだが。


「でも、リョーコさん。お二人の会話の中に、重要情報がありましたよね」


 え、どれだろう。


「レイラさんがアップルパンをメニューに加えるって事?」


「そこじゃありません。行方不明のレイラさんの旦那さん、レオニートさんがエリアス殿下という王族の方と深い関係にあったという事です」


「え。深い関係」


 こめかみを押さえるフリッツ。


「リョーコさん、こじらせすぎて腐ってきましたか。さっきの話、聞いたでしょう? レオニートさんがエリアス殿下に献身的な忠誠を注いでいたって事」


 そういわれても。

 リョーコには、どのあたりが重要情報なのかが今一つ腑に落ちない。


「えっとね。さっきから出てくるエリアス殿下って、私知らないんだけれど。フリッツ君、まるで会ったことがあるような口ぶりね」


 フリッツはうなずいた。


「僕、実際にお会いしているんです。そのエリアス殿下に」


 驚いたリョーコが訊き返す。


「殿下ってことは、王族よね。君、そんな方とどこで会ったのよ」


「レイラさんが軍へのパンの納入の話をしていましたよね。それに僕も一緒についていったんですが、そこでお会いしたんです。くだんのエリアス殿下は、第三王子、王位継承権第四位にあたります」


 うーん。

 エリアスって聞くと、どうしてもファム友のエリオット君を思い出しちゃうのよね。

 私の記憶にあるエリアスって、彼だけだから。

 忘れることができないって、本当にやっかい。


「それでですね。レイラさんとリカルドさんのお二人は、エリアス殿下についてはやや頼りない、守りたくなるようなお方という認識のようなんですが」


「なるほど。フリッツ君の印象は、ちょっと違うと」


「まあ一度お会いしただけですから、軽率なことは言えませんが。決して、凡庸な方ではないと思います」


 フリッツは、エリアスの丸眼鏡の下のとび色の瞳を思い出した。


 君は、自分の治癒魔法という力について、どう思っている?

 単なる興味だというエリアスのその質問は、フリッツの心の闇を確かにえぐり出していた。

 あの質問は、殿下にとってどういう意味があったのだろう。


「じゃあそのエリアス殿下が、行方不明のレオニートさんについて何か知っているとか?」


「そうなると、エリアス殿下がレイラさんに隠し事をしていることになりますが。でも、ちょっと頭の片隅にとどめておきたいことではあります」


 リョーコは微笑した。


 悪魔アドラメレクと戦ってから後、フリッツが行ってきたという人殺しについて話題にすることを、二人はどちらともなく避けてきていた。

 それは、いずれ必ず向き合わなければならないことだけれど。

 今だけは、レイラさんやレオニートさんの事を気にかけている、優しいフリッツ君のままでいて欲しい。


「了解。今の話、覚えておくわ」


 それにしても、近頃のフリッツ君。

 やれ殿下やら理事長やら、偉い人に立て続けに会っている感じだけれど。

 これって、偶然なのかしら。

 私も一度、そのエリアス殿下とやらに会ってみたいわね。


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